第四章 遭遇
シン家から、少数の供を連れた輿が出たのは、巳時の正刻〔午前十時頃〕を二刻〔約三十分〕ほど過ぎた頃だった。
その少数の供に紛れたシアは、ある地点でさり気なく集団から離れたが、母と貞淑姉の乗った輿が東大門を出るところまで見守った。
一町〔約百九メートル〕ほど離れていたので、貞淑姉と見張りの兵士の間で交わされた会話は聞き取れなかった。兵士の唇を読む限り、多少揉めてはいたように思えたが、一刻ほどのやりとりののち、貞淑姉の輿とその供は動き出した。
貞明姉だけが咎められるようなこともなく、やがて姉たちは門の向こうへ姿を消した。
ホッと安堵の息を漏らし、シアはきびすを返して別の門へ向かった。
その姿は、一見して美貌の妓生としか思えない姿に変じている。
身に着けた上衣は鮮やかな青、濃紺のソッチマ〔チマの下着〕の上には何枚もの紗のチマが重ねられ、上衣の結い紐には房飾りが下がっている。人相書きは、男装なのと化粧をしていないのとで、印象がかなり変わっているはずだ。
玉聲楼と一番近いのは西大門だが、人相書きが出回っている以上、油断はできない。少々遠回りでも、念には念を入れるほうが安心だ。
「シア様。これからどちらへ?」
雲従街の雑踏を歩きながら、潜めた声で訊ねたのは、護衛を兼ねた妓生の付き人――妓夫を装った、ミョンギルだ。呼び方が違うのは、万一人に聞かれた時、誤魔化しが利かないからだろう。
シアは被った戦帽〔主に妓生が使用する笠〕から下がった垂れ布を少し上げ、答えようと口を開き掛ける。
子どもの泣き声が聞こえたのは、直後のことだ。
「何をする!」
同時に怒声とどよめきが上がって、シアもミョンギルも、反射でそちらへと顔を振り向けた。
一拍ののちに、子どもの泣き声が爆発する。
「こんな小汚い身なりでぶつかるとは……おい、娘! このお方をどなたと心得る! 恐れ多くも先代王・宣祖大王殿下の第十二王子・慶平君様なるぞ!」
眉根を寄せて、子どもがぶつかったと思しき自身の膝辺りへ視線を向けているのが、慶平君だ。
(……うーわ……また面倒なのに出会したな……)
慶平君、こと李玏と言えば、シアには異母兄の一人で、都へ来てから一度だけ顔を合わせたことがあった。彼の私邸まで無理矢理連れ込まれ、犯されそうになった為、服を剥かれる前に一撃食らわせて気絶させ、逃げ帰って来たことがある。
貞淑姉と最初に再会したのも、その時のことだ。
濃い紅色の中致莫に身を包んで、子どもに口上を聞かせているのは、どうやら取り巻きらしい。
しかし、ぶつかった弾みで尻餅を突いてしまったらしい幼い少女はそれどころではなさそうだ。ただ、転んだ痛みに泣き叫んでいる。
はあ、と覚えず溜息が出た。その間にも、取り巻きの男が少女を責め立てる声が続く。
「何を泣いている! 非礼をお詫びせぬか!」
「お許しを!」
答えるように叫んだのは、中年の男だった。
後ろ姿しか見えないが、小柄で細身である。格好からすると、彼は下級両班か、中人〔職人階級〕のようだ。
明らかに賤民〔最下層の身分〕の子と思われる幼子は、彼の娘ではないだろう。にも関わらず、少女を抱き締めるように庇い、頭を下げている。
「お許しください。物の道理も分からぬ幼い子がしたことでございます。今後このようなことがないよう、厳しく言い聞かせますゆえ、此度だけは……」
「ならぬ!」
男の謝罪を遮ったのは、慶平君本人だ。
「第一、その子どもはそなたの子ではないであろう!」
「それは……」
「ええい、どけ!」
言うと同時に慶平君の拳が、男の顔を直撃する。男は弾き飛ばされ、人垣から悲鳴が上がった。幼子は尚も泣き叫ぶ。
「何ということを……」
思わず、といった口調で、ミョンギルが呟くのが耳に入る。
そちらを見上げていたシアと目線が合ったのか、ミョンギルはハッとしたように目を見開いた。「お許しを」と小さく言って顎を引く。
「いや。あんたの言う通りだ。ウチのバカ兄が、一般市民にメーワク掛けてんのは事実だろ」
吐息混じりに低く応じた時、慶平君が、幼子の胸倉を掴んだ。
「私の服を汚した罪は、己で贖うのだな」
慶平君が、拳を思い切り後ろに引く。公的に、王族に対して発言権を持つのは司憲府〔官吏を取り締まる官庁〕か宗簿寺〔王族の罪を裁く官庁〕の役人くらいだが、呼びに行く暇はない。
鋭い舌打ちと共に、シアは地を蹴った。一足飛びに慶平君たちの許へ間合いを詰めながら、戦帽を脱ぎ捨て、拳が幼子に届く寸前で兄の手首を掴む。
「――おやめを」
「……貴様……!?」
慶平君本人も取り巻きたちも、目を見開いた。当然だろう。
見た目にはただの妓生が、あっさりと男の拳を止めたのだから。
「放せ、何をする!」
「慶平君様がこの子を放すのが先でございます。それとも」
言いながら、シアは左手に携えていた刀の鯉口を切って、素早く柄を握り、鞘を払う。
「この場で死にたいですか?」
凛と落として、逆手に持った刀の刃を兄に向けた。
兄は、真っ直ぐにシアの顔を見ているが、装いが違う所為か、以前犯そうとして返り討ちに遭った化粧師だとは気付いていないらしい。
「ぶっ、無礼だぞ、妓生如きが……!」
「無礼?」
ふん、と鼻先で笑った。この男は、シアが弟だと知っても、同じように言うだろう。自分のすることを邪魔されるのが、そもそも我慢ならないのだろうから。
「罪もない幼子が殴られるのを見過ごす礼儀とは、どのようなものですか?」
「何だと!?」
「先刻、そこの方が仰った通り、この子はまだ頑是無い幼子です。幼子が広い場所で走り回るのは、成長過程ではよくあること。駆けっこでもしていれば、周りなど目に入らぬものです。前方不注意でこの子は転んで痛い思いをし、その報いは受けております。言い聞かせれば二度と同じ過ちは犯さぬでしょう。よしんば犯したとしても、人を殺したり傷付けたりするわけではありませぬ。汚れなど、洗えば落ちるものを目くじら立てているようでは、王室の品位に関わりますよ」
「な、生意気な……!」
「間違ったことは申しておりませんのに生意気などと言われては、立つ瀬もなければ口を開くこともできません。とにかく、そこの方も、その子に代わって詫びを入れたのです。それで終わりになさってはいかがですか?」
大股で外堀を埋める勢いで、シアはズバズバと兄を理詰めにしていく。
かつて、シアに言い寄っては斬り捨てられて来た男たちと、この兄は同種の人間だ。半分とは言え血が繋がっているかと思うと、情けないやら恥ずかしいやらで居た堪れない。と言うより、もう兄弟と思いたくもない。
兄のほうは、早くも反論が尽きたらしい。顔を真っ赤にしてブルブルと震えている。
「さあ、どうなさるのです。この子を放しますか? それともこの腕切り落として、強引に放させて欲しいですか?」
兄の手首を締め上げるように、掴んだ手に力を込める。
兄は、鋭い舌打ちと共に幼子の胸倉を突き飛ばすようにして解放すると、シアの手を振り払う。シアは、逆らうことなくその手を放して、同時に飛びすさった。
油断なく兄に視線を据えたまま、落とした鞘を拾い、抜き身のほうを利き手に持ち替える。その隙に、どうにか起き上がっていたらしい男性が、子どもを抱えて退がったのが、視界の端に映った。
「卑しい妓生めが……私は仮にも王族だぞ。その私に逆らうだけでなく、あろうことか刃を向けるなど、どうなるか分かっているのだろうな」
「そっ、そもそも女が刀を持つこと自体が生意気だという自覚がないのか!」
取り巻きの一人も、シアを指さす。先程、先頭切って子どもに威張り散らしていた、濃い紅色の中致莫を着た男だ。
「そちらこそ、物の道理も分からぬ幼子を殴打しようなど、恥ずかしいと思わぬのですか?」
吐息混じりに返せば、兄と取り巻きは益々憤慨していく。
「何だと!?」
「ましてや、詫びを入れている者を殴り付けるなんて、民の手本となるべき王族が、なさることではないのでは?」
「この女、言わせておけばっ……!」
背後から肩を掴まれる。シアは容赦なく、左手に持っていた鞘のほうを、思い切り相手の鳩尾に突き込んだ。
「がっ、はっ……!」
悲鳴を上げた男が、背後で崩れ落ちる。
素早く刀を鞘に納めると同時に、慶平君が「その妓生を捕らえろ!」と命じた。それに従い、男たちが向かって来る。
(……やれやれ)
シアは、チマを絡げて膝を軽く曲げ、思い切り地を蹴った。
空中で足が上になるように半回転し、滞空の間に地上へさっと目を走らせる。あの少女も、彼女を抱えた男もミョンギルも、すでにその辺にはいない。
それを確認すると、落下しながら身体を器用に捻り、男たちでできた囲みの外へ着地する。そのまま身を翻し、すぐの場所にあった角を南へ折れた。
このまま南下すれば、ちょうど貧民街へ行き当たる。
両班のボンボンや、王室でヌクヌクと育ってきた兄なら、まず貧民街の深い所まで追っては来るまい。
駆けながら、シアは周囲へ素早く視線を投げた。どこかでこのチマと鬘だけでも脱いでしまえたら。
別に、足に絡まるのを心配しているわけではない。チマでの立ち回りなど、散々経験している。ただ、妓生としての派手な女装を解いてしまえば、普通にすれ違っても分からないだろうから、わざわざ貧民街まで駆け込む必要はない。
しかし、止まってやり過ごせるような場所は中々なかった。諦めて、シアは走る速度を上げた。
***
シア――永昌大君と、それを追って行く男たちを見送って、ミョンギルは小さく息を吐いた。
とっさに、幼子を抱いて退がった男性を引っ張り、適当な露店出入口の内側へ隠れたのだ。永昌が散々挑発しまくったお陰で、騒動の元となった幼子と男性の存在を、慶平君たちは具合よく忘れてくれたらしい。
(……しかし、会った時から思っていたが……見た目と性格の落差が激しすぎるお方だな)
先刻の永昌の物言いは、言葉遣いこそ丁寧だったが、内容が内容だけに余計嫌味に聞こえた。
「……あの」
ふと声を掛けられて、ミョンギルは背後を振り返る。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったらよいか……」
「いえ、どうぞお気になさらず。私は何もしておりませんし」
ミョンギルは、慌てて手を横に振った。謙遜ではなく、事実である。
「それより、あなたが怪我をされております。あとでちゃんと、お医者に診ていただいてください」
殴られた弾みで切ったのか、口の端から流れた血を拭きながら、男性は自嘲気味に笑う。
「いや。大したことはないよ」
「そなたは、怪我はないか?」
まだ涙目の少女に視線を合わせるように膝を突くと、少女は小さく頷いた。五歳くらいだろうか。あんなに居丈高に怒鳴ったり、殴ろうとしたりしなくても、言って聞かせれば充分に分かる年頃なのに。
(……というか、あっちのほうが駄々っ子だな)
あれが、よりによって国の頂点にいる王族だなんて、普段から思っていることだが世も末だ。
とにかく、ミョンギルも動かねばならない。少女に笑い掛け、頭を撫でてやりながら立ち上がる。
「もうこういう場所で、追い掛けっこはしないようにな?」
少女は再度頷いた。怖い思いをしたのだから、当分は大人しくしているだろう。
ミョンギルは、もう一度表に目を走らせ、男たちが完全に姿を消したのを確認する。
「さ、今の内に」
「ああ。ありがとう。さっきのお嬢さんにもお礼を言っておいておくれ」
男性が頭を下げると、少女もそれに倣う。
ミョンギルは、店から去る二人を見送る間も惜しく、自分も表へ出た。
すでに永昌たちは、雲従街から消えている。ミョンギルは、人目に付かない路地裏へ回ると、跳躍して屋根の上へ飛び乗った。
雲従街は、ちょうど都を南北に分断する位置に走っているので、高い所からなら都が一望できる。
先刻、永昌たちが駆け去った、南のほうへ目線を走らせると、青い衣が集団を引き付けているのが見える。ミョンギルは、屋根伝いに追跡を開始した。
***
「――まだ見つからんのか!」
「はっ、はいっ!」
「申し訳ございません、慶平君様」
「ええい、忌々しい! 一体どこへ消えた!」
若干上がった息を整えながら、シアは隠れた場所から慶平君たちを伺う。まさか、彼らが貧民街の中まで追って来るとは、まったく予想外だ。
(……くっそ……絶対ここまではついて来ないと思ったのに……)
結局着衣をどうするかを考えながら、脳裏で舌を打つ。
それに、彼らの体力にも少々驚かされた。全力疾走するシアに遅れること、約一町〔約百九メートル〕ほどの差だった。
あるいは、こちらが鬘と衣装の重さ、扮装による動き難さに、速度を殺されていた可能性もある。今後同様のことがあった時の策を考えるいい機会にはなったのは、何とも皮肉だ。
考えてみれば、チマでの立ち回りは嫌というほど経験したが、妓生の正装でのそれは初めてだった。今後、そうそう同じ状況に陥るとも思わないし、思いたくもないが――
身を隠したのは、昨夜、自分の仮宿として着替えと荷物置きに利用した空き家だった。貧民街のそれだから、使われてないと思えても使用中ということも有り得るが、少なくとも数日来、使われていないのは間違いない。
ともあれ、遠くはない場所でウロウロしている連中をどうするか。最悪殺すしかないかも知れない、と思ったところで、「ギャッ!」と言う悲鳴に、イビツな物音が幾度か続いた。
「……さてと」
パンパン、と手を叩く音がし、次いで「シア様! どちらに?」と呼ぶ声がした。
「バカ、声がでかい!」
扉を蹴り開け、低く抑えた声で叫ぶ。同時に、外の光景が目に入った。
自分を追って来ていたのは、兄を含めて合計六名。その全員が、綺麗に伸されて、あちこちに転がっている。
立っているのは、予想通りの声の主――ミョンギル一人だけだ。
彼はシアと目線が合うと、「行きましょう」と告げて顎をしゃくった。
理由の分からない溜息を漏らし、小屋内へ引き返して、荷物を取って外へ出る。そして、その荷物を彼に放り渡した。
「えっ」
「持っとけよ。あんた、俺の付き人なんだろ」
呆気に取られた顔をした彼の前を通り過ぎ、シアは雲従街へ向かって歩き出す。一拍遅れて追い縋るミョンギルが、どんな表情をしているかは分からない。
「失礼ですが、この荷物は……」
「予定が狂ったからな」
「はい?」
「昨日の予定じゃ、義禁府で用事済まして、ここで中身に着替えて朝には妓楼に戻ってるはずだったんだよ。帰り道で慶運宮の火災に出会さなきゃな」
「どちらの妓楼でしょうか」
静かな問いに、「玉聲楼」と短く答える。それきり、惠化門へ辿り着くまで、彼との間に言葉が行き交うことはなかった。
©️神蔵 眞吹2025.