第一章 長き一夜《いちや》
その日の夜、シアは玉聲楼に外泊の許可を得て、都内の貧民街にある空き家の一つに潜んでいた。
陽が落ち切る前に黒い上衣と下衣に着替え、口元と頭部を黒い布で覆って支度を済ませる。
そうして、戌時の初刻〔午後七時〕頃、その空き家から外へ出た。
朝鮮の都・漢城〔現在のソウル。漢陽とも言う〕は、実は中央部に貧民街がある。
立地の所為で水捌けが悪く、衛生的ではない為だ。シアはまだ経験がないが、梅雨時などは水浸しで、地面はいつもぬかるんでいると言う。
その為、都の北部にある北村が一番よい土地とされ、権力ある両班が住まっている地域になる。王宮も北側だ。
南部にある南村は、権力のない下級両班が住み、身分が下になるほど都の中央か、城壁付近へ追いやられて住むしかないらしい。
例外は商人だ。
羽振りの良い商人なら、郊外の住み好い土地にでも住居を求めれば良さそうなものだが、都の中央部に住まいを構えている者が多い。これは、商店街である雲従街が、ちょうど漢城を南北に分断する位置に走っている為、通勤の利便性を優先するとそうなるようだ。
目的の義禁府は、シアが潜んでいた空き家からは、南西方向に一里〔約四百メートル〕と少し行った場所にある。
貧民街を抜け、雲従街の商店の屋根を飛び越えて義禁府へ辿り着き、裏手の塀から敷地へ侵入した。
さすがに、用事もないのに義禁府へ入ったことはないので、事件資料の保管庫を捜し当てるのには少々時間を要した。
だが、時刻が時刻だけに、当直の見張り以外に人はいない。その為、割合ゆっくりと探索することができた。
資料保管庫は、敷地正面から見て奥まった場所に建っていた。
ここだけは、見張りを突破しないと入れなかった。どうしたものかと思ったが仕方がない。交代の直後を見計らって、一人に襲い掛かった。
声も立てられずに死んだ仲間を見て、慌てて呼び子を吹こうとしたもう一人の喉元へ、素早く刀を突き付ける。
「大声を立てるなよ。笛を捨てろ。次の交代時間はいつだ」
首筋へ刃を押し付けながら鋭く問うと、今にも自身の首に刃が滑りそうだと見て取ったのか、男は言われた通り笛を捨てつつ、小声で「いっ……一時辰〔約二時間〕後だ」と答えた。
シアは覆面の中で唇の端を吊り上げ、そのまま刃で男の首筋を撫でた。吹き上がる血を浴びないように即座に相手を蹴り飛ばし、距離を取る。
一時辰もあれば目的の資料を探し回るには充分だが、それにしても死体をそのままにしておけば、通り掛かった者の目に付き、時間が短縮されてしまう。
先に殺した相手を引きずって建物の陰に隠し、その遺体を調べるが、こちらは鍵を持っていなかった。もう一人も同様に身体を調べたが、やはり鍵は持っていない。
足音と気配を殺したまま、保管庫の出入り口へ戻る。鍵を抉じ開ける道具は持っているし、実行することも考えたが、その時間も惜しい。
シアは鞘へ収めた刀で鍵を叩き壊し、保管庫へ滑り込んだ。
鍵が掛かっていた割に、内には明かりが灯っている。ここは特に、事件記録が保管してあるだけに、いつ何時でも資料を確認できるようにという備えだろうか。
(正直、助かったけど……)
炎を見るだけで狂乱状態になるようなことは、記憶が戻ってからはなくなっていた。だが、フィギルが亡くなるまで、結局野宿等の時の火の扱いはフィギルに任せっ放しで、熾し方さえ学んでいない。
これは近い内にどこかで誰かに教わる必要がある、と思いながら、シアは林立した書棚に目を投げた。
所狭しと並んだ書棚には、平積みに資料が置いてある。
目に付いたのは、棚に張り付けられた、『万暦三十九年』の文字だ。どうやら、年代別に並べられているらしい。ならば、ある程度の目星は付け易い。
(えっと……)
シアが流刑になったのは、万暦四十一年〔西暦一六一三年〕、七歳の時だ。
七月の末に、突然母と姉から引き離され、都の中の質素な民家に隔離されたのは覚えている。
(……だとすると、七庶獄事が起きたのはその頃か)
万暦四十一年の棚から、七月以降の事件記録を引っ張り出し、明かりの傍へ持って行く。だがそこには、シアが民家に隔離されてからひと月後に流刑にされたという記録しかなかった。
(事件自体はもっと前だったのかな)
遡ると、五月の記録にやっとそれらしい記述を見つけた。
事件の発端は、商人を相手に強盗殺人を繰り返していた両班の庶子たち七人が捕縛されたことだった。『七庶』という事件名は、そこから来ているのだろう。
取り調べに当たったのは、当時から、禮曹判書と藝文館・大提学を兼任しているイ・イチョムらしい。
ちなみに、禮曹とは六曹と総称される、朝廷の主立った官庁の一つで、判書はその長。藝文館は王命などを記録整理する官庁で、大提学はその長である。犯罪捜査は、どちらも管轄外のはずだ。
(それが何で……)
とにかく、強盗団の首領と目された、朴應犀が自白したところによると、『一連の強盗は、実は謀反の資金集めであり、その資金を以て永昌大君様を推戴し、反乱を起こすことを企んでいた』ということらしかった。
この自白の功により、パク・ウンソは罪一等を減じられ、拷問付きの尋問を免除されることとなった。だが、代わりに副首領・徐羊甲に、激しい拷問が加えられた。
当初、ヤンガプは、謀反の計画については否認していた。しかし、自らの家族を質に取られ、加えて母親を目の前で拷問される苦痛に耐え兼ねたらしい。ついに、ウンソの供述が事実だと証言した。
更に彼は、永昌大君の母方の祖父・金悌南が謀反の黒幕であり、先王の継妃〔王が存命中に正妃が死去した場合に迎える、二番目以降の正妃〕で当時は大妃となっていたシアの母・金時琅も、この計画に加担していたと自白する。
かくして、母・シランの実家であるキム家を始め、先王・宣祖に永昌大君の保護を遺言された七人の重臣ほか、永昌大君を支持していた小北派・西人派・南人派〔いずれも政党〕の数十人が捕縛・投獄された。
その後の調査の過程で、祖父・チェナムと母・シランが、現国王・光海君の戸籍上の母となっている先王・宣祖の初代正妃・懿仁王后の陵へ巫女を差し向け、呪詛を行わせていたと証言する者まで出た。
その証言者は、あろう事か、父王に遺言を受けた七臣の一人・朴東亮だった。
この罪科により、祖父・チェナムは死刑を言い渡された。彼の息子たち――すなわち、シアの伯父たちや叔父も、連座で賜死〔賜薬の刑とも呼ばれる毒殺刑〕している。シアの祖母や伯母たちは、官婢となり、地方の官庁へ送られたようだ。
捜査に携わった者の名は、イ・イチョム、ハン・フィギル、イ・ヂョンピョ、鄭沆――
(……チョン・ハン?)
シアは眉根を寄せた。初めて聞く名だ。
そこから、シアが実際に流刑に処されるまで、特に関連した記録はなさそうだった。
始めは、謀反の計画を否定していたソ・ヤンガプに話を聞ければと思っていたが、ヤンガプは処刑されたと記録されていた。最初に謀反を自白したパク・ウンソは、当初は江華島へ流されていたが、流刑になった年の十一月には放免されたとあり、その後の記録はない。
(生きてるなら、コイツの行方が追えねぇかな)
ウンソに話を聞き、謀反未遂がでっち上げだと証明できれば、母たちは自動的に解放される。
ともあれ、何も知らない人間が、この記録だけを見たなら信じてしまいそうだ。シアとて、フィギルの死に際の告白がなければ、自分は運悪く巻き込まれただけで、祖父や母が陰謀をたくらんだかも知れないと、一度は思ったはずだ。
(だけど)
“お赦しを……あの日、大君様を弑し奉るよう、江華島へ命を届けたのは、わたくしでございます”
“都にどうか、近付かれませんよう……あなた様が生きていると知れば、きっとまたイ・イチョム大監は狙って参ります”
“イ・ヂョンピョは、かつてあなた様を焼き殺そうと図った時、共にその場に……”
“どうか……お赦し、ください。わたくしたちは、殿下の御為とは言え、あまりにも酷なことを大君様に強いようとしました。まだ幼いあなた様に、殿下の地位の安寧の為、死んでいただきたい、など……”
脳裏に、フィギルの末期の言葉を反芻する。
(イ・イチョム……イ・ヂョンピョ……ハン・フィギル……)
シアは、記録の中の名をなぞりながら、脳内でその名を呟いた。
フィギル自身の名前以外は皆、彼の言葉の中で出て来た。そして、彼の本名が恐らく『ハン・フィギル』であることは、イ・ヂョンピョの口から語られている。
もし仮に、パク・ウンソ以下七名が、本当に謀反を計画していたとしても、シアがただ祭り上げられただけなら、王子位を廃し流刑にまでしておいて、わざわざ止めを刺すだろうか。シアを庶人にした時点で、もっと言えば、キム家を根絶やしにした時点で、朝廷側からすれば、処罰は終わっているも同然だというのに。
ふと思い付いて、シアは自分が死んだとされる頃の記録を捜した。
恐らく、火事に遭ったあの辺りだから、流刑にされた翌年、万暦四十二年〔西暦一六一四年〕の二月中旬に差し掛かる頃――
「……えっ?」
思わず声が出てしまい、慌てて掌で口を覆う。
そこには、『罪人、イ・ウィ、流刑先で病を得て死去。享年八歳』とだけ記されている。
(どういうことだよ……病死?)
パンシクは、確か“火災があったが、王子の死体は見つからなかったという情報が流れて来た”と話していたので、てっきり世間にも、シアは焼け死んだと流布されているのだとばかり思っていた。
それが、公式記録には病死とされているところを鑑みると、やはり彼らが何らかの策を講じ、事実をねじ曲げた可能性が高い。
(それに、チョン……)
“チョン大将! 間違いないのね!?”
不意に、脳裏にケシの言葉が蘇る。
あの日、まだ記憶の戻らないシアに止めを刺しに来たのは、恐らく現在も提調尚宮の地位にあるケシと、『チョン大将』と呼ばれた人物だ。細面で目も細く、ヒョロリとした体躯のあの男――
(……まさか、あいつがチョン・ハンなのか)
チョン姓の人間は、ほかにいくらでもいそうだから、彼が七庶獄事の捜査に関わったチョン・ハンだという確証はない。だが。
“やはり生きていたか、イ・ウィ。悪いが、もう一度死んでもらうぞ”
(あの台詞は……七庶獄事に関係した人間じゃないと出て来ないよな……多分)
唇を噛み締める。
とにかく、この資料だけでは表向きの概要しか分からない。手懸かりも多少は掴んだが――
「――あれ、おい。保管庫の見張りは?」
(やばっ!)
出し抜けに外から声が聞こえ、シアは急いで広げた資料を掻き集める。元の書棚へ資料を戻し終える頃、首筋の産毛が俄に逆立った。
さすがに、義禁府に勤める武官は、異常を察知すれば、怪しい場所へ馬鹿正直に怒鳴り込んでは来ない。
シアは素早く書庫の壁際へ陣取り、相手が足音を殺して室内へ踏み入ってくるのに合わせて出入り口へ近付いた。開け放しになっている扉から滑るように外へ出たが、そこで待ち受けていた一人と鉢合わせる。
「何者だ!」
武官らしき相手は、すでに抜いた刀をシアの首筋へ突き付けた。
シアは無言で何の準備動作もなく、相手の刀を握った手首に蹴りを入れる。まともにそれを食らった武官は、「あっ!」と声を上げ、目を見開いて、弾き飛んだ刀の行方を目で追った。
シアはその刀の柄を掴むと、相手を袈裟懸けに斬り下ろし、素早く地を蹴る。
保管庫へ入っていた武官がこの時になってシアに追い縋ろうとするが、シアはすでに義禁府の塀を越えていた。
ただ、来た時と同じ経路で逃走、というわけにはいかなかった。とにかく、義禁府から遠ざかるよう闇雲に走る。
ふと、前方へ視線をやると、夜にしては明るい一角があるのに気付いた。官公庁の前では松明を焚いていたりするが、それにしても明る過ぎる。
まるで、火事でも起きているような――
覚えず足を止め、追っ手が来ないことを確認しながら物陰で様子を窺う。よく見れば、そこは慶運宮――母と貞明姉が幽閉されている宮の前だった。塀の内から炎が燃え上がり、悲鳴もかすかに聞こえる。
塀の周りには、グルリと兵士らしき者たちが取り囲んでいるが、誰も火を消しに入ろうとしない。
(どういうことだ)
母と姉は無事だろうか。これではまるで、周りの兵たちは、二人が死ぬのを待っているようだ。
シアは、手近な建物の塀へ跳躍し、屋根に上がった。上から観察すれば、この場の指揮官が分かるかも知れない。
正門の前に、指揮棒を持ち、手持ち無沙汰にウロウロとしている男が目に付いた。
程なく正門の扉が開き、一人の女が出て来る。
「どうだ。死んだか」
「鎮火すれば、ご遺体が見つかると思います」
「では、あとは任せてもよいな」
「はい。明日にはすべて、片が付くかと」
「よし。引き上げだ」
短いやり取りのあと、男が指揮棒を振ると、周囲の兵士は潮が引くように、馬に乗った指揮官のあとに従った。それを見送った女は、門の内へ入り扉を閉める。
シアはその間に、敷地内へ目をやった。燃えているのは一つの建物だけで、敷地内すべてに火があるわけではない。
通りに誰もいないのを見澄まして、シアは慶運宮の塀へ飛び移り、敷地内へ降りた。
そこからすぐ、火の手の上がっていた建物のある、左手へ走る。途中、焼け落ちたままの建物があるのに気付いた。ここは、そんなに火事が多いのだろうか。
(……いや)
先刻の、男女のやり取りが頭を過ぎる。廃位・幽閉されて尚、母と姉は、もしかしたら暗殺の危機にあるのかも知れない。
(どうして)
なぜ朝廷側はここまでして、母と姉を執拗に追い詰めるのか。
しかし、シアは思考を振り払った。それを考えるのはあとでいい。今は、二人の安否を確認することが先決だ。
途中で目に付いた井戸から水を汲んで、先を急ぐ。
「そなたは一体、何をしているのだっ!」
あと一町〔約百九メートル〕程、すぐ前に燃えさかる宮が見える距離にまで来た時、その怒鳴り声が聞こえた。とっさに闇の中へ身を隠す。
燃える宮の、火の粉が飛んで来ない場所で大声を上げているのは、年輩の女性だ。恐らく、母と姉に仕える尚宮だろう。
彼女の前には、内人と思しき女性が、ただ俯いて立っている。
「そなたが自分で申したのだぞ、牟中還! 出火を大妃様にお知らせし、必ずや自分が大妃様と公主様をお連れすると!」
瞠目するシアや、ほかの内人、尚宮らの前で、モ・ヂュンファンと呼ばれた女性は淡々と「申し訳ございません」というばかりだ。その言葉に、心が籠もっていないことはすぐに分かった。
(それに、この声)
先刻、正門の前で、怪しげな男と言葉を交わしていた女の声だ。
もう人目を気にしている場合ではなくなった。シアは頭部から覆面を剥ぎ取り、手にしていた桶へ突っ込む。
「大妃様方のご寝所はどこです!」
桶を持って足早に近付くシアに、その場にいた全員が視線を向けた。
「一刻を争うのでしょう、早く!」
「お……奥の部屋だ」
シアの剣幕に圧されるように、尚宮と思しき女性が口を開く。
「順路は」
「入り口を入ってすぐ左に行って、突き当たりを右だ。その奥になる」
「分かりました」
言うなり、シアは手にしていた桶の水を引っかぶり、水に浸した覆面を元通り頭からかぶる。端を口元へ当て、深呼吸すると階を駆け上がり、炎の中へ飛び込んだ。
(ヤバいな)
ぐっしょりと濡れていたはずの身体が、どんどん乾いていく。
この火の勢いは、普通じゃない。恐らく、宮の中にも何か、油のような可燃性のモノが撒かれていた可能性がある。
だが、原因を特定するのも後回しだ。
シアは、なるべく頭の中を空にするように努めながら、小走りに駆けた。そうしていないと、叫びながら外へ逃げ出したくなる。
自分が死に掛けた時とまるで同じ――しかも、逃げ出すのではなく炎の中心へ踏み込んで行っているのだ。あの時の、炎に対する恐怖は、まだしつこくシアの中に燻っていた。
怖い、怖い――今すぐここから出たい。弱い自分が、幼い頃の自分が、『来た道を引き返せ』と喚いている。
けれど、その声に耳を貸しそうになる度に、シアは『母上と姉上を見捨てるのか』と自問し、自分自身を叱り飛ばした。
逃げて助かったとしても、目の前で二人を死なせたら、その後悔にこの先ずっと苛まれて生きなければならない。
(いや、違う)
後悔の中で生きるのなど構わない。心配なのは、そんなことじゃない。ただ、母たちを助けたい。それだけだ。
焼け落ちたことでできた障害物を、抜いた刀で切り開きながら、寝所へ向かう。
まだ辛うじて湿っている布越しに深呼吸し、一気に駆け抜けて、火の付いた扉を蹴り付けた。
「母上! 姉上!」
その内の、もう一枚の扉はまだ焼けていない。
「大妃様、失礼します!」
一言断りを入れると、扉を開け放つ。そこには、適当な布を口に当てた母と姉らしき二人の女性が、抱き合って立ち尽くしていた。何しろ、最後に別れてから九年も経っているので、母と姉とは言え、顔をよく覚えていないのだ。
「遅くなって申し訳ありません。大妃様と公主様ですね、お怪我は」
素早く自身がかぶっていた布を二人にかぶせながら確認すると、少し年輩の女性――恐らくこちらが母だ――は、呆気に取られた様子ながらも、「いいえ」と答えた。
「大丈夫だ。ところでそなたは」
シアより二つ三つ上に見える女性――多分姉だろう――が、硬い表情で問う。
「話はあとで。とにかく、ここを出ましょう。歩けますか」
二人が頷いたのを確認すると、シアは彼女たちの肩を抱くようにして通路へ足を向けた。途端、天井が崩れて来て、シアは二人を半ば突き飛ばすようにして室内へ引き返す。
二人は、緩慢な動きで起き上がるが、非常時ゆえか、特に文句を言ったりはしない。
「くそっ……!」
落ち着け、と言い聞かせながら、前髪を掻き上げる。
どうする、どうしたらいい、と自問し、室内を見回した。この部屋はまだ無事だが、いつまでも安全地帯ではない。
まるきりあの日の再現だ。と思った途端、呼吸が苦しくなる。
(ヤバい)
刀を持っていないほうの手で、自分を抱き締めるようにして腕を回す。
落ち着け、ともう一度脳裏で繰り返すも、それは呪文ほどの効果も生まない。早く脱出しなければ、焼け死ぬより早く気が触れてしまう。
「……どうした?」
不意に触れた温かい感触に、ビクリと肩が震えた。
「っ、あ……」
「大丈夫か? 顔色が悪い」
「あ、いえ……」
心配げに覗き込む母の視線から目を逸らしながら、何でもありません、と返す。
不覚にも、母の掌の温度が、少しだけシアに冷静さを取り戻させた。母と姉を助けに来たつもりだったのに、自分のほうが助けられている。そう思うと自分が不甲斐なかったけれど、今はそれを無視することにした。
自己嫌悪に浸るのは、無事に避難したあとからでもできる。
瞬時、目を閉じて、口に当てた上衣の袖越しに軽く深呼吸した。
改めて室内を見回せば、自分の時より状況は遙かにマシなのが分かる。加えて、自分は今あの時より成長し、刀を手にしている。活路は開けるはずだ。
母たちの寝ていた布団に目を落とし、その横の屏風に視線を転じる。シアは無言で屏風に歩み寄り、蹴倒した。
その後ろには、窓がある。
「ここから出ましょう」
「えっ」
母と姉は、目を瞬いた。いくら何でもそんな所から、と言いたげな空気が、ありありと伺える。
「しかし……その窓は窓に見えるが、嵌め殺しだ。開くことはできぬ」
「分かっています」
だから、と言う代わりに、シアは手にしていた刀をそこへ突き立てる。手応えからすると、この向こう側は間違いなく空間だ。
立地からすると、裏手に出られるのではないか。確かではないが、賭けるよりない。シアは、一度刀を引き抜いて、今度は躊躇いなく袈裟懸けに斬り付けた。
©️神蔵 眞吹