第二章 過去の真相
「……申し訳ございません、翁主慈駕。こんなに夜遅くに、しかも泥棒紛いに押し入ってしまって」
自室前の庭先に戻って来た貞淑姉に、シアは居住まいを正して深々と頭を下げた。
慶運宮の裏手から、母と貞明姉を連れ出したあと、どこへ避難するか、シアは迷った。
まさか二人を、貧民街の臨時隠れ家に連れて行くわけにもいかない。今拠点にしている妓楼も、パンシクの商団も、城壁で囲まれた都の外だ。
戦力的な不安はないが、閉まった城門を突破するような派手なことは、下手に役人の目を引くだけでしかない。
おまけに時間帯柄、夜間通行禁止取り締まりの軍卒である警守が彷徨いている為、あれこれ考える余裕もなかった。
悩んだ末、慶運宮から比較的近くにあったシン家へ駆け込むことしか思い付けなかった。
その上、貞淑姉に謝罪した通り、シン家にはほとんど泥棒に入ったようなもので、それこそ通報されても文句は言えなかった。警守の耳に入る可能性を考えれば、大声で呼んだり、大きな音を立てて戸を叩くわけにもいかず、シアが塀を飛び越えて忍び込み、閂を外して母たちを招き入れた。挙げ句に、姉の寝室に直接押し掛けたのだ。
「顔をお上げなさい、シア」
だが貞淑姉は、シアの行いを責めることはせず静かに言うと、そっとシアの肩先に手を当てた。
「あの……大妃様と公主様は」
ノロノロと顔を上げると、貞淑姉はニコリと笑った。
「ひとまず、離れへご案内した。いつまででもお世話するゆえ、安心するが良い」
何と返事をしていいか分からず、シアは困った顔で下を向いた。これで、姉に素性を打ち明けていればいざ知らず、母と貞明姉はもちろん、貞淑姉とも今のシアは『他人』だ。
母と貞明姉がいつまでもここにいては、シン家にあらぬ不利益が降り懸かり兼ねないが、それをどう説明するべきか。
口を開き掛けた時、「ところで」と貞淑姉のほうが先に口を切った。
「何故、化粧師であるそなたが、大妃様と琅華を連れて逃げて参ったのだ」
ランファというのは、貞明姉の諱〔本名〕だ。現在、三十五歳の貞淑姉にとって、十九歳の貞明姉は異母妹に当たる。
「それは」
「慶運宮に火が放たれたのは、先程大妃様に伺ったから分かっているが」
「いえ……あの、たまたま通り掛かりまして」
「外出禁止の刻限にか」
矛盾点を遠慮なく突かれ、言葉に詰まる。どうにか絞り出した続きは、何とも噛み合わないものになった。
「敷地内から炎が上がっており、周囲には兵士がいたにも拘わらず、誰も助けに入ろうとする気配もなかったもので……」
矢継ぎ早に言い募るのを、貞淑姉は「仮にそなたの申す通りだとしても、だ」と遮る。
「中で何が起きているかなど、正確には分からぬであろう。炎を見たからと言って、ただの化粧師なら入っても助けられるかも分からぬ」
そう言った姉の目線は、まっすぐにシアの腰に佩いた刀に注がれる。
「第一、会ったことのないお二人を身を挺して庇う理由は、そなたにはないのではないか?」
ぐうの根も出ない。そもそも、ほぼ最初から辻褄が合っていなかった。万策尽きた。言い訳も尽きた。しかも、驚くほどにあっさりとだ。
(あー、もー……)
しっかり言い訳を用意しておけばよかった。ただ、こんな時に万人を納得させられる言い訳って何だろう、と自問しながら、シアは上衣の前を押し広げた。
貞淑姉が、息を呑むのが分かる。
「見ての通り、私は男です。訳あって、女人の振りをしていましたが」
シアは、息を呑むように口を噤んだ姉の戸惑いに構わず、刀を腰から鞘ごと引き抜いた。地面へ両膝を突き、左手を上にして両手を重ねる。上体を深々と屈め、手の甲に額を付けてから、上体を起こした。右足から刀を持って元通り立ち上がると、顔を伏せる。
「……貞淑姉上。遅ればせながら、改めてご挨拶いたします。お久しゅうございます」
シアの挨拶に対し、貞淑姉は沈黙を返した。
「私は九年前、江華島への流刑を賜りました」
シアは、構わず自分の言い分を述べる。
今となってはまず貞淑姉に、自分がウィだということを信じてもらわなければならない。
「七歳の頃のことです。母の許から、体格の良い女官たち数名に無理矢理引き離され、まるで見せ物のように都中を引き回された上で江華島まで送られました」
シアは必死で先を続けた。
「江華島での暮らしは質素で寂しかった。母や姉と離れて暮らさねばならない理由も、まったく分かりませんでした。一人は寂しくて、……お恥ずかしい話ですが、本当に幾日も泣きました。母上、姉上に会いたいとこぼしては、一緒に島まで来てくれた尚宮や内人を困らせたものです」
「そなた……」
「けれど、目が腫れ上がり、頭が割れるように痛むほど泣いても都から迎えは来ず、誰も会いに来てもくださいませんでした。私はようやく、子どもながらにここで孤独に暮らすしかないのだと悟ったのです。理由は相変わらず分からないながらも、質素さにも寂しさにもやっと慣れた頃、私は――焼き殺され掛けました。これは、その時に負った火傷です」
開いたままになっていた胸元に見える傷痕を、無意識に撫でる。
「まさか……では、やはりそなたは……」
「信じていただけるかは分かりませんが……私は、ウィです」
こんな話だけで信じてもらえるか、最早不安しかない。だが、貞淑姉は見る間に目を潤ませ、シアを抱き締めた。
「あの、」
「……やはり、そなただったのね、ウィ」
彼女が耳元で呟くように言い、すぐにシアから身体を離す。
「よく、顔をお見せ」
貞淑姉の白い指先が、頬にそっと触れた。
「何故、もっと早く申さなかったの」
「……姉、上……」
鼻の奥が、ギュッと絞られるように痛む。ヤバい、と思う頃には視界が霞んで、滴が頬を転がるのが分かる。
姉も頬を濡らしながら、シアをもう一度抱き寄せた。
「よく……よく、帰って来てくれました。よく無事で……」
「姉上」
あとからあとから涙が溢れてくる。
息を詰めるようにして、ただ姉の背に縋り付くように腕を回す。無言で抱き返してくれる姉は、シアの背を優しく擦りながら、空いた手で肩をポンポンと叩いた。
こんな風に、年長者から温かく抱き締めてもらうのは、いつ振りだろう。
「ッ……」
喉から迸りそうな慟哭を、歯を食い縛ることでやり過ごす。
殺し切れない嗚咽に肩を震わせながら、シアは貞淑姉の肩口に顔を埋めるように額を押し付けた。
***
「……お互い、ひどい顔ね」
クスリと小さく笑いながら、貞淑姉は、手ずから汲んで来た盥の中の水に、手拭いを浸す。
「自分で、できます」
招じ入れられた室内で、彼女の向かいに座ったシアは、絞った手拭いを頬に当てようとする姉の手を遮るが、姉は譲らない。
「いいから。ホラ、顔を上げて」
まるで幼い子にするように、貞淑姉はシアの顔を上げさせると、その頬に手拭いを押し当てた。泣くだけ泣いて火照った頬に、ヒンヤリとした温度が心地好くて、結局シアは姉にされるままになる。
「……取り敢えず、前を閉じてもいいですか」
気恥ずかしさを誤魔化そうと、シアは姉の手が離れた隙に俯いた。しかし、上衣の袷を閉じようとする手は、やはり姉に遮られる。
「姉上?」
「……ひどいわね」
姉は眉根を寄せて、そっと火傷の痕に指先を這わせる。
「こんな惨い傷跡が残って……そなたはまだ頑是無い幼子であったのに」
まあ、こんな所にも、と言いつつ、姉は額と頭部の境目に、かすかに残る傷跡にも触れる。
「それに、この髪の色……」
先刻、慶運宮の庭先で水をかぶった際に、染料が落ちたのは分かっている。鏡で確認してはいないが、恐らく斑になっているだろう。
「炎に囲まれた恐怖が振り切れたんでしょうね。九年前から髪はこの色です。放っておくと目立って仕方ないので、普段は染め粉で黒くしてありますが」
「……何ということ」
逃げ場のない状態で炎に囲まれるのは、当時八歳だった少年には、筆舌に尽くし難い恐怖だった。それは、髪の色がまったく抜け落ち、一時記憶も飛んでしまうほどの――
「可哀想に……どんなに恐ろしかったことでしょう」
眉尻を下げると、姉は何度目かでシアを抱き寄せる。
「でも、生きていてくれて、本当によかった」
「……何故、信じてくださったのです」
固い声でふと問うと、貞淑姉は顔が見える距離まで身体を離し、首を傾げた。
「どういう意味?」
「今更ですが……もしかしたら、まったく縁もゆかりもない男が、イ・ウィを騙っているやも知れぬのですよ」
貞淑姉は、キョトンと目を丸くしたあと、小さく苦笑した。
「騙って何の得があって? 無実の罪とは言え、そなたは生きていればまだ江華島にいなくてはならぬ身よ。見つかれば逃亡罪に問われ、江華島へ強制送還される。それで済めば僥倖で、そのあと毒薬を賜るやも知れぬのだから、少し頭の回る者なら、永昌大君を騙る旨味などないと分かるはずよ」
シア自身が、パンシクにしたのとまったく同じ答弁に、今度はシアが苦笑した。
「……確かに」
「――と言うのは、理論的な根拠というだけよ。以前、そなたがシン家へ来た時から、わたくしはそうではないかと思っていたわ」
「……はい?」
シアは、思い切り眉根を寄せた。
「え、あの……待ってください。何て仰いました?」
俺が前にシン家に来た時から、ウィではないかと思っていただと??
軽く混乱するシアに、貞淑姉は、面白がるような苦笑を浮かべた。
「だってそなたったら、あまり時間も掛けずに、読唇術ができるのをあっさりわたくしに披露したじゃない? それに、初めて会う化粧師を装おうとした割には、出会ったその日の内に、わたくしに大妃様とランファの安否を訊いて来たのも、唐突すぎっていうか、脈絡がなかったというか……」
第三者の口から自分のやったことを聞かされれば、確かに迂闊というほかない行動だ。
最初にシン家へ呼ばれたあの日、内緒話をする必要に迫られたとは言え、彼女が音にせず、唇だけを動かして話した内容を、即座に理解したことを示したのは、考えなしだったかも知れない。
「まあ、もっと言えば、偽者がわざわざそう訊く利もないわ。火傷の痕だって調べればすぐに偽装かそうでないかは分かるでしょうし、何よりそなたと同じ年頃で、こんな髪の色の者はいないでしょう」
姉は痛ましげに顔を歪めながら、シアの髪の毛を指で梳く。
「そなたこそ、今更だけど、こんなに簡単に、わたくしに素性を明かしてよかったの?」
「……理詰めでとことん外堀埋め立てといて、よく言いますね。第一、疑ってらしたクセに」
幼い頃に戻ったように、思わず唇が尖る。その時ふと、幼い時分、彼女がよく碁の相手をしてくれていたことを思い出した。どんなに頑張っても幼いシアでは勝てず、負かされたあとにはよくこんな風に頬を膨らせていた。
それを見た貞淑姉は、何を思ったか、また苦笑した。
「それは悪かったわ。だけど気を付けて。そなたの女装姿は、ランファによく似ているから、兄弟姉妹なら気付く者がいるかも知れない。それに、兄弟姉妹でも、信用ならぬ者はいる。血縁だからとて、今後は簡単に素性を話してはだめよ」
「貞淑姉上が仰いますかね、と申し上げたいところですが……分かっているつもりですよ、その辺は」
「そうかしら」
「此度、貞淑姉上の許へ駆け込んだのも、ある者に助言を受けたからです。姉上と、イクソン義兄上は信じても大丈夫だと」
「まあ、いやだ。以前、この姉が『頼れ』と申したのを覚えてくれていたからだと思ってたのに」
言われて苦笑する。
確かにそうは言われたが、当時はただただ、貞淑姉に素性がバレたかどうかの心配しかしていなかったことを思い出す。
「その時は、私は姉上にも名乗るつもりがなかったので……ただ、その者も、貞淑姉上方なら頼ってもよいとも申しておりましたから。戊午庭請の時の、義兄上と姉上のお振る舞いも、その者から聞いたのです」
戊午庭請、と聞いた途端、姉の顔が強張った。
息を呑んだように口を閉じた彼女は、手にしていた手拭いを盥の中へ戻す。
「……そう。聞いたのね、あの時のこと」
「詳しくは……私が知っているのは、母上の廃位の際の話し合いを戊午庭請と呼ぶことと、その時に王族まで召集される中、義兄上と姉上が、頑としてご出席を拒まれたということだけです」
「頑として、か」
貞淑姉は、クス、と今度は自嘲気味に微笑した。
「そうね……その選択自体は今も間違っていなかったと思うけど、その為にわたくしは長女を失ったし、春映はあの子自身の旦那様と、お腹の子を失くしたの」
「えっ……」
チュニョンは確か、異母姉の一人、貞正翁主の諱だ。
「いいこと、よく聞いて」
目を瞬いたシアの手を、貞淑姉の手がそっと掴んだ。
「珙……仁城君を覚えていて?」
李珙、こと仁城君は、シアには異母兄の一人だ。現在三十四歳で、貞淑姉には異母弟に当たる。
「え、ええ……お名前だけは存じています。お会いしたことはありませんが」
「あの子はそなたと大妃様、ランファをひどく憎んでいる。気を付けて。できることなら絶対に顔を合わせてはだめ」
「どういう意味です」
「理由は分からない。でも、戊午の年に庭請を行うことを主張したのはイ・イチョムだけど、王族を召集したのはあの子なのよ。そなたが問われた罪が冤罪なのは、あの子にも分かっているはずなのに……」
「あの、姉上」
「ん?」
「話の腰を折るようで恐縮ですが……その七庶獄事について、詳しくご存じですか?」
貞淑姉は、またも目を瞠った。が、すぐにまた目を伏せる。
「知ってるわ。と言っても、わたくしも又聞きのようなものだから、細かいところは自信がないけれど」
「又聞き?」
「ええ。七庶獄事について、裏の話をしてくれたのは、洪瑞鳳と言う男なの。昔、觀察使の任にも幾度か就いていた者で、相当な情報網があるらしいわ」
觀察使は常設職で、八つに分けられた朝鮮各道の長の任だ。職務の中に、暗行御吏〔官吏の不正を正す臨時隠密職〕が行うようなことも含まれており、基本文官職でありながら、武官並の武術の腕と、体探人〔国境諜報員〕並の情報網が必要とされる。
「そのホン・ソボンに拠ると、七庶獄事は、最初はただの強盗殺人事件だったそうよ。それが、取り調べの途中であれよと言う間に、そなたを推戴した謀反事件に変わってしまったらしいの。最初は容疑を否認していた男が、目の前で家族を拷問されるのに耐え兼ねて容疑を認めてから、なぜか大妃様やキム・ヂェナム様にも黒幕としての容疑が向けられたと」
義禁府の資料にも載っていたことだ。
「実は、そなたが生きているかも知れないと報告してくれたのも、ホン・ソボンなのよ」
「えっ」
「彼の情報網に、病死と報せがもたらされたそなたの配所が焼け落ち、そなたの遺体が見つからなかったという情報が引っ掛かったらしいの。その調べを進めていた彼と、わたくしたち夫婦は出会ったのは、佺の配所が最初だった」
貞淑姉が、諱で呼び捨てにする『チョン』と言えば、シアにも甥に当たる綾昌君のことだ。
「チョン、って……チョン兄上が流刑に!? なぜです!」
思わず頓狂な叫び声を上げてしまい、貞淑姉に「シッ」と唇に人差し指を当てられる。
「チョンが、定遠兄様の子だということは、そなたも知っているでしょう?」
定遠君、こと李琈は、シアの異母兄で、貞淑姉とは同母の兄妹だ。
シアが小さく頷くのを確認した貞淑姉は、シアの唇に当てていた指先を、ゆっくりと離しながら、言葉を継いだ。
「そなたが亡くなったとされたあと辺りから、定遠兄様の家には王気が流れているという噂が、民間に流布され始めたの」
王気とは、読んで字の如く、『王』の『気』だ。
「そこに住んでいれば、次の王になるという解釈がなされてね。光海兄様と大北派は、俄に定遠兄様を警戒し始めた。加えてチョンは、信城兄様の戸籍上の養子にもなっていたから」
信城君、こと李珝も、貞淑姉には同母兄、シアには異母兄である。王室では、縁戚内で戸籍上の養子縁組みをすることは、よくあることだ。
「光海兄様と大北派の、あの子への警戒は正直、定遠兄様に対するそれより上だったと思う」
そんな折に、申景禧の獄事と呼ばれる謀逆事件が起きた。
その件で、次期王として推戴されたという容疑で、綾昌君は流刑にされ、その年の内に自害を強いられたらしい。
「……でき過ぎてませんか」
「何が?」
「だって、警戒され始めてすぐに、チョン兄上が流刑になるような事件が起きるなんて」
すると、貞淑姉は、少し驚いたように目を丸くし、もう何度目かで苦笑を浮かべた。
「さすが、鋭いわね」
「聞いていれば分かりますよ。光海兄上にも大北派にも、時機が良過ぎる。そのシン・ギョンフィの獄事とやら、でっち上げなのでは?」
「ホン・ソボンも、そう申していたわ」
シアは、眉根を寄せた。
「……随分、そのホン・ソボンとやらを信頼なさっているのですね」
「もちろんよ。彼も、大北派がでっち上げた事件の被害者だし、何より聡明な男だから。今度、そなたにも紹介するわ。ほかにももう一人、紹介したい男がいるの。そなたの味方になってくれるでしょう」
「……彼らに私の素性を明かすおつもりなら、お考え直しを。私は今、他人にはそうそう自分の素性を吹聴するつもりはありませんから」
どこか冷ややかに言い放つと、貞淑姉の浮かびっ放しの苦笑に、どこか曇った表情が混ざる。
シアは、その表情の意味を深く考えることなく、「とにかく」と先を続けた。
「何故、光海兄上や大北派は、そこまでチョン兄上を警戒したのですか? 信城兄上は、壬辰倭乱の折に亡くなったのでしょう?」
「ええ」
「すでに亡くなられた兄上の養子で、それが王気の流れる屋敷の持ち主・定遠兄上の実子だからというだけでは、警戒する動機には突飛過ぎると思うのですが」
「信城兄様は生前、お父様にとても可愛がられていたの。お父様は、信城兄様を世子にとお考えだったから」
「……臨海兄上や、光海兄上を差し置いて、ですか」
光海君は、父にとっては次男だ。そして、信城君は四男である。おまけに、光海君が次男ということは、その上に長男がいたことを示している。それが、臨海君だ。
「お父様にとって、側室腹の王子たちの生まれの序列は些細なことよ。お父様の本当の望みは、嫡男を世子に立てることだったけど、その当時のご正妃だった懿仁王妃様には、お子がいらっしゃらなかったから」
(嫡男……)
覚えず、その単語に反応する。それに、貞淑姉も気付いたようだ。
「どうかして?」
「……昨日の昼間、偶然内人たちの噂話を聞きました。光海兄上は、……嫡男に取って代わられることを恐れていたと」
硬い声音で答え、目を伏せたまま続ける。ほとんど無意識だった。
「光海兄上は、そんなに世子の座が……王位が大事なのですか」
弟や、甥の命よりも――そう含まれていることを、姉は敏感に察知したようだ。彼女の白い手が、そっとシアの手を握る。
「光海兄様の肩を持つと思わないで聞いて。わたくしだって、あの兄様のやり方にはいい加減我慢の限界が来てるの。でも、兄様も気の毒なお方なのよ」
「気の毒ですって?」
何がだ、と言いたげな色に、シアの手を握る姉の手に、宥めるように力が籠もる。
「光海兄様が世子の座に就いたのは、壬辰倭乱の時だった。それまでは、信城兄様が世子の座に就くと考えられていたけど、当時、信城兄様はまだ十四歳。とても戦時中の難局を乗り切れると思えなかった。というのは建前で、実はお父様と、わたくしのお母様が、信城兄様をお傍から離したくなかっただけなんだけど」
戦の最中に世子になる、ということは、分朝〔非常時に立てられる朝廷〕を一手に引き受け切り回す、言わばこの国のもう一人の王として振る舞わなくてはならないという意味を持つ。
当然、国王自身が地方へ避難すれば、離れて過ごすことになる。一番可愛がる息子を跡継ぎにはしたいが、一人の父親としては、戦という非常時にこそ、離れ離れになるのが嫌だったらしい。
呆れますね、とボソリと言うと、貞淑姉は同意と見える苦笑を浮かべた。
「お父様とお母様の目論見としては、戦さえ終われば信城兄様に世子の座を与えるつもりだった。つまり、お父様としては、光海兄様の世子位は、戦の間だけの、臨時のもののつもりだったのよ。けれど信城兄様は、そなたも知っている通り、戦が終わる前に病で亡くなった。念の為に言うと、暗殺とかでは本当にないのよ。信城兄様は元々お身体がお弱くて……避難の為の長旅が、かなり堪えたみたい。臨海兄様は、わたくしが言うのもなんだけど、世子としての資質に恵まれていなくて、最初から候補にもなっていなかったのと、戦の最中に光海兄様が見せた為政者としての手腕から、戦が終わったあとも、世子は光海兄様のままだったの。だから、戦が終わったあと、明国にはそのまま、世子承認の申請をした」
自国の跡継ぎや、国王を決めるのに、他国の承認が要るというのもおかしな話だ。が、明国は実質、朝鮮を自国の一地方領として扱っている。
朝鮮国王を呼ぶのに、朝鮮の臣下が『陛下』ではなく『殿下』という呼称を使っているのは、その為だ。
朝鮮の臣下は臣下で、朝鮮はあくまでも独立国であり、明国とは兄弟関係と言いながらも、王位や世子位に関してかの国の承認が要るというのを、なぜか自然に受け入れているように思える。
「明国皇室は長幼の序を重んじているみたいで、長男がいるのにどうして次男が世子なのか、っていうのが一貫した主張でね。結局、臨海兄様が亡くなられるまで、王位承認さえ渋られていたのよ」
「……それってまさか」
言いたい先は、またも察したのだろう。貞淑姉は、肩を竦めた。
「詳しくは分からない。ただ、臨海兄様が亡くなった時機が、光海兄様にとっては都合がよかったことは確かよ。わたくしも、光海兄様が完全に白だとは思ってないし、イ・イチョムや大北派が何かしたのじゃないかっていう疑いも持ってはいるのだけど」
「……では、私は?」
「え?」
「私に取って代わられるのが怖かったなら、嫡男を世子にと望まれた父上が亡くなられた時点で、その心配はなかったはずじゃないですか。どうして……」
言い募る間に、視界が歪む。
「ウィ」
「何でッ……! 何で俺は殺されなきゃなんなかったんだよ! 何で父さんはあんな風に死ななくちゃいけなかったんだ!? 母上と貞明姉上だってどうして……ッ!!」
自分を殺そうとする策謀に、光海兄が関わったかどうか、まだ分からない。けれど、理性ではそう思えても、今はただ、自分が殺され掛けた理不尽のほうが悔しかった。
光海兄が、関わっていようがいまいが関係ない。巻き込まれただけの自分の罪状に、母と貞明姉が巻き込まれている現実が焦げそうに悔しい。
いつの間にか、貞淑姉に抱き締められているのにも気付かず、シアは目の前の人にただ縋り付いて、随分長いこと啜り泣いていた。
©️神蔵 眞吹