第五章 思い掛けない再会
「次。顔を見せろ」
辿り着いた先、惠化門の検問でそう言われて、シアはミョンギルが新しく買い直してくれた戦帽に下がった紗の垂れ布を、細く長い指先で掻き上げた。
人相書きと照らすことも忘れたように、武官はシアの顔を見て息を呑む。
「何の騒ぎでしょう」
艶然と微笑して見せると、目の前の武官は分かり易く鼻の下を伸ばした。
「――い、いや、何でもない。行っていい」
碌々こちらを見もせずに、門の外へ手を振る。足を踏み出すと、武官は「いや待て」と慌てたように呼び止めた。
「何でしょうか」
「あ、……あー、いや……」
四十を越えたと思しき髭面の男は、シアに歩み寄ると、耳許へ唇を寄せて来た。
「お前、どこの店の妓生だ?」
囁くような声で訊くのは、周囲で仕事をする同僚に聞かれない為だろう。内心、呆れ返りながらも、シアはにっこりと再度微笑んでやる。
「誠にわたくしにお会いになりたければ、ご自分でお捜しくださいませ」
「いや、しかし」
「旦那様が、本当にわたくしを欲しいとお思いなら、捜してくださいますでしょう?」
最後に、思わせ振りな笑みを投げ掛けてやると、シアは紗の布を元通り下ろし、きびすを返す。
そのあとへ続いたミョンギルは、門から少し離れると、「呆れたな」と呟いた。
「まったくだ」
勤務中に、偶然通り掛かった妓生を口説くなど、やはり今の朝廷に連なる役人は腐り切っている。これで、シアが本当に極悪な犯罪人だったら、取り逃がしてどうするつもりだろうか。
しかし、ミョンギルの言わんとしたことは別にあったようだ。
「シア様にもですよ」
「は?」
「あのような色仕掛け、どちらでお覚えに?」
「……さあな」
シアは肩を竦めた。
色仕掛け、と言われればそれまでだが、逃亡生活も長引く身では、持って生まれた容姿を生かさない手はない。
それに、この容姿で、こんな格好で生きていれば、望まなくとも男からの求愛は引きも切らない。生活上の身分である賤民となれば、本人の意思としての拒否や、親であるフィギルの拒否でも、どうにもならないことがほとんどだった。
ゆえに、シア自身がなるべく相手を怒らせず、執着させずにあしらう術を、必然学ばざるを得なかっただけだ。
(ま、中には執着男もいたけどな、何人も)
今日、何度目かで溜息を吐きつつ、一刻〔約十五分〕ほど歩いた所で、西大門側の妓楼街が見えて来た。時刻は昼間で、通常昼夜が逆転している妓楼街はまだひっそりとしている。
その為、裏口とは言え、玉聲楼の出入口に立っている男二人は、否応なく目に付いた。
向こうもこちらに気付いたらしく、顔を上げる。
一人は、年の頃は二十代後半。面長の柔らかな輪郭の中に、切れ長気味の目と通った鼻筋が、品よく配置されている。見覚えのある顔だった。
もう一人は、四十代後半だろうか。いかにも頑固という性格が見て取れる顔立ちで、若いほうより背は高い。
青年のほうは、ニコリと一つ微笑すると、シアのほうへ歩み寄った。
「――失礼。イム・シアさんかな」
突然名前を呼ばれ、シアは紗の布を掻き上げた。
「そういうそちら様はどなたでしょう」
「無礼な」
威圧的な声で言ったのは、青年に従っていた、四十搦みの男だ。
「こちらは、先代王・宣祖大王殿下の孫であられる、綾陽君様だ。妓生如きが、礼を尽くさぬか」
シアは、目を見開いた。
(そうだ、和伯兄上)
思い出した。
綾陽君――イ・ヂョン。彼の実弟と諱が同じなので、シアはずっと、綾陽君のことは字で呼んでいた。
血筋上は甥だが、彼のほうが十一も上で、しかもシアが幼い頃には足繁く慶運宮に通ってくれたので、姉の貞明共々、彼や彼の弟である綾昌君とは、実の兄弟のように付き合いがあった。
「どうした、早く礼を尽くせ」
「いいんですよ、景禛おじ上」
(おじ上?)
早くも苛立つ、キョンジンと呼んだ人物を綾陽君が制する間に、シアは眉根を寄せた。
近所の知人に対するような呼び方だが、綾陽君に近しい人物なのだろうか。彼と付き合いがあったのは、本当に幼い頃のことで、シアは綾陽君の周辺の人間関係には疎い。
不承不承、という様子でキョンジンが口を閉じたのを見澄まし、綾陽君はシアに向き直った。
「突然ごめんね。改めて、イ・ヂョン、綾陽君です。この玉聲楼で化粧師をしている、シアさんだよね?」
「……はい」
シアは、戦帽を脱いで、会釈した。
「ご挨拶が遅れました。イム・シアと申します。玉聲楼では化粧師の任にございますが、今は格好だけ妓生を装っておりまして」
「だろうね。おじ上」
綾陽君が、キョンジンに目を向けると、彼は手にしていた荷物を綾陽君に手渡した。彼は、受け取った荷物を、シアに差し出す。
「これ、君の荷物。全部揃ってると思うけど、確認してもらえる?」
荷を反射で受け取りつつ、シアは首を傾げた。
「確認するのは構いませんが……何故」
「悪いんだけど、君はもう玉聲楼の化粧師じゃない。たった今さっき、辞めてもらった」
「はあ?」
シアは、思う様眉根を寄せた。
「何故突然……それに綾陽君様には、一妓楼の化粧師の去就を決められる権利はないと存じますが」
「生憎だけど、ここは僕が開設したんだ。つまり、働き手の去就最終決定権は僕にある。嘘だと思うなら、ホンニョン行首に確認してもらっていいよ。ただ、二度手間になっちゃうし、できれば君にはもう玉聲楼に足を踏み入れて欲しくないから、わざわざ君の荷物まで纏めて僕がここで待ってたのは、分かって欲しいな」
眉根に寄ったしわが、必然深くなる。が、口では「分かりました」と告げた。
「出資者様の最終決定とあらば、従いましょう。ただ、わたくしも理不尽に職を失うのです。せめて、理由をお聞かせくださいますか」
綾陽君は、困ったような微笑を浮かべて、手を挙げた。後ろからキョンジンが、今度は折り畳んだ紙を、綾陽君の手にそっと置く。
「これさぁ、君だよね」
開かれた紙には、人相書きが描かれていた。
「今、漢城の各門で検問が行われてるのは君も知ってるよね。だからこそ、そんな変装してるんだもの。騒ぎにせずに突破したのはお見事だし、門番を誤魔化せるほどの化粧の腕は、妓楼としては単純に惜しいけどさ」
クスクスと、少し耳障りにも思える笑いを挟みながら、綾陽君は人相書きをキョンジンに返す。
「僕としては、うっかりお尋ね者になるような危険人物、自分の運営する妓楼に置いときたくないわけ。分かってくれた?」
「……厄介事は、勘弁して欲しい。そういうことですか」
「そうだね。それに君、ついさっき、都の中でもひと騒動やらかしたでしょ」
「……慶平君様との一件ですか」
何で知ってるんだよ、早耳過ぎだろ、と脳裏で続けた突っ込みに、もちろん綾陽君は気付かない。
「そう。あれ、多分あの場にいた人間で、わざわざ義禁府とかに訴え出る人はいないと思う。でも、慶平叔父上、甥の僕が言うのもなんだけど、揉め事製造機なんだよね。あっちで気に入らない人間ぶん殴ったかと思えば、こっちで未亡人犯して自害に追い込んだり」
確かに、困ったものだという一言では済まない。揉め事製造機、という評は、言い得て妙というものだろう。
「なのに、殿下が王弟だって理由だけで目こぼししてるから、上は王族から下は白丁〔最下層の身分〕まで、都と近辺に住んでる皆が迷惑してんだよね。さすがに大北派からも、王弟の身分剥奪しろって上奏まで上がってるのに」
呆れたような吐息を挟んで、「でもさ」と綾陽君は続けた。
「厳正に処罰するってなったら、君がやらかしたことって綱常罪じゃない? 下手したら妓楼まで連座の罪に問われちゃうから、ホント勘弁して欲しいんだ」
綱常罪とは、簡単に言うと、儒教の教えに反する罪のことだ。
それを基にした一つで、『上の身分の者に、下の身分の人間がもの申してはいけない』というトンデモ法律がある。つまり、上の人間が明らかに間違ったことをしても、謀反の罪でもない限り諫めてはいけない、というものだ。
綱常罪の性質上、あのテの王族の暴走を抑える役目を担うのは、国王か(迷惑行為を働いた本人にとって)目上の王族、もしくは職務の中にその権限がある宗簿寺の都提調、ということになるが、国王は、それに関しては役立たずのようだ。
(ぶっちゃけアレ、法律のほうがおかしいよな……)
それに、とシアは綾陽君に冷えた目線を向ける。昔は、こういうことを平気で言うような、所謂一般的な両班のような思考の人ではなかったはずだ。
王族であることを鼻に掛けない、謙虚な人柄だったのに――会わなかった九年の歳月で、彼は変わってしまったのか。それとも、弟を失った悲しみが、彼をそうさせたのか。
あるいは、当時のシアが幼すぎて、綾陽君のそうした面に気付かなかっただけかも知れないが、今は考えても詮無いことだ。
「……分かりました。わたくしとしても、殴られそうになる幼子を見過ごすことを良しとするようなお方の運営する妓楼に留まるのは不本意です。これにて、お暇いたします」
綾陽君に受け取った荷物を、ある種の落胆と共に胸元へ抱え、シアは深々と腰を折った。
「つきましては、解雇に当たり退職金を、言い値でいただきとうございます。突然の不当解雇で路頭に迷わねばならなくなったので」
「何を、貴様」
いきり立つキョンジンを、綾陽君が手を挙げて制した。
「いいよ。但し、君が情報をくれたらね。その情報料として、報酬を支払うよ」
「どのようなことでしょうか」
何なりと、とは言わなかった。うっかりそんな返事をして、できないことだったら困る。
それを見通しているのか、綾陽君は複雑な微笑を口元へ浮かべ、シアのほうへ更に肉薄した。そして、耳許へ唇を寄せる。
「君がなぜ、慶運宮の火事現場にいたのか知りたい」
「……何故です」
「だって君、ただの化粧師でしょ。大妃様やランファ……公主様とは、何の接点もない」
「仰る通り、ただの化粧師でございます。ですから、慶運宮へは化粧に呼ばれて参っただけです」
「夜中までいたの?」
「うっかり、外出禁止の刻限を過ぎましたので」
「じゃ、お二人の行方は知ってる?」
「いいえ。火が出て、不敬にも慌てて逃げて参りましたので」
「ふーん……」
聞くだけ聞くと、綾陽君は、シアのほうへ屈めていた上体を、スッと元に戻した。
「この程度の情報では、いくらにもなりませんでしょう。ですからやはり、退職金という形でいただければ幸いです」
言いながら見上げた綾陽君の瞳に、シアは思わず背筋を震わせた。彼の今の瞳には、感情が何一つ読み取れない。
「うん、確かにその情報にはビタ一文出せないね。ただ、それは情報の量とか質とか、そういう問題じゃなくて」
言うなり、綾陽君は出し抜けにシアの手首を握って引いた。
息を呑んだ次の瞬間には、壁へ叩き付けるように押し付けられている。反射で目を瞑った直後、持っていた荷物は地面へ落ち、シアから見て右側に綾陽君の腕がある。
シアにのし掛かるようにしながら、綾陽君は口を開いた。
「もう一度だけ訊くよ。どうして君は、火事現場に居合わせたの」
シアは、相手に悟られないよう(と言っても、これだけ近距離ではかなり難しかったが)短く深呼吸し、慎重に口を開く。
「……先刻、お答え申し上げたと思いますが」
「僕が聞きたいのは、真実だよ。火が出た当時、宮の外はグルッと兵士に囲まれてたはずだし、その兵士から、宮の中から逃げ出してきた人間はいないって聞いてる」
「お詳しいですね。まさか、火を掛けたのは綾陽君様の差し金で?」
「まさか。ただ、僕の手の者は周辺にいたのは確かだよ。あんな事態初めてだったし、どうするべきか、手を拱いてたみたいなのは、僕にも遺憾だけど」
シアは瞬時沈黙した。すると、シアが慶運宮へ侵入したのも、母たちを連れて宮を出たのも見られていた、ということだろうか。
それに気付かなかった自分を殴るべきか、火が出たところから見ていながら指をくわえていた綾陽君の配下に文句を言うべきか真剣に悩むが、発言にはもっと悩む。
こうなると、迂闊なことは言えない。
単純な殴り合いよりも、ある意味神経が磨耗する。
「これが最後だ。君は、どこの誰? どうして、大妃様たちを救いに入ったの」
(……あーあー、やっぱ見られてたかー)
炎って周りの気配探る余裕も焼かれるよな、などと、どうでもいい文章が脳裏をよぎる。
さて、どうやって誤魔化すかと逃げ道を探るが、最早逃げ道などないことは考える前から分かっている。城門の門番をも騙したこの化粧による変装を見破ったことと言い、反正を考えているだけの情報網はあると思っていいだろう。
はあ、と溜息を吐いて腹を括ると、シアは周囲へ視線を投げる。自分たち以外――いつの間にかミョンギルが姿を消していたことに、この時気付いた――に人がいないのを確認すると、綾陽君に掴まれていない左手で、上衣と下着の結い紐を素早く解いた。
晒された胸元を注視したらしい綾陽君は、目を見開く。
「……まず、性別は分かってくれたよな。これ以上の情報は、開示するにはここじゃ無防備すぎるんだけど」
その意味は、正確に理解してくれたようだ。
綾陽君はシアの手首から手を離すと、『早く身支度しろ』と言うように顎をしゃくる。シアは、自由になった両手で手早く結い紐を元通りに結んだ。
「じゃ、中に入ろうか」
「よろしいのですか、綾陽君様」
問うたのは、キョンジンだ。
「仕方ないよ。最後に話するだけだし」
肩を竦めると、綾陽君はもう一度シアに目を投げ、顎をしゃくった。
***
綾陽君がシアを導いたのは、すぐ手近にあった行廊だった。
行廊とは、塀の中に作られた部屋で、通常、両班屋敷だと私奴婢が使用している。妓楼でも、下働きの寝起きする場所だ。
綾陽君は、キョンジンに人払いと見張りを命じると、シアを促して行廊の中へ足を踏み入れた。
「で? 君は、どこの誰?」
「言っただけで信じてもらえるかは分からないけど……俺の本名は、イ・ウィだ。って言ったら大体のこと、察してくれるか?」
綾陽君が、再度目を見開いた。
「……まさか……本当に……?」
表情と同じ色を宿した声が、呆然と呟く。
「信じる信じないはそっちの自由だよ。ファベク兄上」
無表情に相手を見つめ、投げるように言った途端、唖然としていた彼は見る見る涙ぐんだ。と思った直後には、肉薄した彼に抱き締められる。
「ッ、……」
兄上、と言おうとして、喉元で声がわだかまる。
「……よかった……取り敢えず、お帰り。よく無事でいてくれたね」
知った人間に、またも優しい言葉を掛けられて、封印したはずの涙がぶり返しそうになった。慌てて顔全体に力を入れて、強引にそれを押し戻す。
綾陽君は幼子をあやすように、シアの肩先をポンポンと叩いた。
「……信じて、くれるのか」
「君が生きてる、なんてこと、民は知らないから、本来騙り様もないだろ。それに僕の字なんて、それこそ民は知らない。字に『兄』って付けて呼んでくれるのも、王族の中でも一部だけだからね。君も含めて」
互いの顔が見える距離まで身体を離すと、綾陽君はシアと目を合わせるようにして腰を落とす。
「俺が……生きてるって、やっぱり周知の事実なのか?」
訊くと、綾陽君は苦く笑った。
「正確には、公然の秘密って奴かな。もちろん、大妃様やランファは知らないけど、大北派の一部は疑ってるし、僕たちは確認できてなかった。遺体がなかったから、生きてるかも知れないけど、逃げ延びてるかも分からなかったんだ」
彼は、シアの頬を愛おしげに撫でて、今度は柔らかく微笑する。
(公然の秘密、かー……)
シアのほうは、笑い返すより先に目眩を感じた。
「ところで、ウィ。このあと、行く当てあるの?」
さも親切そうに問われ、シアは反射でじっとりと綾陽君を睨め上げてしまう。
「……自分でクビにしといて、よく言うな」
半ば本気の睨みに、綾陽君は一瞬キョトンと目を瞠ったあと、苦笑した。
「あはは、ごめん。でも、もうここにはいないほうがいいよ。さっきとは別の意味で言うけど、君は生きていればお尋ね者だ。分かってるでしょ?」
「まあな」
「だったら、すぐ都を離れなくちゃ。当てがないなら、僕の手の者に適当な隠れ場所、見繕ってもらうから」
首を傾げるようにして、眉尻を下げたその表情は、シアを心底心配しているように見える。幼い頃と、同じようにだ。けれど、シアは瞬時目を閉じ、小さく首を横へ振った。
「……ごめん。気持ちだけ、受け取っとく」
「何で」
「俺には、都でやらなきゃいけないことがある。それが終わるまで、ここを離れるわけにいかない。兄上に迷惑が掛かりそうだから、言われる通り玉聲楼からは出るよ。当面の路銀だけくれると助かるけど」
「やることって何?」
「言えない」
「どうして」
「言ったら多分、玉聲楼にただいるより兄上を巻き込むから」
「ウィ」
それ以上問われる前に、シアは自分から綾陽君に抱き付いた。
「ありがとう。会えてよかった」
彼の首筋に回した腕に、一瞬だけ力を込める。またも泣きそうになるのを全力で堪えると、綾陽君から離れてきびすを返した。
扉を開くと、そのすぐ前に立っていたキョンジンの背が見えた。
扉が開いたのに気付いたのか、彼はこちらを振り返り、黙って会釈する。先刻とは、態度が大違いだ。恐らく、中での会話を聞いていたのだろう。
身分によって掌を返す人種は、信用ならない。それが、シアの信条の一つだ。
そんな人種の一人であるキョンジンを見ていると、綾陽君との別れの感傷が、引き潮のように引いていくのを感じた。すっかり冷めた気分で、彼に手を差し出す。
「……何でしょうか」
早くも、シアに対しても敬語になっている。誰が聞いているか分からない場所で、うっかり『大君様』と呼ばないところには及第点をやってもいいが。
「当面の路銀。まさか、兄上に払わせる気か?」
この手の人種に、遣ってやる『気』は、生憎持ち合わせていない。王族としての上から目線で、シアは掌を上下させた。
***
「~~~~ッッ、……まっっっ……たく、図々しいクソガキですね! あれ、本当に大君様ですか!?」
イム・シア――イ・ウィだと判明した少年が去ったあと、行廊に入って来たキョンジンは、扉を閉めるなり、外を指さして叫んだ。
「……気持ちは分かるけど、ちょっと声落としてくれる? お金ならあとで返すから」
「とんでもございません、決してそのようなつもりでは」
そんなつもりでもいいんだけどね、と綾陽君――チョンは、口に出さずに言いながら、苦笑だけを返した。
目の前にいる申景禛は、チョンの母方の大伯父の息子で、従兄弟違いという続柄である。
チョンが、弟の綾昌君を亡くした事件で、キョンジンもまた、従兄を亡くしている。おまけに、キョンジンの上の妹が、チョンには父方の伯父である信城君と婚姻しており、そこに綾昌君が戸籍上の養子に入った為、キョンジンにとって綾昌君は、義理の甥という関係にもなっていた。
そうした諸々の事情から、どちらからともなく、今の王を引き下ろそうという話になって準備を始め、今に至る。
「……それで、如何しましょう。誠に大君様を放っておかれるので?」
「どういう意味?」
「いえ……」
「真意を探らなくていいのかってこと?」
キョンジンは、尚も言い辛そうに、伏せた瞼の下で目をウロウロさせていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……申し上げにくいのですが……大君様が生きてお戻りになって『やらなければならないこと』と口にされれば、それはやはり反正を起こされる準備にほかならないのでは」
「うーん……そこなんだよねぇ」
それはチョンも、チラと考えなくもなかった。
ウィがその気なら――もし、チョンと同様、王位に座ろうと考えているのなら、非常にまずい。
何しろ、彼は先王の実子で、唯一の嫡男だ。それが理由で暗殺もされ掛けた。それに引き替え、チョンはと言えば、父は側室腹の王子である。
ウィが彼の意思で王位を狙えば、その血筋ゆえに、チョンよりも王位に相応しいと思う人間は多いだろう。
血縁上は叔父だが、年齢的には十一歳下のウィのことを、これまでチョンは可愛い『弟』と思って来た。亡くなったと聞いた時は悲しかったし、今生きて戻ったと知った瞬間には嬉しく思ったのも本当だ。
しかし、血統でチョンに勝るウィが、彼自身の意志を持って動き始めたのなら、最早邪魔で厄介なだけだ。
とは言え、幼い頃は実の兄弟同然に親しくしていた仲だ。その頃は、実弟の綾昌君と同じように可愛がっていたし、自分を『兄』と慕ってくれていたウィを、自分で殺すことは、できれば避けたい。
「……綾陽君様」
「キョンジンおじ上」
「はい」
「情報を、流してもらえる?」
その声音で、チョンが決意したことは、キョンジンにも分かったようだ。低い声で、「どちらにでしょう」と訊ねる。
チョンは、キョンジンを見上げて、うっすらと笑った。
「仁城叔父上に」
©️神蔵 眞吹2025.