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第六章 誘拐

 玉聲楼オクソンルの裏口を出た途端、シアはまた深い溜息をいた。

 先刻、綾陽君ヌンヤングンに問い詰められた際に、道へ落としてそのままになっていた戦帽チョンモを拾い、かぶり直す。しかし、顔が隠れるとは言え、都を抜けた今、真っ昼間にこの妓生キセンの格好も目立ち過ぎる。

 やはりどこかでまたころもを換えなくては、と思いながら歩いていると、不意に脇道から伸びた手に、右上腕部を掴まれ息を呑んだ。

 引き寄せられる間合いに合わせて、透かさず左手で相手の喉元を掴む。同時に、何かがドサドサッ、ガシャン、と派手に音を立てて落ちた。視線をチラリと走らせると、布でまとめられた荷物と、刀だ。

 次いで相手に目を戻すと、目を見開いてこちらを見ている男と視線が絡む。相手は、どこへともなく姿を消していたはずのミョンギルだった。

「……何だ、あんたか」

 吐息と共に言って、手を放す。

「いつの間に消えてたんだ」

「……申し訳ございません」

 ミョンギルもまた、ホッとしたような息を漏らした。

「わたくしも綾陽君様とは面識がありますので、迂闊にシア様とわたくしに面識があると綾陽君様に知られるのは上手くないかと」

「……あー……あんたも反正パンジョンに勧誘されてんだっけ?」

 ミョンギルが取り落とした荷物と刀――城門を突破する間だけのつもりで、彼に預けていたものだ――を拾いながら訊ねると、頭上から「はい」という答えが振って来た。

「ところでシア様。これからどちらへ?」

 問われたシアは、瞬時目を丸くしながら顔を上げる。少し考えた末に、「……その辺で野宿かな」とポツリと答えた。

(……っても、しのげるのは数日だよなー……火のおこし方もそういやまだ知らねぇし)

 どうしても困ったら、迷惑は百も承知だが、またパンシクを頼るしかない。

 それとも、もうさっさと七庶獄事チルソオクサに関わった連中を殺して、逃げたほうがいいだろうか。

 だが、シアは内心ですぐにその考えを打ち消した。

 一番手っ取り早い方法ではあるが、真相が闇の中のまま過ぎる上に、ただ彼らを殺しただけ(・・)では、母と貞明チョンミョン姉の名誉も身分も回復されない。何より、報復としてはあまりにもつまらない。

 思考がどんどん短絡的且つ物騒な方向へ進みそうになる中に、不意にミョンギルの声が差し込まれた。

「宜しければ、睡蓮楼スリョンルへおいでになりませんか?」

「は? 睡蓮楼?」

 シアは、眉根を寄せてチラリとミョンギルを振り返る。紗の布で遮られたシアの表情はミョンギルには見えなかっただろうが、彼は真顔で頷いた。

「わたくしが、情報収集その他の拠点として運営している妓楼です。漢城ハンソンからは七里半〔約三キロメートル〕ほど離れておりますが」

「いや……」

 シアは、言葉を濁した。できれば甘えたいところだが、今日あったばかりの相手に、義理もないのにホイホイ頼るわけにもいかない。

「何か、気になることが?」

 沈黙が長かった所為か、ミョンギルが問いを重ねる。

「気になるっつーか……」

「何でしょう」

「それこそ気ぃ悪くしねぇで聞いて欲しいんだけど」

「はい」

「あんたに、何の得がある?」

「と言いますと?」

「俺を、その睡蓮楼とやらに逗留させて、あんたが得することがあるかって聞いてんの。……っつか、寧ろ俺の借り分が増える一方なんだけど」

 無理矢理にでも彼に得があると仮定すれば、永昌大君シアを手中に収めて、ミョンギル自身が反正を目論む、ということくらいだろうか。

 だが、先にわざわざ『反正を起こす気があるのか』とシアに訊ねたところを見ると、少なくともシアの意思を無視するつもりだけはないだろう。もっともそれも、シアにとって都合の良い仮説でしかないのだが――。

 他方、ミョンギルは、しばしポカンと口を開けていたが、やがて唇を波打たせて俯いた。かと思うと肩を震わせ、小さく吹き出す。

 クックッ、と声を殺す努力をしつつ、明らかに笑っているミョンギルを、しばらく唖然と見つめていたシアは、やがて胡乱げに目を細めた。

「……なぁにがおかしいんだよ」

「……ッッ、……ああ、失礼。わたくしとしては、貞淑チョンスク翁主オンジュ慈駕チャガおおせに従ったまでだったのですが……」

「姉上の?」

「はい。翁主慈駕方が都を出られたあと、必ずシア様をお守りするようにと。翁主慈駕のご命令に従う為には、わたくしの拠点においでいただくのが一番手っ取り早いと思っただけだったのですが……」

 ミョンギルの顔に残っていた笑いの残滓は、やがて苦笑に変わる。

「どうも、いけませんね。わたくし個人(・・・・・・)としても、放っておけない」

「どういう意味だよ」

「あなた様を見ていると、歩き始めたばかりの赤子が、切り立った崖の突端へ駆けて行くように見えてしまって」

「なっ、」

 シアは、再度唖然とした。

(コイツ、今何てった? 言うに事欠いて、……赤ん坊??)

「あんたなぁ!」

「とにかく、危なっかしくて見ておられません。大人としては(・・・・・・)、しかと保護して、安心したいと存じます」

「重ね重ね、あんたっ……!」

「それに、シア様から目を離したとあっては、あとあと、わたくしが翁主慈駕のお叱りを受けますので」

「あんたが姉上に怒られるからって、俺の知ったこっちゃねぇ!」

「しかし、野宿と仰せられても、持って数日では?」

 まさに痛い所を突かれ、シアは唇を噛んだ。一瞬の沈黙に踏み込むように、ミョンギルが言葉を継ぐ。

「つまり、行く当てがこれと言っておありではないのでしょう?」

「ッ……だから何だよ。それこそ、あんたには関係ねぇことだろ」

 言い捨てるや、シアは歩き出した。一拍遅れるように、ミョンギルがあとへ続きながら、続ける。

何故なにゆえそう、意地を張られるのです」

「別に意地なんて張ってねぇ。大体、あんたとは今日初めて会ったんだ。貞淑姉上が信頼するって仰るから、ある程度の信用はして大丈夫とは思うけど、理由もなく頼っていいわけねぇだろ」

 今度は、ミョンギルのほうが沈黙した。沈黙してはいるが、それでも付いて来るのは分かる。

 妓楼街を外れ、だだっぴろい平原の向こうに、ポツポツと民家が見えるような場所へ出て、シアはようやく足を止めた。

「……いつまで付いて来る気だ?」

 ミョンギルを振り向きながら、戦帽チョンモを脱ぐ。

 視線の先にある彼の顔は、凪いだ湖面のように静かだ。

「わたくしとしては、やはり睡蓮楼スリョンルへおいでいただきたいと存じます」

「だーからっ、それをして、あんたに何の得があるんだよっ」

「どうしても、放っておけぬのです」

「崖に突っ走ろうとする赤ん坊みたいで、危なっかしいからか?」

「そうですね」

 クス、と何度目かでミョンギルが苦笑をこぼす。

「ただ、それとは別に……先にも申し上げましたが、大君テグン様が元・王族という地位や、血筋の上に胡座あぐらを掻くような方でしたら、綾陽君ヌンヤングン様を見掛けて身を隠した時点で放置しましたよ。荷物はお返ししたかも知れませんがね」

 何と言葉を返していいか、分からない。シアが黙って目線だけを投げると、ミョンギルは一瞬閉じた唇をひらく。

「ですから、これはまあ……わたくしの勝手な、善意の押し付けと思って下さって構いません」

「善意の押し付けだ?」

「はい。お節介と言い換えてもよいかと」

「だったら、尚更甘えられねぇな」

 戦帽を放り捨てながら、シアはミョンギルに背を向ける。

「理由を伺っても?」

「そーゆーお節介野郎を一人知ってるんだよ。その所為で、そいつは命を落とした」

 脳裏に、否応なく養父の最期がぎった。それを無理矢理、意識の外へと閉め出しながら、シアは努めて淡々と言葉を紡ぐ。

「下手に寿命縮めたくなきゃ、必要最低限以外で俺と関わるのはやめとけ。今回の借りは折を見て必ず返す。じゃあな」

「では、大君様に関わり合う正当な理由があれば、おいでいただけますか?」

「はあ?」

 眉根を盛大に寄せながら、シアは思わずミョンギルのほうへ向き直った。

「どういう意味だよ」

「話すと長くなります。取り敢えず、まずは一晩だけの宿と思って、おいで下さいませ」

 息を呑んだように、シアは唇を引き結んだ。互いに、感情の読めない表情で半ば睨み合う。

 答えに詰まっていると、ミョンギルはまたも零した苦笑と共に言った。

「何でしたら、これで借りをお返し頂いても構いませんよ」

「……宿の当てに困ってる相手が宿借りて、何で借り返すことになってんだよ」

 訳分かんねぇ、と眉根を寄せるシアに、ミョンギルはニコリと笑う。

嫌がる(・・・)大君テグン様を、わたくしが無理矢理(・・・・)お泊めするのです。わたくしの要求を通すことで、大君様はわたくしに借りを返すことになるのでは?」

 眉間に寄ったしわが、益々深くなった気がした。

「……屁理屈……いや、屁理屈にもなってねぇぞ。何だ、その謎理論」

「しかし、わたくしが『大君様に関わり合う正当な理由』の話は気になる。違いますか?」

 ぅぐ、と喉の奥で詰めたような声を漏らしたシアが、ミョンギルに白旗を揚げたのは、程なくのことだった。


***


 仁城君インソングン――イ・ゴンは、薄暗い私室の中、とあるふみと向き合っていた。

 差出人は、匿名だった。

 その匿名の文によると、イ・ウィ、こと永昌大君ヨンチャンテグンが都に現れ、潜伏しているらしい。

 実は、ウィが生きているのではという推測は、あの憎き異母弟が死んだとされた頃から、一部の界隈では囁かれていた。所謂、公然の秘密というやつだ。

 コンとて、その頃から宗簿寺チョンブシ、及び司饔院サオンウォン〔宮中の食事担当部署〕の都提調トヂェジョをしていた関係で、情報網はそれなりに構築している。その情報筋によれば、病死とされるウィは実は焼け死んだらしいこと、なのにその焼け跡からは、彼の遺体は見つからなかったことが分かっている。

 だから、あの異母弟がやはり生きていた、ということには驚かない。不確定だった事実が、やっと確定したというだけのことだ。

 コンは、文机の手近にあった火鉢に目をやり、そこへ文をポンと放った。ややあって、文がのたくりながら炎を纏い、まるで苦しむように全身をくねらせながら灰になるのを、無感動に見つめる。

 差出人に興味はない。興味があるのは、今度こそあの異母弟に、とどめを刺すことだけだ。

 肝心の居場所が分からなければ、息の根を止めることはできないが、文にはご丁寧に、コンがそれまで知らなかった情報までこまかくしるされていた。その中には、どうも貞淑チョンスク姉が、ウィと接触したらしいということがしたためられていた。


***


「大君様は、ご自身が陥れられた、七庶獄事の全容はご存じですか?」


 ミョンギルがそう切り出したのは、彼が朝餉を運んで来た席でのことだった。

 すでに、簡単に身支度を済ませていたシアは、眉尻をピクリと跳ね上げる。

「陥れられた……って、やっぱりあれ、でっち上げなのか」

「左様です」

 ミョンギルの口から語られた事件のあらましは、先に義禁府ウィグムブで見た資料の通りだった。ただ、細かいところはやはり違ったし、資料に載っていないこともあった。

 盗賊として捕らえられた七人は、この国に於ける庶子の扱い――たとえば、嫡子でなければ家督を継げない、受けられる科挙の種類が限られる、など――の改善を求め、それを聞き入れてもらえなかったことで自棄やけになっていた為に、強盗殺人を繰り返していたようだ。

 本来なら、彼らが捕縛されればそれで終わるはずだったところ、ちょうどその頃、永昌大君失脚の名目を模索していたイチョムを始めとする大北派は、一計を案じた。

 取り調べに先立ち、強盗の首領、パク・ウンソを籠絡、嘘の自白を了承させることに成功したという。その結果が、あの資料に載っていた、ウンソの供述だ。

「更にイチョムは同時進行で、この事件の責任者だった当時の左捕盗庁チャポドチョン〔※補盗庁=現代で言う警視庁〕大将テジャン、ハン・フィギル殿に、王へ『彼らは永昌大君を推戴すいたいし、謀反を企んでいた逆賊だった』と報告するよう促しています」

 不意打ちのように養父の名が飛び出して、シアは息を呑んだ。握った拳が、小さく震える。

 養父は――フィギルは、それに二つ返事で頷いたのだろうか。

 シアを焼き殺そうとしたその場にいたのは、ほかならぬ本人に聞いて知っている。だからもう、フィギルに関しては何を聞いても驚かない――そう、思っていたのに。

「パク・ウンソからなされた嘘の自白の内容は、『一連の強盗は、実は謀反の資金集めであり、その資金を以て永昌大君を推戴し、反乱を起こすことを企んでいた』というものでした」

 その辺は見た、と言おうとしたが、シアは思い直した。自分が見たことと、ミョンギルの話に齟齬そごがあるかも知れない。

 偽りの自白をしたウンソが強盗殺人の罪を減じられ、更に厳しい拷問付きの尋問を免れたこと、代わりに副首領のソ・ヤンガプに、激しい拷問が加えられたこと、当初彼が謀反の計画については否認していたことや、みずからの家族をしちに取られ、ウンソの供述が事実だと証言したことも、資料の通りだった。

 永昌大君シアの母方の祖父、キム・ヂェナムが謀反の黒幕であり、先王の継妃ケビで、当時は大妃テビとなっていたシアの母、キム・シランも、この計画に加担していたと自白したのが彼だということも、本当らしい。

 そのの調査の過程で、祖父・チェナムと母・シランが、現国王の戸籍上の母であり、父・宣祖ソンジョの初代正妃・懿仁王后ウィインワンフの御陵へ巫女を差し向け、呪詛をおこなわせていたと証言したのが、パク・ドンニャンというところも、資料と一致している。

「パク・ドンニャン様は、宣祖殿下のご信頼も厚かったはずなのですが、……保身に必死だったのでしょう。ほかの遺教七臣ユギョチルシン……ソ・ソン様やシン・フム様も、“キム・ヂェナム様と深い親交はなく、謀反とは無関係だ”ということを、とにかく強調しておりました」

 その辺は、資料にはなかったことで、初耳だ。

「……最っ低だな」

 シアは、その整った顔を歪めて吐き捨てた。両手を、無意識に握り締める。

(……赦せない)

 謀反と無関係だと強調するのは、当事者の立場からすれば仕方がないことなのかも知れない。シアたちの無実を申し立てる余裕はないことも、頭では理解できる。

 しかし、何とか嵐を避けようとするあまり、ありもしない罪をでっち上げるなんて、どう考えても赦せることではない。

「特にソ・ソン様は、ご自身のご子息が貞愼チョンシン翁主慈駕の夫であられますから……貞愼翁主慈駕の娘御に関しては、ご存じで?」

「どういう話だ?」

「貞愼翁主慈駕のご息女・ソ・楣生ミセン様は、大君様の母方の叔父君・キム・ギュ様に嫁がれ、お子もおられます」

 貞愼翁主は、貞淑姉を産んだ同じ母から生まれた、シアの異母姉の一人だ。

 ということは、キュ叔父に嫁いだ姉の娘・ミセンは、シアには姪でありながら義理の叔母という、一瞬では理解の難しい、複雑な続柄になる。

「キム家の男性が全員処刑された際、キム家の女性陣は官婢クァンビに降格されました。が、ソ・ミセン様とお子だけは何のお咎めもなく、貞愼翁主慈駕のもとへお戻りになりました。翁主慈駕……つまり、王殿下の妹君のご息女であったことは、大いに影響したでしょうが、それにしても翁主慈駕のご生母であられる仁嬪インビン様と、大君様のお母上であられる大妃様は懇意にされておられた。ソ・ソン様は、そういった方々との姻戚関係から、余計にチェナム様との結び付き、延いては謀逆への荷担を疑われたのでしょう」

 その上、ソ・ソンは、自分は王室との婚姻は望んでいなかったのに、宣祖に無理矢理薦められ断れなかった、孫娘とキュとの結婚も同様だと、訴えたという。

 とっさに言葉が出なかった。

 いくらソ・ソン自身や一族への災禍を避ける為とは言え、亡き父王に責任をなすり付けるなどあんまりではないのか。

「ですが、ハン・浚謙ヂュンギョム様と、もうお一人、ハン・應寅ウンイン様は、大君様やチェナム様の潔白を主張されておいででした。その為、拷問は特に厳しく受けておいででしたが」

「じゃあ、残る二人は?」

「残るお二人――ユ・永慶ヨンギョン様とホ・ソン様は、七庶獄事の起きる前にお亡くなりです」

「そっか……」

 事件の起きる前に世を去った者には、罪はない。

(別に忠義がどうとか、その辺もあんまり興味ねぇし、掌返したって責める気もねぇけど)

 無意識に唇を噛み締める。

 自分が巻き込まれるのを避けようとするだけなら、まだ理解できる。政敵を排除しようとするのも、権力が好きな人間なら、ある程度は仕方ないだろう。

(……だけど)

 赦せない、と何度目かで強く思った。

 『酌量できる』もしくは『理解できる』ことと、それらを『赦せる』かどうかは、まったく別の問題だ。

 落ち着いて話を聞くほど、彼らを無罪放免にするわけにはいかなくなってきたように思う。

 恐らくウンソは、厳罰を逃れたいが為に、イチョムに持ち掛けられた取引に応じてしまったのだろう。

 ヤンガプも同じだ。母親や家族を助けたい一心で、嘘の自白をせざるを得なかったのだ。かと言って、彼らに罪がないわけではない。彼らがやらかした強盗殺人がそもそも赦されざる犯罪であるし、それが結果的に、イチョムらにシアを無実の罪で殺す機会を与えたことも間違いないのだから。

 ソ・ソンやパク・ドンリャン、シン・フムも、家族を守る為に必死だったのは理解できる。

(……父さんも……光海クァンヘ兄上に嘘の報告、したのかな……)

 確認しようにも、もう本人はいない。けれど、多分『した』のだろう、と何となく思う。

 彼にも抜き差しならない事情があったのかも知れないし、兄王の地位の安寧とやらをその時は選んだのかも知れない。

(だけど)

 どうしても、どうしても赦せない。

 もし、フィギルがそんな虚偽を兄王に申し立てることを最初に拒否してくれていたら。残った遺教七臣ユギョチルシンが全員で庇い立てしてくれていたら、そうでなくてもパク・ドンリャンとやらが祖父と母にありもしない罪をかぶせたりしなければ――

 そうしなければ、彼らは自分の家族を守れないと考えたのは分かるけれど、代わりに彼らに彼らの家族を犠牲にしてくれなんてとても言えないけれど。

(……だったら、俺が何したってんだ? 殺されなきゃならないようなこと、したってのか)

 握り締めた拳が、小刻みに震える。

 彼らが我が身可愛さのあまり、人身御供ひとみごくうに差し出したのは、シアだけではない。シアの母も、母方の祖父も伯父たちも、そしてその家族まで犠牲になったのだ。

 それだけではなく、シアを王位にと考えていた人間やその家族まで――

(何の為だ)

 どうしてこんなにも下らないことをしたのか。兄の王位を盤石のものにする為だというなら、その為に殺されるのをありがたく思い、黙って受け入れろということか。

(ふざけんなよ)

 兄がもし、並ぶ者のない聖君の資質を備えているなら、ほかの誰かを犠牲にすることなく明国を説得する道もあったのではないのか。

 権力の座がそんなに、幾人もの血を流してまで守らなければならないものなのか。

(イ・イチョム……俺は絶対に、あんたを赦さない)

 いつの間にか、視界が揺れている。瞬きすると、大粒の滴がボロボロと頬を転げ落ちた。

「……大君様」

「……悪い」

 声を掛けられ、慌てて頬を拭う。目をきつく閉じて、深呼吸してから目を上げた。

「……で、あんたが俺に関わる理由は、どこにあるんだよ」

 水を向けられ、ミョンギルは小さく会釈するように顎を引いた。

「実は……七庶獄事の際、わたくしの父・チェ・起南ギナムも、謀逆に荷担したと誣告ムゴされ、尋問を受けています」

 誣告とは、事実を故意に偽って告げることだ。

「これは、責任逃れと思わずお聞きいただきたいのですが、わたくしの父は、誠にチェナム様とは一、二度、顔を合わせただけの関係でした。しかし結局、父は官職を剥奪の上、追放されました。今は、加平カピョンで暮らしております」

「つまり、あんたの父上の冤罪を晴らしたいってわけか」

「御意にございます」

 ミョンギルは、目を伏せることで肯定する。

「それにわたくし自身、廃母論ペモロン――つまり、大妃様と公主コンジュ様の降格・幽閉について明国の友人に愚痴り……いえ、漏らしたかどで、罷免されております。姉の不審死のこともあり、正直、正しきことの議論もできぬ朝廷には、ほとほと嫌気がさしているのです」

「心中察するぜ」

いたみ入ります」

子謙チャギョムさん。こっちですか?」

 この時、話が一区切り付くのを待っていたかのように、室外から呼ぶ声が聞こえた。

 確か、この睡蓮楼を直接切り回している行首ヘンスだという、シム・器遠ギウォンのそれだ。

「ああ」

 あざなで呼び掛けられたミョンギルは、身軽く腰を上げると、障子を開ける。すると、取り次ぎのはずのキウォンを押し退けるようにして、「チャギョムおじ様!」と叫ぶ声がした。

敬康キョンガン嬢?」

「おじ様、助けてください、母が、母が……!」

「落ち着いてください、キョンガン嬢。翁主慈駕が、どうされたのです」

(何?)

 シアは眉根を寄せて、無意識に立ち上がる。

 ミョンギルが『翁主慈駕』と呼ぶなら、十中八九、シアの異母姉の誰かのことだ。

 キョンガン、と呼ばれた少女は、もうとても続きを口にできなかったらしい。持っていた何かをミョンギルに差し出す。

 ミョンギルが受け取ったのは、ふみのようだ。彼の後ろから見た文面に、シアも瞠目どうもくする。

「ちょっと」

 我知らず口にしながら、シアはミョンギルの持っていた文を奪い取った。

 “シン家一同へ”と宛名書きされたその文には、貞淑姉を連れて行ったことと、返して欲しければ仁城君邸までイム・シアを連れて来い、と書かれている。それと、義禁府や捕盗庁ポドチョンへ届けても無駄だとも記されていた。

 追記に続く宛名は、“イム・シア”だった。そこには短く、『お前の姉を、すでに一人殺した』としたためられていた。このふみに書かれている『姉』は、恐らく貞淑のことでも貞明チョンミョンでもない。

「……イム・シア」

 低く呟いた声のぬしは、初めて会う姪・シン・敬康ギョンガンだ。

 姪とは言っても、そもそも貞淑姉とシアとは腹違いの姉弟きょうだいで、親子ほど年が離れている。その為、甥姪には年が上の者も多く、キョンガンは同い年である。彼女のことは一方的に、姉に紹介されたことはあるが、遠くから見ただけで、こうして間近に顔を突き合わせるのは初めてのはずだ。

「……わたくしを、ご存じで」

 用心深く口を開く。朝食の途中だったので、白い上下だが、女の装いをしているのと、キョンガンは恐らく、シアが叔父だとは知らないはずだからだ。

「母に、腕利きの化粧師だと紹介されたことがある。遠くから見ただけだがな。そなた、仁城叔父様にいったい何をしたのだ」

「仁城君様には、お会いしたこともありません」

 事実である。しかし、キョンガンは泣きながら、早々に激昂した。

「嘘をくな! 母をさらって行ってまでそなたを呼び寄せたいなど、こんな強引な手に出るだけの何かをしたはずだ! そなた、何者なのだ!!」

「落ち着いてください。仁城君様にとって、翁主慈駕は姉上でしょう。第一、ここには連れて行ったとだけ書かれておりますし」

「強引にさらって行ったに決まっている!! そなたは何も知らぬから悠長なことを……!」

「では、何があったのか、お教えくださいますか」

「そんなこと、話してる暇ない! 早くお母様を」

 パン! と乾いた音がして、一瞬室内が静まり返る。

 早々に穏当な対話を諦めたシアが、遠慮なくキョンガンの頬を引っぱたいたのだ。

「……落ち着けっつってんだろ」

「何を」

「順を追って話せ。仁城君様とのあいだに、いつ、何があった?」

 こちらの口調がガラリと変わったのと、引っ叩かれた衝撃からか、キョンガンははたかれた頬へ手を当てしばし呆然としていたが、やがてノロノロと手を下ろして口をひらいた。

「……大妃様と、貞明叔母様が、廃位になった年よ……」

 母の大妃位を廃するのに賛成するよう、全王族に通達があったことは軽く聞いているので、シアも知っている。

 貞淑姉が、夫婦共々これを拒否したのも、パンシクから聞いたが、詳しいところは知らない。

 キョンガンによると、姉夫婦が出席を拒否したのを、宗簿寺都提調である仁城君が、宗簿寺の兵を率いて、咎めにやって来たらしい。

 母の廃位に賛同するよう、姉夫婦に強要しようとした仁城君は、あろうことか貞淑姉の長女、つまり仁城君自身には姪に当たるシン・惠順ヒェスンを斬り捨てたという。それは当時赤子だった末の弟を、ヒェスンが庇った為にそうなったようだ。

「……それだけじゃない。仁城叔父様は、貞正チョンジョン叔母様のご夫君も斬り殺した。その為に叔母様は、お子を早産して、そのお子も程なく亡くされたわ」

 脳裏に、以前貞淑姉が言っていたことがぎる。

 貞淑姉自身は長女を失い、貞正姉も、夫と子をくしたと。あの時は、話が別の方向へ進んだので、それ以上詳しいことは聞けなかったが、そういうことだったのかと理解すると同時に愕然とする。

「こんなこと、無慈悲にできる叔父様には、人間の心なんてないのよ。たとえ血の繋がった姉であるお母様にだって、何するか分からないわ。あんたが行くまで無事かどうかも分からないじゃない、だから……」

「ミョンギル」

 シアは、キョンガンの言葉を最後まで聞かず、口をひらいた。

「はい」

「あとで借りは必ず返す。今は何も言わずに、馬だけ貸してくれ」


©️神蔵 眞吹2025.

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