第三章 崔鳴吉《チェ・ミョンギル》
「――ィ。ウィ、起きて」
控えめに揺り起こされたのは、夜も白み始めた頃だった。
「……うわ、すみません……いつの間に寝ちまったんだ……」
半分まだ寝ぼけた声で、起こしてくれた貞淑姉に謝罪する。
「今、何時ですか」
「もう罷漏の鐘は鳴ったわ」
罷漏とは、外出禁止の解除を民に報せるものだ。通常、だいたい五更三点〔午前四時十二分頃〕に鳴る。
「湯の用意ができていてよ。今、大妃様とランファが使っているから、お二人が終わったら、そなたもお使いなさい」
「え、でも」
「その髪を、どうにかしないといけないでしょう」
着替えらしき衣を手にした貞淑姉は、床へ腰を下ろした。
まだぼんやりしたままノロノロと起き上がると、いつ掛けてくれたのか、身体の上下が布団に挟まれているのに気付く。
(……ええー……これで起きなかったって、どんだけぐっすり眠ってたんだよ)
場所が場所なら、そのまま二度と起きられなかった可能性もある。あるいは、久し振りに肉親の温もりに触れて、気が弛んだのかも知れないが。
(……しっかりしろよ。貞淑姉上のところに素で泊まるなんて、最初で最後なんだし……)
もう二度と、誰にも頼れない。それは、フィギルが亡くなった時、いつともなしに覚悟していたことだというのに――
「それと……お二人が湯殿から出て来られる前に、一つ確認しておきたいんだけど」
脳内の一人反省会に割って入られ、シアは現実に返る。
「何でしょう」
言いながら、布団の上で胡座を掻いた。
「お二人には、そなたの素性を話して構わないわよね?」
シアは、瞬時息を呑む。が、やがて、吐息に乗せて、「いいえ」と答えた。
「昨晩も申しましたよね。私は、不用意に素性を吹聴するつもりはないのです。知る人間が増えれば、それだけ危険も増す」
「わたくしが大妃様のお立場なら、報せて欲しいわね。亡くなったとばかり思っていた我が子が生きて帰って来て、喜ばない母はいないわ」
貞淑姉も、すでに八人の子を持つ母親だ。その立場で説得に掛かられると、反論に窮しそうになる。しかし、シアは必死で言葉を捻り出した。
「断っておきますが、私は私の保身など考えておりません。ただ、やるべきことを遂げない内に都を追い出されるのは避けたい。それに私が言いたいのは」
「そなたの正体を知れば、大妃様方に危険が及ぶかも知れない」
「分かっているなら」
思わず高くなり掛けた声を、貞淑姉の手が挙がることで呑み込む。静かに息を吐き出しながら、言葉を継いだ。
「……分かっておいでなら、無駄なご質問をなさらないでください。第一、私は貞淑姉上にだって明かすつもりはありませんでした。ただ、姉上は納得なさらなければご自分で調べそうな勢いだったから、仕方なくお話したのです」
「では、そもそもなぜ、我が家に化粧師として訪れたの?」
「お言葉を返すようですが、私をシン家へ先に呼ばれたのは姉上でしょう」
「その時点で、わたくしの家だと分かっていたわよね。断ることもできたはずよ」
「本気で仰っておいでですか? 翁主の名で呼び出されて、一介の化粧師が断れるとでも?」
一瞬、息を呑むように唇を引き結んだ姉は、すぐに口を開いた。
「あの日、最後のやり取りで、わたくしにバレたかもという危惧はなかったの? そなたがそれに勘付かないとは思えないけど」
「それは……母上と貞明姉上の安否が気になるような話を聞いたので、情報が得られる機会を無にしたくなかっただけで……他意はありませんでしたよ」
姉の目が、静かにシアの目を見据える。思い切り逸らしたい衝動にどうにか抗い、シアは姉の目を見つめ返した。
触れれば切れそうな沈黙を破ったのは、「翁主慈駕」と外から掛かった声だった。女性の声だ。
「大妃様と公主様のお支度が整いました」
「ご苦労様。お二人をお部屋へお連れして」
「はい、翁主慈駕」
先日も会った、イン尚宮と思しき声が答え、その気配が遠ざかって行く。やがて、完全にその気配が消えた頃、貞淑姉はシアに向き直った。
「……分かった。今はそなたの意思を尊重する。でも、色んな意味で、いつまでも隠しておけない。わたくしの判断で時機だと思ったらお話するから、そのつもりでね」
「姉上」
「事情を開示しなければ、やり難いこともあると思うけど?」
ぅぐ、と覚えず喉の奥で唸る。
シアを黙らせたと見たらしい貞淑姉は、「早く湯殿に行ってらっしゃい」と言って、持っていた着替えを差し出した。
***
手早く染め粉を落とし、ざっと身体も洗って湯から上がると、シアは先刻まで眠っていた部屋へと戻った。その道中、庭先を歩く頃には、陽が大分昇り、辺りは松明がなくてもはっきり見えるほど明るくなっていた。
部屋から湯殿の間を付き添ってくれた貞淑姉は、部屋へ入るなり、準備されていた鏡台をシアの前に置いて、シアの髪を梳き始めた。
最早、「自分でやれる」と言ってもまったく聞いてくれない。
そこへ、「翁主慈駕」とまたも外から声が掛かった。イン尚宮のそれだ。
「何?」
「崔鳴吉様がお見えです」
(チェ・ミョンギル?)
シアは眉根を寄せた。初めて聞く名だ。だが、シアの戸惑いには頓着せず、貞淑姉は「お通ししなさい」と返事をしてしまう。
直後、スッと障子が開き、一人の男が入って来た。いや、男なのだろうか。やや面長に見える輪郭に、整った目鼻立ちをしたその人物は、体格は小柄で背も低かった。漆黒の髪はゆったりと纏められ、左の肩先に流れている。
ともあれ、シアはと言えば、まだ白い上下だけの姿だったので、面食らうしかない。
おい、と言いそうになって慌てて口を噤む。貞淑姉は相変わらず、シアの様子には構わなかった。
「ミョンギル殿。よく来てくれました」
「翁主慈駕。ご無沙汰しております」
軽く会釈したその人物は、下座へ腰を下ろした。
声も、高すぎず低すぎず、女性か男性かの判断が付きにくい。年の頃も、よく分からなかった。二十代後半から三十代前半、と言われればそんな気もするし、よく見ればもっと上にも見えなくはない。
「無沙汰というほどでもないでしょう。数日前にも会ったばかりではないか」
「は。恐縮です」
一通り、その人――チェ・ミョンギルと言葉を交わした貞淑姉は、シアに向き直った。
「ウィよ」
本名で呼び掛けられてギョッとするが、貞淑姉は意に介した様子はない。
「こちらは、チェ・ミョンギル殿。昨日、そなたに紹介したいと話した、もう一人の男よ」
貞淑姉が『男』と言い切ったので、やっと相手の性別が分かった。
しかし、今のシアには、それはどうでもいい。
姉上、と言おうとするも、実行すれば益々誤魔化すのが難しくなってしまう。どうするべきか、焦って結果、陸に打ち上げられた魚の如く口をパクパクさせる内に、ミョンギルが流れるような動きで立ち上がった。
そして、左手を上に重ね、胸の高さまで持ち上げると、両膝を揃えて床へ突き、深々と頭を下げる。頭を上げると右足から立ち上がり、再度膝を床へ突いて、額を重ねた手の甲へ付けた。
その動きをもう一度繰り返したのちに、ミョンギルは下腹部に両手を揃え、顎を引いた。
身分か年齢、どちらかが上の相手にする大礼だ。
「お初にお目に掛かります。わたくし、チェ・ミョンギルと申します。先王殿下唯一のご嫡男である永昌大君様に、ご挨拶申し上げます」
彼を見上げたまま唖然としていたシアは、反射的に貞淑姉を睨め付けた。
「……姉上……」
もう何と文句を言っていいか分からない。すると、貞淑姉は、困ったように微笑した。
「ごめんなさいね。でも仕方ないの」
「仕方ないぃ?」
「彼には、そなたの探索を頼んでいたものだから。そなたが見つかったのなら、報せないわけにいかないでしょう?」
貞淑姉は、ミョンギルに目を向け「そなたも座るがよい」と声を掛けた。
「は、恐れ入ります、翁主慈駕」
ミョンギルは、貞淑姉に促されて、再度腰を下ろした。
「翁主慈駕。ご所望の、染め粉でございます」
「ああ、ありがとう」
「それと、城門で何やら検問をしておりました」
「何?」
貞淑姉が鋭く呟き、シアも目を見開く。
「どういうことだ」
「はい。わたくし、本日は西大門近くの妓楼から参ったのですが、西大門では、役人が人相書きと通行人を矯めつ眇めつしておりました。人相書きは大妃様と公主様と――」
言い止したミョンギルは、シアに視線を向けた。
「……俺?」
問うと、ミョンギルは小さく頷く。
「妓楼から連れて参った私奴に調べさせたところ、昨晩の慶運宮の炎上について、調べが始まっております。大妃様と公主様は行方知れずの由、そして大君様は放火犯として指名手配が」
「はああ!?」
思わず、頓狂な声を上げてしまい、慌てて自分で口を押さえる。
「何で俺が」
「ここからはわたくしの調べですが、義禁府に駆け込んだ者があるようです。慶運宮に仕える内人、モ・ヂュンファンと名乗ったとか」
「あの女か」
シアは舌打ちを漏らした。
慶運宮の大門の前で、高位の官吏らしい男と話をしていた女がいた。そして、燃える宮の前で尚宮に叱責されていた内人――恐らくは彼女が火を掛けたのだろうが、証拠がない。
「その女が今、どうしてるか分かるか」
「恐らくは、口を封じられたかと。あとで裏を取っておきますが……」
「そう思う根拠は?」
「わたくしの姉もそうでした」
「姉?」
シアは眉根を寄せた。なぜ、ここでミョンギルの姉の話が出て来るのだろう。
「実は、わたくしの姉は、キム・ゲシ提調尚宮……当時は承恩尚宮だったキム・ゲシの全房子をしておりましたが、先王殿下が亡くなられた直後に急死しました」
房子は、尚宮の身の回りの世話をする、小間使いの女性だ。全房子は住み込み、半房子は通いでのそれを意味する。
そして、承恩尚宮とは、王の手が着いた女官を指し、正式な側室ではないが、それに準ずる扱いを受ける。
「急死って」
「特に持病があったわけでもなく、突然亡くなったのです。当時宮中では、王に殉じたのだと噂が流れ、叶わぬ想いに殉ずるなど、王を相手にそうするには、命じられたわけでもないのに出過ぎていると言われました。遺体は引き取ることも許されなかった」
とっさに言葉が出なかった。代わりに、内人たちの噂話が脳裏をよぎる。
“官位の売買と言い、閨のことと言い、提調尚宮様ってば、ちょっとすごくない?”
“そりゃだって、今の殿下の地位は提調尚宮様のお陰だもの。殿下だって、一目置くでしょ”
“先王殿下を殺したのって、あの提調尚宮様なのよ?”
あの噂話が、俄に信憑性を帯びてくる。
もちろん、目の前にいるミョンギルという男を心底信じるとすれば、の話だが――
思わず、目を上げて貞淑姉を見る。
シアの問いたいことが分かったのだろう。姉は、小さく頷いて、シアの肩先に手を置いた。
「ねぇ、ウィ。わたくしを、信じてくれる?」
「えっ」
思わぬ問いを掛けられ、シアは思わず目を瞬く。
「……それは、もちろん」
「そのわたくしが信じるのよ。ミョンギル殿を信じて。彼の話は本当よ。姉上様……崔夢姫様と仰るのだけど、彼女のご遺体は、わたくしとイクソン様が密かに無縁墓地から引き取って、チェ家の墓地へ埋葬したの」
「そう……なのですか」
「ええ。わたくしが降嫁するまでわたくし付きだった、カム・ソジョン医女とそのご夫君に検屍もしていただいたわ。ご遺体には刀か何かで突いたような傷痕もなく、首に絞められた痕も見当たらなかった。かと言って、ほかにも怪しい痕跡は何も見つからなかったけれど、恐らく、そういう類の毒を盛られたのだろうと」
「カム……ソジョン、ですって?」
貞淑姉の口から出て来た思わぬ名前を、シアは呆然と反芻した。
「そうよ。どうかして?」
「あの、……彼女のご夫君の名は、ホ・ヂュンホですか?」
「ええ、そう……もしかして、知っているの?」
「はい、あの……私を助けてくれた医師夫婦です。八年前、火傷を負った時、治療をしてくれて」
「まあ、そうだったの……」
貞淑姉は、幾度も頷きながら、シアの手を取った。
「今、彼女たちは西活人署〔※活人署=貧民向けの医療機関〕に勤務していてよ。機会があったら訪ねておあげなさい。きっと喜ぶわ」
シアは、答えなかった。頷きも、首を横へ振りもせず、目を伏せる。
江華島を出た時、彼らの身の安全の為に別れたというのに、まさか都で彼らの名を聞くとは思わなかった。
貞淑姉は、シアの反応に対して特に何か訊ねることはなく、ミョンギルに向き直る。
「では、とにかくその、モ・ヂュンファンという女官の消息に関する調査は任せる。頼みますよ」
「承知いたしました、翁主慈駕」
胡座を掻いて下座に座していたミョンギルは、自身の両膝の脇に両拳を突いて、頭を下げる。
「時に、翁主慈駕。一つ、お伺いしますが」
「何?」
「ホン・ソボン様に、大君様のことは?」
「ああ、そうね。うっかりしていたわ。すぐにお知らせしなくては」
「姉上!」
これ以上、一般の人間に自分の生存を流布されるのは堪らない。
「そのホン・ソボンに私の生存を報せる件は、おやめくださるように申し上げたはずです。それともまさか、彼にまで私の探索を?」
「いいえ。でも、彼は彼で、わたくしが頼むまでもなくそなたを探してくれているし」
「翁主慈駕」
すると、そこへなぜか、ミョンギルが割って入った。
「お話中、口を挟む非礼をお許しください。輝世殿に大君様のご生存をお知らせするのは、しばしご容赦を」
「どういう意味?」
貞淑姉が何も問わない所を見ると、『フィセ』というのがソボンの字らしい。
字とは、身分的・年齢的に目下の者が使う呼び名だ。明国や朝鮮国圏では、諱で身分的・年齢的に上の者を呼ぶことは、大変な無礼とされている。
その為、両班以上の身分の家に生まれた、特に男は、複数の名を持っていることが普通だ。
「お答えする前に、大君様にお伺いします」
「何だよ」
「大君様は、もしお声掛かりがあれば、此度こそ誠に反正〔クーデター〕を起こすおつもりはありますか?」
「はぁ!?」
シアは、もう何度目かで頓狂な声を上げてしまう。が、「あるわけないだろ」と即答した。
「一度、言い掛かり的な謀反の頭目として、濡れ衣着せられてんだぞ。冤罪を本物にするつもりなんて、毛ほどもねぇよ」
シアの意思を確認したミョンギルは、一つ頷いてから、貞淑姉のほうへ身体を向けた。
「であれば、やはり大君様のご生存は当面、伏せておくべきです」
「理由を訊いてもいいのかしら」
「はい、翁主慈駕。少し話が逸れるようですが、関係あることですので、しばしご静聴を。一連の、王に敵対する、もしくは都合の悪い勢力に対する粛正は、最終的には万暦四十六〔西暦一六一八〕年の廃母論……つまり、大妃様と公主様の降格・幽閉で、ひとまず幕となったやに思います。しかし、そこまでの粛正で当然、罪状の無理なでっち上げが続き、現国王殿下と大北派の主立った官僚は、処罰された者から恨みを買っております。万暦四十三〔西暦一六一五〕年に、綾昌君様が、実質は処刑されたのを皮切りに、綾陽君様がその不満分子に声を掛けて反正のご準備を始めたこと、翁主慈駕にはご存じのことと思います」
綾陽君、こと李倧は、綾昌君の実兄であり、シアや貞淑姉には甥に当たる。仮にも、実の弟が無実の罪で殺されたのだから、兄としては当然、仇を討ちたいに決まっている。
その仇が国王という国の頂点なら、引きずり下ろすしかない。その結論が、綾陽君としては、反正に結びついたのだろう。
「フィセ殿は、その綾陽君様から、反正軍に加わらないかというお誘いを、以前から受けているようです。しかし、フィセ殿は、その誘いをずっと断り続け、ご自分と連なる者には同じように返答を留保して欲しいと声を掛けております」
「……それと、俺の生存をソボンに伝えない件と、どういう関係があるんだ?」
「一度、フィセ殿に、その理由を訊ねました。そうしたら、『王位には綾陽君様より相応しき方がおられるやも知れない』と返答がありました」
「……まさか、それが俺だってんじゃねぇだろうな」
自惚れが過ぎるだろうか、とふと思ったが、ミョンギルもシアと同様に渋面で答えた。
「……フィセ殿が胸の内にどなたを描いているか、はきとお名を聞いたわけではありませんので、確証はありません。ただ、フィセ殿は真っ直ぐなお方です。大君様が生きておいでと確信が持てたなら、旗印としては綾陽君様より大君様を推されるでしょう。それに、我々と同様、大君様を捜しておられます。彼の情報網なら、もう捜し当てている可能性もあるので、その場合、我々が口を噤んでいても時間の問題かも知れませんが」
「……勘弁してくれよ」
はぁ~っ、と思わず重い溜息が漏れる。
「……しかし、反正云々はさて置いて、今目の前のことをどうするかを考えたほうがいいのではないか?」
それまで黙って話を聞いていた貞淑姉が、口を開いた。
「ミョンギル殿」
「はい、翁主慈駕」
「先程、城門で検問が行われていると申したな」
「左様です。わたくしが通ったのは、先程も申し上げた通り西大門なのですが、恐らくすべての城門で行われていると思ってよいかと」
「だとすると、当面大妃様とランファを外へ出すわけにはいかぬな。そなたもよ、ウィ」
忙しくこちらへ顔を向ける姉に、シアは首を横へ振る。
「いいえ、姉上。今日は検問で済んだとしても、明日には都中の捜索になるやも知れません。だとしたら、何としても今日中に、母上と貞明姉上を都から外へ出す必要があります」
「あなた様も、というところはお分かりですか、大君様」
横合いから掛かった声の主へ、シアは視線を向けた。
「言われるまでもねぇよ」
「脱出する為の、策はおありで?」
「無策に等しいかも。陽動するくらいっか思い付かないね」
シアは肩を竦めて続ける。
「しかも、陽動には手が足りない。俺が囮になるしかねぇな」
「ウィ!」
さっと顔色を変えたのは貞淑姉だ。
「何を言い出すの! 囮になるなどとそんなこと」
「今回、恐らくは母上と貞明姉上は、行方不明者として捜索されているだけでしょう。もちろん、此度殺され掛けたのを目の当たりにしたのですから、朝廷側に渡すのは論外ですが、放火犯として手配された私が目の前に現れればまず、母上たちは後回しにするはずです。門の警備の目が私に向いた隙に、母上たちが都の外へ出れば、私は私でどうにかします」
「だめよ、そんな危険な」
「では、ほかによき策がおありですか?」
「わたくしが出ます。幸い、チュニョンの寺が安山にあるから、寺参りついでに妹に会うと申せば、検問の兵も見落とすでしょう。その行列の中へ、ランファを男装させて紛れさせ、大妃様はわたくしと輿の中へ。さすがに、光海兄様に目こぼしされてる王妹の輿を検める度胸のある者はおらぬはず。そなたも、侍女として行列に紛れなさい」
騒ぎを起こさずに城門を通過するには、一見いい案に思える。貞明姉だけが外を歩く、というのは些か心配がなくはないが――
「人を調べる職業の人間を、あまり甘く見ないほうがいい。男装と女装による印象の違いというものも侮れませんが、絶対はありませんから」
「では、どうせよと?」
「姉上は姉上の策通り、母上と貞明姉上をお願いします。私も一旦外へは出なければなりませんが、私は私でやります。ただ、その為には、ミョンギルの協力が必要なのですが……」
チラリとミョンギルに視線をやると、彼は首を傾げてシアを見た。
「何でしょうか」
「その前に訊くけど、俺をどう思って、そう上に見る態度を取るんだ?」
「と仰いますと?」
「一応、今の俺は庶人だ。王族でも何でもない、言ってみりゃ流刑先からの逃亡犯だぞ。別にちゃんとした礼なんか取らなくたって、目の前でやったら精々、貞淑姉上が癇癪起こすだけだろ」
「ウィ!」
早速癇癪を起こしそうな姉を手を挙げて制し、ミョンギルに視線を向け続ける。
「俺があんたを信用するとかしないとか、そういう話をするつもりはない。ただ、俺が生まれ持った、元々の出自や身分に対する尊崇なら要らねぇって思ってる。そんなの、俺っていう一人の人間が、たまたま王家に正妃として嫁いだ母上から生まれたってだけの話だからな。あんたの、貞淑姉上に対する義理立てとかも全部取っ払ったら、単なる平民どころか、逃亡犯て肩書きのある俺に、あんたが付き合う義理は本来ねぇと思うけど」
「つまり、わたくしがあなた様に付き合う理由が欲しいと?」
「理由がないと却って怖いね。無償で手伝ってもらうとか、あとでどんな代償払わされるか、分かったもんじゃねぇ」
ミョンギルは、しばし無表情にシアを見つめていた。だが、やがて小さく吹き出す。
「って……ミョンギル殿!?」
貞淑姉が、金切り声を上げる。ミョンギルは、「ああ、すみません」と何とか言いつつ、口元へ拳を当てて、肩先を小刻みに震わせていた。
「大君様があまりにもバカ正直過ぎて……つい」
クックッ、と笑いの残滓を引きずりながら続けたミョンギルは、一つ深呼吸して顔を上げる。表情は真顔だった。
「そういうところにお付き合いする気になった――と申し上げたら、やはりご不審を買いましょうか」
「……つまり、それはたった今湧いた感想だよな」
「否定しません。もし、大君様が元王族というご身分に胡座を掻くようなお方だったら、翁主慈駕への義理立てを考えなくてよくば、お助けするのはどうかと思ったでしょうけれど」
「ミョンギル殿!」
「上等だ」
「ウィ!」
「姉上は少し黙っていてくださいませんか。今はミョンギルと私が話しているんですから」
でも、だの、それは、だのとモゴモゴと口籠もる姉を尻目に、シアは改めてミョンギルに向き直り、ニヤリと唇の片端を吊り上げた。
「あんたも大概バカ正直だな。そこが気に入ったよ」
「恐縮でございます」
「褒めてねぇから」
©️神蔵 眞吹