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第七章 仁城君《インソングン》邸の攻防

「あとで借りは必ず返す。今は何も言わずに、馬だけ貸してくれ」

「……シア様」

 キョンガンの手前か、どう呼ぼうか迷ったと思しきののち、ミョンギルが口をひらく。

「あ、悪い。もしかしてこの妓楼、うまやはないのか」

「いえ、ありますが……」

 モゾモゾと言い淀むミョンギルが、何を考えているのかはシアには分からない。

 しかし、ミョンギルはそれ以上何か言うことなく、「分かりました」と告げた。

「すぐに外へご用意致します」

「ありがとう。支度したら俺もすぐ出る」

「わたくしも行く」

 透かさずそう言ったのは、キョンガンだ。だが、シアは加減もせずに彼女を睨み付けた。

 睨み付けられた彼女は、捻りもせずに不満を表情と口に出す。

「何だ、その目は」

「失礼なようだけど、あんた、戦闘の経験は?」

「鍛錬なら積んでいるし、馬にも乗れる」

「実戦経験があるかって訊いてんだ」

 着替える為に一旦部屋を出てもらおうと、ミョンギルに手で合図しながら、キョンガンも押し出すように彼女の肩を押す。

「何をするのだ、実戦経験は……」

 その場に留まろうとする彼女を無理矢理押し出しながら、シアは冷ややかに問いを重ねた。

「お母上を生かしてお助けしたければ、正直に」

 貞淑チョンスク姉を助けたければ、という言葉に反応したらしい。一瞬口籠もったキョンガンは、不承不承という顔をしたのち、「……ない」と端的に答える。

「じゃ、ここで待ってるんだな」

「でも」

「あんたが一緒じゃ足手まといなんだよ。翁主慈駕オンジュチャガは必ず助けるから」

「だがそなた、仁城インソン叔父上の屋敷がある場所を知らぬだろう!」

 言葉を呑むのは、シアの番だった。

 都へ来てからの二ヶ月で、ざっくりした立地は把握してあるが、どれが誰の屋敷かまではまだ調べ切れていない。

 寸分の狂いもなく、彼女の言葉は事実である。返す言葉もない。が。

「案内は、あたしがするわ」

 とシアの代わりに答えたのは、聞き覚えのある声だった。

 室外から飛び込んで来た声のぬしが、入室の許可も得ないまま、障子戸を開ける。

「えっ」

 障子戸の向こうから現れた顔に、シアは目を見開いた。

「嘘だろ、まさか」

「ゆっくり再会の挨拶してる暇ないでしょ」

 凛と告げたのは、彩映楼チェヨンルを出てから会っていなかった、ペク・ガオンだ。

仁城君インソングン様のお屋敷なら、あたしも知ってる」


***


 これまでカオンがどうしていたのか、なぜ彼女が睡蓮楼スリョンルにいるのか、どうして今さっきあの場に居合わせたのか――訊きたいことは山程あったが、シアはすべて呑み込んだ。

 今は、貞淑姉の救出が最優先だ。

 じっくり変装する余裕はなかった。本来の性別の姿のまま、髪はうなじの辺りで纏め、首元へ巻いた長い布を口元までずり上げて、顔の下半分を隠したシアは、やはり男装で、頭頂部で髪を結い上げたカオンに続いた。

 城壁をグルリと一巡りし、検問が厳しくなさそうな城門を突破した二人は、連れ立って仁城君邸の前まで来た。と言っても、最初から屋敷の真ん前へ行ったりはしない。

 馬は、カオンの提案で、なぜか右捕盗庁ウポドチョンに置いて行くことになった。彼女は、『ここの大将テジャン様とは懇意だから』と言って、シアの馬まで纏めてさっさと預けていた。

「――あそこが、仁城君の屋敷よ」

 人が聞いていないと見たのか、カオンは仁城君を呼び捨てにしている。

 彼女が示す屋敷の、道を挟んで筋向かいの建物の陰で、二人は仁城君邸へ目を向けていた。

「そう言やお前、何で仁城君の屋敷の場所なんか知ってんだよ」

「あんたとは情報収集の角度が違っただけよ」

「なるほどな」

 はあ、と一つ息を吐いて、無意識に側頭部を掻き上げる。

「じゃ、世話んなったな。借りは必ず返すから」

 ふと生まれた一拍のに、「何だよ」とチラリと彼女に目を向けた。胡乱げな目でシアを見上げていた彼女は、「何でもない」と変わらない口調で続ける。

「あんた、その調子で助けてもらう人全員に借り作ってたら、返済地獄で喘ぐことになるわよ」

「本来なら借りる予定のないことだったんだよ、クソ王子がおかしなことやらかさなきゃな」

「……あんたも苦労するわね」

「まったくだ。じゃあな」

 いい加減で彼女との会話を切り上げると、シアは物陰から移動を開始した。仁城君の屋敷の隣にある屋敷の外周から、その裏手へ回る。

 昼間だからか、王子の邸宅にしては、門前にも見張りはいない。

 シアは、人通りがないのを見澄ますと、跳躍して塀へ飛び付いた。懸垂の要領で、頭の上半分だけを塀の頂より高く持ち上げ、敷地内へ視線を走らせる。

 ちょうど植え込みの陰になる所であることを確認すると、素早く塀を飛び越えた。

 姿勢を低くし、気配を殺して植え込みの陰へ身を潜めながら、庭先へ改めて目を向ける。裏庭にしては、思ったより彷徨うろついている人数が多い。それも、一人一人がある程度、荒事にけていそうな雰囲気だ。

(……まあ、あんな物騒な招待の仕方したんじゃ、警戒して当たり前か)

 それにしても、とシアは先刻見た、仁城君からと思しきふみの内容を思い返す。

 仁城君は、シアがどういう素性か知っているようだった。知らなければ、貞淑姉を拘束してまでシアを名指しで呼び出す理由がない。

(それに……)

 お前の姉を一人殺した、という文言は、どういう意味だろう。まさかすでに、貞淑姉を殺したということはないと思いたい。貞明チョンミョン姉は、貞淑姉が送って行って、安山アンサンにいるはずだ。

 その安山には、寺院を運営しているという貞正チョンジョン姉がいるらしい。その貞正姉の寺院へ、母と貞明姉を匿うという話だったから、貞正姉も除外されると思うが、ほかの姉たちについては、安否を知らないから考えようがない。

 シアはふと、自分が守るべき家族が、意外に多いことに気付いた。覚えず、舌打ちが漏れる。

 都へは、自分が陥れられなくてはならなかった理由と、養父・フィギルがなぜあんな風に死ななくてはならなかったかを突き止めに来たつもりだった。その元凶である、イ・イチョムやキム・ゲシ、チョン・ハンたちに報復できればと、ただそれだけのつもりだったのに――

 息をいて、頭を切り替える。今はとにかく、貞淑チョンスク姉を捜すのが先決だ。仁城君インソングンと対面するつもりなど、最初からない。

 貞淑姉も『会ってはだめだ』と言っていたし、具体的なことはキョンガンから話を聞いただけだが、要は話が通じないたぐいの人間だろう。彼が『殺した』と主張する『姉』の話は気になるが、確かめるのは貞淑姉の安全を確保してからでも遅くはない。

 向かって左手へと進んでいくと、やがて建物が曲がり角で途切れ、向こう側に大門が見えた。通路を挟んで植え込みが続いていて、その先には目の前の建物以外にどこか、人を隠せそうな所は見当たらない。

(――となると……)

 考え事をしながら、つい無精して、植え込みから首を伸ばしたところで、その辺を歩いていた男の一人と目が合ってしまう。

「何者だ!」

 返答の代わりに一つ舌打ちして、茂みから飛び出す。声を上げた男の側頭部へ、刀を鞘ごと叩き付けた。

 裏庭にいたのは全部で十数人。ざっと目で人数を確認すると、彼らが身構えるより先に、シアは抜刀して自分から男の群へ突っ込んだ。

 これだけの人数を相手にしては、残念ながら相手を殺さずに済ませることは厳しい。ここを逃げ切るだけなら手加減もできたが、今はまだ、ここに留まってやらなければならないことがある。

 男たちの隙間を縫うように駆けながら、頭をカラにして刀を振るう。完全に不意を突かれた格好になった男たちは、碌々反撃もできないまま次々に倒れた。

 最後の一人に襲い掛かり、足払いを掛けると、男の胸部を足で叩き付けるように押さえ、目の前へ刀の切っ先を突き付ける。

「答えろ。翁主慈駕はどこにいる」

 切っ先に怯えるような表情をした男は、悔しげにシアをめ上げるが、唇を噛み締めるだけで答えない。

「もう一度だけ訊くぞ。翁主慈駕の居場所を教えろ。あんたが死んだところで俺は困らない。彼女の居場所を捜すのに手間が掛かるだけだ」

「その手間を掛ける必要はない」

 不意に背後から声がして、シアははじかれたように振り向く。自然、足下の男の拘束は疎かになり、足を跳ね上げられた。

 身体の均衡を崩しそうになるが、すんでのところで軸足を折り曲げ後ろへ飛び退く。そのに、足下にいた男は、声のぬしのほうへと駆け去った。

 着地して立ち上がりながら、声のほうへ改めて目を向ける。

 そこには見知らぬ男と、私奴サノらしき男に、後ろ手に拘束された貞淑姉がいた。

(姉上)

 口に出しそうになって、危うく呑み込む。姉のほうも、『ウィ』と唇だけで言ったが、音にはしなかった。

「イム・シアだな」

 確認するように言った男は、絹でできた黄土色の中致莫チュンチマクを身に着け、かぶったカッには玉飾り(カックン)が下がっている。

 輪郭は面長で顎は角張っており、がっしりとした鼻筋と肉付きのよい唇が、その逞しさとは裏腹な品の良さを漂わせていた。瞳は一見清涼な風のように爽やかに見えるが、よく見ると奥底には猛禽類のような鋭さが見え隠れしている。

 広い肩幅を持つ大柄なその男は、手にしていた刀をスラリと抜くと、貞淑姉の首筋へ刃を当てた。

「まずは刀を捨てろ。さもないと、大事な姉上に傷が付くぞ」

「……仁城君……様、ですか」

「そうだ」

 初めて会うその男は、仁城兄に間違いないらしい。

「あなたにとっても翁主慈駕は姉上でしょう」

「ふん。やはり貴様、イ・ウィだな」

「何を仰っているのか、分かり兼ねます。とにかく、わたくしが来たのですから、翁主慈駕を解放してください」

「そうはいかない。貴様がきちんと私の要望に応えなければ、姉上は返せぬ」

 シアは、落としていた腰を上げ、背筋を伸ばすと、刀を放り捨てた。

「ッ、……!」

 ウィ、と再度言い掛けたらしい姉は、またギリギリのところで口を噤む。だが、空気の動きで、仁城兄はそれに気付いたらしい。

「ここでは何だ。部屋へ上がろう」

「仁城君様」

「姉上も人の目が気になって、仰りたいことを仰れないようだ。貴様もな」

 言うや、仁城兄は周囲に連れていた配下に顎をしゃくる。駆け寄って来た男たちに肩先と腕を掴まれ、シアは姉と共に、舎廊房サランバンへと歩かされた。

 舎廊房は、両班ヤンバン屋敷では、その家のぬし居所きょしょとしているむねだ。

 その周囲には数人、誰も彼も半端でなく腕の立ちそうな男がいる。彼らは、警戒しながら周辺に目を光らせていた。

 一緒に来た男たちはシアを小突き、貞淑姉も共に舎廊房へ押し込まれるように入る。

 シアは下座へ座らされた。姉のほうは上座へ引き立てられ、仁城君のすぐ傍へ膝を突かされる。

 姉を引っ立てていった男が、彼女の首筋に刃を当てる。それを見届けたあと、仁城君は上座へ腰を下ろした。

「コンよ。仮にも姉であるわたくしにこのような仕打ち、許されると思っているのか」

 最初に口を切ったのは、貞淑姉だ。すると仁城君は、クスッと嘲るような笑いを漏らした。

「姉上こそお忘れですか。わたくしは宗簿寺チョンブシ都提調トヂェジョですよ? その立場は、姉弟きょうだいとしてのそれより上に来ると思いますが」

 だからこそ、姪を斬り殺しても許容されるのだ。そんな含みがあった気がして、シアは無意識に拳を握り締める。

 我が子を殺された姉は、今にも仁城君を殺したいと言わんばかりに、彼を睨み据えた。

 しかし、仁城君はこたえた様子も見せず、「さて」とシアに向き直る。

「もう一度訊くぞ。お前は、ウィだな」

 シアは、顎先を引いて沈黙を返した。姉にはあっさりバラしたが、この兄にはそうはいかないだろう。だが、逡巡の理由を見越したように、仁城君は姉に刀を突き付けた男に目配せする。

 男は、その刀をこれ見よがしに姉の首筋へ押し当てた。彼女の細い首筋に、刃が食い込むのが見て取れる。

「返答は慎重にしたほうがよいぞ。私は姉を殺しても、職務上やむを得ない場合は赦免される立場だ」

 姉は小さく首を振って見せた。けれど、もう限界だろう。

 シアは姉から仁城君に視線を移し、「その通りです」と口にした。

「それで、仁城兄上は、私に何をお望みなのです」

 何が逆鱗に触れたのか、仁城君は歯を剥き出すようにしながら、肘を突いていた四方枕サバンチム〔脇息〕に拳を叩き付けた。

「気安く呼ぶな! 貴様に兄などと呼ぶのを許した覚えはない!!」

「許されなくとも、紛れもなく血は繋がっております。私が今、王族の地位を剥奪されていたとしても、私たちは父を同じくする兄弟ですが」

「それが腹立たしい! 何故なにゆえ八年前、おとなしく焼け死んでおらなかったのだ!」

「こちらも伺いたい。何故なにゆえそう、私を憎んでおいでなのです。今日初めて兄……仁城君様にお会いした私が、あなた様にいったい何をしたと?」

 顎を引き、固唾を呑むようにして相手の出方を見守る。こちらのどんな発言がどういう刺激になるか、まったく読めない。こんな相手は初めてだ。

 爛々と光った瞳の奥に、シアに対する憎悪が燃えているのだけはよく分かるが。

 兄も、唇を噛むようにしてシアを睨んでいたが、やがてその表情は無を取り戻したように見えた。

「貴様は……貴様の母は、私から父上を奪った」

「奪った?」

 眉根を寄せて、鸚鵡返しに問う。

「左様だ。私は幼い頃から父上に可愛がられていた。信城シンソン兄上ほどではなかったがな」

 信城君シンソングンは、貞愼チョンシン姉や貞淑姉らの母である仁嬪インビンが産んだ王子だ。一時は父・宣祖ソンジョ世子セジャ候補にも挙がっていたほど寵愛されていたと、貞淑姉から聞いたことを思い出す。

「だが、私が十四の頃だ。貴様の母が継妃ケビとしてしてきた。その時、私も光海クァンヘ兄上も……ほかの兄弟も皆、父上に見捨てられた。いや、違う。貴様の母・西宮ソグンめが、父上を皆から奪い取ったのだ」

 ジロリと兄の目が、シアを見据える。その瞳は、滾る憎しみで濁っていた。

「そうして私は十五の時にはもう、完全に捨てられた。挨拶に行く私が疎ましかったのか、早々に王子妃揀擇(カンテク)が行われ、婚姻と同時に宮殿をわれたのだ」

 揀擇とは、王族の伴侶選びの儀式のことだ。

「懐妊していた西宮は、私の婚礼から二ヶ月後、ランファを産んだ。王女だったというに、父上は西宮とランファしか目に入っておらなかった……」

 爪が食い込みそうに拳を握り締めながら、仁城君はうっすらと不気味な笑みを浮かべる。

「だがな。我が母もその年の内には懐妊したのだ。父上は母上を見捨ててはおられなかったと分かって嬉しかった。翌年にはヨンが産まれ、これで少しは父上も母上や私のことも思い出していただけると……」

 ヨンとは、仁城君の同母の弟で、仁興君インフングンのことだ。シアには異母兄に当たるが、やはり顔を合わせたことはない。

「だのに、西宮も同じ年、子を産みおった!」

(えっ?)

 シアは、眉根を寄せた。シアには、同母の姉は貞明しかいない。彼女とのあいだは三つ離れているから、貞明の一つ下の子というのが自分ではないことは確かだ。

 そんなシアの疑問を余所に、仁城君は憎しみを吐き出し続ける。

「またも王女だった! 母上はの子を、王子を産んだと言うに、父上からはお座なりなねぎらいがあったきりだった! だから、いなくなればいいと思うたのだ!」

「……まさか……では、あの文にあった、『姉』というのは」

「そうだ! 貴様の下の姉は、この私が手を掛けた! だが、誤算だったな。あの異母妹の頓死の所為で、貴様が産まれた時はより万全を期すとかで守りが堅くて……赤子の内に殺せなかったのはどうにも口惜しかったが……ふふっ、代わりにイチョムたちがやってくれたわ」

 クックッ、と思い出し笑いのように楽しげに肩を震わせる兄に、シアは愕然とした。貞淑姉も、唖然としている。

「あなたはいったい……何を考えているんだ」

「……何?」

「姉上を……存在すら知らなかった姉上を手に掛けたのも許せないが、その姉上はあなたには妹だったはずだ。どうしてそんなことができる」

「……どうして、だと?」

 口許だけが笑いの形に固まった表情で、仁城君はユラリと立ち上がる。

 ペタ、ペタという音がしそうな足取りでゆっくりとシアに歩み寄る仁城君の手には、いつから持っていたのか、抜き身の短刀が握られていた。

「貴様に、何が分かる」

 クッ、と投げ出すように喉を鳴らし、シアの前に腰を落とした仁城君は、刀身の腹で、シアの頬をピタピタと叩いた。

「突然父上を貴様の母に奪われた私や、兄弟たちの気持ちが、貴様に分かるというのか。貴様は、父上が待ち望んだ嫡男という肩書きを生まれ持ち、それだけで父上に無条件に愛されていた。それがどれだけ光海兄上に恐怖を与えたか……産まれてきただけで兄上の地位をおびやかしたということすら理解していない貴様に、何が分かるというのだ」

「……だから、七庶獄事チルソオクサを黙認したのですか」

「黙認?」

「左様です。あなたは、あの一件がでっち上げだと分かっていたはずだ。だのに、それに乗じて、正当な揀擇を経て父上の正妃となった母上を廃し、貞明姉上まで庶人ソインに落とした」

 すると、仁城君は悪びれる様子もなく、短刀をシアの頬から離すとクルリと回した。

「ランファのことは、副産物で事故のようなモノだ。けどまあ、あの娘の没落を望まなかったことはないし、七庶獄事を黙認したというのは否定しないな」

「よくもそんなッ……!」

 反射で出掛かった罵倒を、どうにか呑み込む。けれど、仁城君を睨み上げる目の動きだけはどうにもならない。

 それが癇に障ったらしい仁城君も、目を細めてシアを睨め下ろした。

「……何だ、その目は」

 短刀の切っ先が、シアの目の前に向く。

「分かっておるのか、ウィ。貴様の態度次第で貴様の人生なぞ、簡単に終わることになるのだぞ」

 ヒュ、と風切り音を立てて円を描いた短刀の刃が、ピタリとシアの首筋に当てられた。

「いや……しかし、それでは詰まらぬな。貴様を殺す前に、まずは姉上を切り刻もうか。貴様が生意気な態度を取るたびに、端から切り落としていくのはどうだ。まずは手の指からだな」

 仁城君が、貞淑姉に剣を突き付けている男に目配せする。その一瞬――兄の視線がシアから逸れたその一瞬で、シアにはこと足りた。

 自分の首筋に当てられていた短刀を持った手を捻り上げざま、短刀を奪い取り投擲した。

「ぐぁ!」

 悲鳴が上がり、貞淑姉の後ろにいた男は目から短刀を生やし、悶える。

「貴様!」

 瞬間、貞淑姉は立ち上がり、背後の男から距離を取るが、もう一人の男に刀を突き付けられその動きを封じられる。

 しかし、その時にはシアも片膝を立てた状態で仁城君を抱え込み、その首に腕を回して彼の後頭部に手を当てていた。

「……動くな。あんたが姉上に妙な真似したら、兄上の首がへし折れるぜ」

「くっ、この……!」

「兄上もおかしな真似すんなよ。あんただって命は惜しいんだろ」

「ウィよ、貴様……貴様、まさか、この兄を手に掛けるつもりか」

「はっ、笑わせんな。つい今さっき、兄だと呼ぶのは許さないとか何とかホザいてたクセに、こんな時だけ兄貴(ヅラ)か? まったく、どいつもこいつも王族って奴はご都合主義が家訓みてぇだな」

 ギリ、と兄の首を締め上げる腕に力を込める。

「貴様とて王族であろう!」

「残念。今、俺は王族の地位は剥奪されてます。よって善良な一般庶民であって、王族ではありません」

「何が善良だ、こやつ……!」

 黙れ、と言わんばかりにシアは益々腕を締め付けた。

「おい、そこのあんた。今すぐ貞淑姉上の腕の拘束を解いて姉上を解放しろ。でないと、本当に兄上の首へし折るぞ」

「何を……!」

「できないと思ってるなら甘いぜ。残念なことに俺もこの、自分てめぇの妹をあっさり殺すよーな人でなしと血ぃ繋がってるんでな。気に入らなきゃ相手が兄貴だろーが、殺したって呵責なんかこれっぽっちも感じない」

 ギギ、と後頭部に添えた腕にも力を入れ、男を見据える。

「さあ、どうする? 兄上を殺した次の瞬間、俺ならそこまでの間合いを詰めるのにそうは要らない。姉上を助ける為には、ひとまずあんたを遠ざけりゃ足りるんだからな」

 遠ざける為の手段は言わなかったが、どうするかは男にも分かったようだ。だが男は、チラリと仁城君に視線を向ける。

「兄上に伺い立てんな。あんたと取り引きしてんのは俺だ、自分てめぇの頭で考えろ」

 言いながら、シアは兄の身体にやや体重を掛け、顔を下に向けさせた。

 これ以上時間が経てば、本当にあるじが死ぬと判断したのか。男は、悔しげに唇を噛み締めながら、貞淑姉の手を戒めていた縄を切った。

 即座に彼女は、手負いの男の取り落とした剣を奪い、もう一人の男に剣を向けるようにしながら距離を取る。仁城君とシアのほうへ小走りに歩を進める彼女の仕草は、堂に入っていた。

「早く、お逃げください」

 油断なく仁城君を締め上げながら、シアは鋭く促す。

「この先はご自分でご自分をお守りください。私は私で手一杯です」

「ウィ」

「早く行ってください、私に構わずに!」

 貞淑姉は、尚も迷うように逡巡したが、やがて意を決したように舎廊房を飛び出していった。

「……バカめ。外にいるのは鍛錬された私兵だ。箱入り王女程度の腕でどうにかなるものか」

 ククッ、と薄笑いを漏らす仁城君の喉元が動くのが、腕に伝わってくる。それを証明するように、程なく外が騒がしくなった。

(……クソ!)

 先刻見ただけの動きで、姉が意外に武術に精通していそうなのは分かった。だから、貞淑姉でも逃げるだけならどうにかなる、と思ったのが、見込み違いだったか。逡巡の隙に、仁城君が委細構わず手足を振り回した。

「ッチぃ……!」

 舌打ちと共に仁城君の首に回していた手をほどき、後方へ飛び退く。この体格差で本気で暴れられては、小柄なシアのほうが不利だ。

 離れた場所へ着地し、顔を上げると同時に、護衛の男が突っ込んで来た。やむなくシアも外へ飛び出す。

 障子を開けた途端、貞淑姉が庭先でひざまずかされているのが目に入る。彼女は背後へ腕をねじ上げられるようにして拘束されていた。

 一瞬、身体が硬直する。刹那、姉が目を見開いた。

「ウィ、後ろ!」

 シアも瞠目し、直後には身体ごと後ろを振り向く。右脇腹に衝撃を覚え、息が止まった気がした。

 姉の声で背後を振り向いたことにより、相手の目算はわずかに外れた。だが、その刀身の半分は、シアの脇腹に深々と食い込んでいる。

「ッ……!」

 歯を食い縛り、自分を攻撃してきた男の持つ刀の鍔元を押さえるように握り、刀をもぎ取るようにしながら、相手の鳩尾に思い切り蹴りを入れた。男が短い悲鳴と共に室内の壁へ叩き付けられ、その場へ倒れるのを見届けながら、シアは自身の右脇腹に食い込んだ刀を引き抜き、順手に素早く構える。

 直後、横から放たれた思わぬ殺気に無意識に身構えた瞬間、腹部へ衝撃が来た。息が詰まり、呻くもなく身体が吹っ飛ぶ。一瞬と思える浮遊感ののち、否応なく地面へ叩き付けられた。

「ッくっぅ……!」

 蹴り付けられた腹部を抱え込むようにして咳き込む。

 ウィ、と何度か呼ばれた気がしたが、よくは分からない。

 立ち直る隙も与えられず、肩先を蹴飛ばすように身体を仰向かされ、右脇腹の傷口を思い切り踏み付けられた。

「――――ッッ!!」

「やめて!」

「黙れ! 姉上にこやつの命乞いをする権利などない!」

 更に傷口に体重を掛けられ、声にならない悲鳴が喉からほとばしる。いや、痛みのあまり声など出ない。

「ッ、ぅ、……!」

「痛いか? 痛いであろうな。だが、私の心の痛みはそんなモノではない。光海クァンヘ兄上の恐怖もな。嫡男であるそなたが産まれて、光海兄上ばかりでなく、すべての王子が父上には用なしとなったのだ。産まれてきただけですべての兄たちをおびやかした罪を、まずは思い知るがいい」

「いい加減になさい!」

「黙れと言ったはずです」

 歯を食い縛って痛みに耐えるのに精一杯のシアには、貞淑チョンスク姉と仁城君インソングンがどんな状況で、どんな表情で会話をしているのか分からない。

 彼女の命知らず過ぎる言動を止めたくとも、それもかなわない。

「いいや、黙らぬ! そなたも仮にも王族でしょう!? 王族ならば、民の手本であるべきだ! 己の欲求にのみ従い、妹を手に掛け、弟を理不尽に痛め付けるなど、民の手本たる王族の行いではない!!」

「姉上など、ウィの弱点としてここへ連れて来ただけなのですよ!? わたくしの職務上、立場はわたくしのほうが上ということを、まずご理解ください!」

「立場など関係ない! 人としての行いを問うているのだ!!」

 仁城君の答えは言葉ではなかった。殺気が、先刻シアを襲った比でなく膨れ上がる。

 まずい、と思った時には、傷口に刺さっているような錯覚を覚える兄の足を掴んでいた。

「ッ……あ、んたの、狙いは……俺、だろうが」

 こちらを見下ろした仁城君を、どうにか睨め上げる。

 霞んだように思える視界の向こうにあるのは、まさしく鬼の形相だ。やがて、その口許だけが陰惨な笑いを刻む。

「……そうであったな」

 クッ、と喉の奥で笑ったと思うと、仁城君は、いつから手にしていたのか分からない刀を逆手に持ち、容赦なく振り下ろした。

「ッ、――――!!」

「ウィ! やめよコン、やめるのだ!!」

何故なにゆえやめねばならぬのです。ご覧ください、この苦痛に歪んだ顔を! 愉快ではありませんか」

 クックッ、と言葉通り愉しそうな笑い声を挟みながら、仁城君はシアの左肩に突き立てた刀を抉るように動かす。

「ぅ、あッ、あァあああ!!」

 やめてくれ、何でもするから、と口から出そうになる叫びを、辛うじて呑み込む。こんな――兄弟姉妹きょうだいを手に掛けても何とも思わない人外生物に、精神こころまで屈するのなど、それこそ死んでも御免だ。

 それでもいっそ、気を失ったら楽になれるのに――そう思った刹那、悲鳴が聞こえて、左肩の刀の動きが止まった。


***


「うぁ、あッ、あァア!!」

 右手をねじ上げられるように男に拘束された貞淑――イ・ミョンフィは、弟の悲鳴から耳を塞ぐこともできない。

「だめ、やめて!! やめて――――!!」

 とても見ていられなくて、目を瞑って懸命に首を振る。涙が滲みそうになるのを、必死で堪えた。

 なぜ、どうして、コンはこんなに残酷なのだろう。あの時だって、この弟は、ミョンフィの娘に――幼かった末の娘たち二人に、容赦なく刃を向けた。実際にその刃に倒れたのは、当時十四歳だった長女だったけれど、彼女たちは皆、この弟には実の姪だというのに。

 今だって、いくら父王の寵愛がウィに向けられたからと言って、仮にも自身と血の繋がった弟に、ここまでできる神経が理解できない。

(早く……早く抜け出さなきゃ)

 落ち着け、と自身に言い聞かせながら、ミョンフィは深呼吸した。闇雲に拘束を逃れようとしたところで、自由を取り戻したあと、自分がズタボロになっているようでは意味がない。

(一か八か……!)

 ミョンフィは、背中にねじ上げられた右手を正位置に戻すようにして、左半身を下へ向けて反転させた。

「えっ!」

 突如、不自然に体重が掛かった所為か、ミョンフィを拘束していた男が声を上げる。拘束が緩んだ瞬間、ミョンフィは男の腕を掴んで相手の足下を払い、そのまま相手の腕を引いた。

「うわっ!」

 思わぬ反撃に、男は何人かの仲間を巻き添えにしながらひっくり返る。

 ミョンフィは素早く起き上がり、右手にいた男から刀を奪い取りざま、チマを絡げて相手の鳩尾に蹴りを入れた。

 そして、流れるような動きでコンの首筋に刀を当て、男たちを睥睨へいげいする。

「動くな! 全員武器を捨てなさい! さもないと、そなたたちのあるじの首が裂けるぞ!!」

「姉上、」

「そなたも、ウィから離れて! 刀から手を放すの、早く!!」

「何のつもりです! 姉上は王女とは言え、最早降嫁して一両班(ヤンバン)の夫人となった身。しかも、夫が無期限謹慎中の身なれば、こんなことをしてただで済むとお思いですか!!」

「そなたこそ、よく考えるのだな。七庶獄事の真相がすべて明らかになったら、廃母論ペモロンを積極的に支持したそなたも、無事では済まぬ」

「真相など、明らかになりませぬ! それを明らかにしたら、光海兄上とて王位には座っておれませぬからな! 万が一、兄上がでっち上げだと知ったとしても、再調査など行われませぬよ!」

 言うなり、コンはウィの左肩から無造作に刀を引き抜き、ミョンフィの刀をはじく。

 取り落としそうになった刀を握り直して、ミョンフィは一歩後退した。

 着地点から飛び跳ねるようにウィの身体を飛び越え、コンに向かって間合いを詰める。牽制するように逆袈裟に刀を一閃させると、コンは軽く地を蹴り、二間にけん〔約三・六メートル〕ほど飛び離れた。

 先刻の、ウィを蹴り飛ばした動きといい、並の腕ではない。

「……誠、生意気ですな。王女のクセに、いつの間に武術など身に着けられたのです」

「王女と言えど、わたくしくらいの年齢なら、壬辰倭乱イムジンウェラン最中さなか安穏あんのんとしてはおられなかったのでな」

 不敵に微笑し、刀を構え直す。コンは、苛立ったように顔を歪ませた。

「……左様に、ウィが大切ですか」

「ええ。大事な弟よ」

「わたくしとて弟でしょう!」

「悪いが、そなたがわたくしの大切な娘たちに剣を向け、その一人を殺した時から、わたくしはそなたを弟と思ったことはない」

 悔しげに唇を噛んだコンだったが、やがてその唇に陰惨な微笑を浮かべた。

「……ウィが、大切だと仰いましたね」

「ええ」

「では、少々詰めが甘いのではありませぬか」

 何ですって、と問うように眉根を寄せる。コンは、後ろを見ろ、とでも言うように顎をしゃくった。

 戦いの最中さなか、目の前の敵から視線を外すなど、愚の骨頂である。

 だが、ミョンフィの背後にはウィがいる。しかも、普通の状態ではない、かなりの重傷を負った弟が。

 コンに意識を残しつつ、後ろへ振り向き、目を見開いた。

 男が一人、もうほとんど身動きできないウィの胸倉を掴み、彼の喉笛に切っ先を向けて、こちらを見ていた――まるで、ミョンフィを牽制するかのように。


©️神蔵 眞吹2025.

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