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第一章 烽火《のろし》

 死にたくない、死にたくない、――死にたく、ない。


 その幼さに似合わず、匂い立つような美貌を持つ少年の頭に渦巻いているのは、その言葉だけだった。


「……ぃ、ここ、開けてっ……開けてよぉ!」


 室内は、燃えるように熱かった。

 いや、比喩ではなく実際に燃えている。

 辛うじて触れることのできる木枠を掴んで障子戸を揺すっても、扉は少年の力ではビクともしない。

 少年は、ほかに出口がないかと周囲を見回す。

 しかし、八歳にもならない少年に、誰の慈悲もない。彼の背後は、すでに火の海だった。朱色とも緋色ともつかない赤い残酷な舌が、舞うように揺らめき、室内のあらゆる物を舐め回す。

 恐ろしい炎舞は床の温度を引き上げ、足の裏をじりじりと灼いていく。

 つい先刻まで安全地帯だったはずの布団も、今はあちこちが黒くなり、炎が吹き上がっていた。

(熱い)

 その温度は、正気でいられる限界をとうに越えていた。

 怖くて息苦しくて、少しでも早くこの場をあとにしたいのに、少年はそこに閉じ込められてしまい、外へ出て行くことができないのだ。

(助けて、誰か)

 酸素が欲しくても、喉が焼けるような気がして息が吸えない。自然、呼吸は浅くなり、苦しさは増す一方だ。

(苦しい)

 助けて、誰か――そう繰り返した時、脳裏によぎったのは、懐かしい母と姉の顔だった。

(母上……姉上)

 早くに亡くした父の顔は、肖像画でしか知らない。

 下手をすると、祖父と言っても過言ではないほど年齢が離れた父との思い出は、少年の中ではあまりにも遠かった。

 代わりに浮かんだ、母と姉に手を伸ばすように扉を叩く。その手には、扉を破るほどの力はない。

 熱を伝え始めた木枠に縋るように、少年はついにその場に膝を突いた。床はもう飛び上がりそうに熱いのに、ほかに逃れられる場所もない。体力も限界だった。

(兄……上)

 こちらが父親と言っていいほど年の離れた、腹違いの兄の顔がふと浮かぶ。

 少年は、七歳になったばかりの頃、この江華島カンファドへ移り住まされたので、兄とは数度しか会った記憶がない。

 けれども、会えば優しく笑いかけてくれて、頭を撫でてくれた。抱き上げてくれたこともある。それなのに。

(どうして……こんなこと……そんなに私が憎かったのですか。どうして――どうして……!)

 こみ上げる涙が、果たして悲しさに依るものか、それとも謂れなくこんな風に死ななければならないことへの悔しさから出たものか、少年にも分からない。

 頬を伝う雫が瞬時に蒸発するほど熱くなった空気の中で、少年は目を閉じた。


***


「……だ、具合は……」

「――――た……」


 切れ切れに人の声がして、少年はうっすらと目をけた――つもりだった。

 けれど、上げようとした瞼は重く、開き辛い。程なく、瞼に掛かるように濡れた布が置かれているのだと気付く。それをどける為、無意識に手を動かそうとした。が、その瞬間、形容し難い痛みに遮られて、ビクリと身体が震えた。

「いッ……!」

 思わず上げた悲鳴に、傍で話をしていた人間が気付いたらしい。

大君テグン様! 気が付かれましたか!?」

 声が大きくなる。近付いた声のぬしは、しかし、少年の身体を気遣ったのか、触れようとはしない。

 痛みのあまり答えられずにいると、左腕を取られた。連動して激痛が走り、身体が勝手に仰け反る。

医官! どうなのだ、大君様のご容体は!?」

 ホ医官、と呼ばれた人物は答えない。

 ただ、額に置かれていた布が取り去られ、少年の視界がようやくひらけた。薄ぼんやりとしていた視界は、数度瞬きすると、次第に焦点を取り戻す。

 見覚えのない天井と、初めて会う人物が二人、目の前にいるのが分かった。

「気が付かれましたか?」

 老齢に差し掛かった男が、柔らかな声音で問い掛ける。それに答えようとするが、うまく声が出ない。

「大君様。お分かりになりますか?」

「……れ……」

 寝起きだからか、それとも全身を覆う痛みの所為か、やっと絞り出した声は掠れていた。それを、聞き取ろうと努力するように、老齢の男は首を傾げる。

 その表情は、答えを急かすのではなく、優しく見守るようなものだった。

 少年は、それに励まされるように何度か深呼吸を繰り返すと、もう一度疑問を口にする。

「そなたは……誰……?」

許準浩ホ・ヂュンホと申します。医者です」

「ここ……どこ……?」

「私の家です。ご安心を、大君様」

「テグン……」

 それは、自分のことなのだろうか。

 だが、その疑問をただすより早く、意識は再び闇に沈んだ。


***


『――なぁ。“テグン”って、誰のこと?』


 そこまでの人生の全記憶が飛ぶほどのひどい火傷が、ようやく癒えて来た頃。何気なくそう訊いた相手は、その治療に当たってくれた医師だった。

 その時、庭先にある作業台で薬草を乾かしていたホ・ヂュンホは、目を真ん丸にして、はじかれたように時雅シアに目を向けた。そしてやがて、苦笑に近い微笑を浮かべる。

『……“大君”は、王妃様がお産みになった王子様の尊称だね』

 この国で、“王妃”と言えば、国王の正妃を指す。つまり、“大君”は王の嫡男だ。

『おれが、そうだってこと?』

 そう問うと、チュンホは困った顔をし、反問した。

『どうして、そう思うんだい?』

『だって先生、おれに言ったじゃん。“ご安心を、大君様”って』

『……そうだったかな』

 チュンホは、さり気ない仕草を装って立ち上がると、そのままその場をあとにしてしまった。子ども心に、訊いてはいけないことを訊いた気分になり、チュンホとのあいだにその、同じ話題を持ち出すことはできなかった。

 父である稔希吉イム・フィギルに至っては、聞こえない振りをされてしまったので、シアはその疑問を、失望と一緒に心の奥底へ仕舞い込んだ。あとひと月ほどで八歳になろうとしていたあの日、炎に消えてしまった“記憶”のことと共に。

 けれど時折、何かの拍子にふっと脳裏に浮かぶのだ。自分は、本当は何者なのか。本当に自分は、父の息子なのだろうか、と――


***


「――ぅわっ!」


 カンッ! と甲高い音がして、手に何とも言えない衝撃が走る。瞬間、持っていた木刀が弾かれ、円を描きながら頭上の木の茂みに突っ込んだ。

 尻餅を突き、反射で瞑った目をけた時には、木刀の切っ先が目の前にある。

「……注意散漫だぞ」

 息も切らせていない声が、上から降って来る。木刀の延長線上へ視線を上げると、厳つい顔の中にある小さな目が、シアを厳しく見下ろしていた。

「……分かってるよ」

「いいや、分かっていない。鍛錬中に考え事をするなと言っているだろう。木刀とは言え、少し間違えば大怪我に繋がる」

 木刀を引いた父は、きびすを返した。

 シアは薄く引き締まった唇の端を、ムッツリと押し下げたまま立ち上がる。身に着けた赤いチマ〔くるぶしまで丈のある巻きスカート〕を、パンパンとはたいた。


 大火傷を負って、今の生活の基盤である寺院へ担ぎ込まれてから、早一年が経とうとしている。

 チュンホとその妻・甘昭禎カム・ソジョンの懸命な看護により、シアの火傷は、あちこちに引き攣れたような痕は残っているものの、粗方癒えていた。今では、父・フィギルに、武術の稽古を付けてもらえるまでになっている。

 しかし、炎に囲まれた恐怖からか髪は真っ白になり、八歳までの記憶も戻らないままだ。シアの年齢で白銀の髪は目立ちすぎるので、編んだ髪は、今は染め粉で黒くしてある。

 チュンホの許可が出てから、フィギルは時折こうして寺院の近郊にある森へシアを連れ出し、武術の稽古を付けるようになっていた。

 理由はシアには分かっていない。もっとも、武術の稽古は苦ではない為、シアは特には不満は言わなかった。

 最近ではむしろ、精神的負担の解消にも繋がっている為、シアは鍛錬の時を心待ちにもしていた。なぜなら――

「――あーら、童妓トンギ〔芸妓見習い〕のお帰りよ」

 一度父と別れて、寺院敷地の裏から戻ると、シアと同じ格好――着衣は赤い上衣チョゴリとチマの上に丈の長い緑の上衣を羽織り、赤い帯を締めている。髪の毛は、側頭部を編み込んでうなじで一つの三つ編みに纏められている――の少女たちが、一斉にこちらへ目を向けた。シアの精神的負担の元凶たちだ。

「今日も姿が見えなかったから、今度こそ妓楼に売られたと思ったのに、残念ねー」

 クスクスと耳障りな笑いを合いの手のように挟み、そう言ったのは、この寺院に引き取られた巫女見習いの少女たちの中で、首領のような位置にいる者だった。

 嫌らしい笑みを浮かべた彼女――名を亞羅アラといった――は、ゆったりとした足取りでシアに近付く。

「ねぇ、巫女見習いとしての修練が嫌なら、いつだって妓楼に行っていいのよ? 私から都巫女トムニョ〔巫女のおさ〕様にお願いしようか?」

 先日、九歳になったばかりのシアより年嵩のアラは、上から覗き込んで威圧するようにシアを見下ろした。

 アラに加勢するように、ほかの少女たちもシアを取り囲む。彼女たちの身長は、シアと似たり寄ったりだが、これだけ人数がいると、囲まれたら外からは見えない。

 それをいいことに、アラがシアの胸倉を掴み、突き飛ばした。アラの動きに合わせて、少女たちは陣形を変える。

 シアはそれと分からないように受け身を取って転がり、上体を起こした。さりなく、乱れたあわせを直す。

 シアくらいの年齢だと、上半身が見えたところで性別は分からないだろうが、素性がバレる危険は冒せない。何しろ、この寺院にいる者は、一部を除いては皆、シアを『少女』だと信じて疑っていないのだから。

「……何よ、その目は」

 悲鳴も上げず、顔もしかめないシアに、アラはたちまち機嫌を損ねたらしい。

「勝手なことばっかりしてるクセに、都巫女様が甘い顔してるからって付け上がるんじゃないわよ!」

 彼女の足が胸元めがけて飛んでくる。さすがにシアも、彼女の足の軌道を逸らすように捌いて身体ごとその場を飛び退いた。

 足を思わぬ方向へ逸らされた彼女は体勢を崩し、つんのめった。慌てて取り巻きの少女たちが駆け寄る。

「アラ!」

「大丈夫? アラ」

「なっ、何するのよ!」

 ほかの少女たちに助け起こされながら、アラは涙目で抗議した。が、立ち上がったシアは、動じずに呆れを目に浮かべてアラを見つめ返す。

(いや、別に何もしてねぇし)

 ただ、あの蹴りを受けたら、大した威力でなくても何かしらの痛手を負う可能性は否定できない。シアにすれば、自分の身を守っただけだ。

 それに、仕掛けて来たのはアラのほうだというのに、彼女は殊更大袈裟に騒いだ。

「ひどい! ちょっと顔がいいからって!」

(いや、それも関係ねぇだろ)

 第一、シアとしては、自分程度の顔はどこにでもあるそれだと思っている(なんてことを率直に口に出すから、同年代の少女の反感を買うというところは、まだ自覚がないのだが)。

「あなたたち! そこで何をしているの!」

 程なく、騒ぎを聞き付けたのか、寺院の世話係の若い従巫女チュムニョ〔平巫女〕が駈けて来た。

 彼女は、赤い上衣とチマの上に、白い紗の布でできた、丈の長い袖無しの上衣を羽織り、赤い帯を締めている。頭部には、白い山形の頭巾(コッカル)をかぶっていた。

徳城トクソン様ぁ!」

 アラが、甘ったれた声を上げて素早く立ち上がり、トクソンと呼んだ従巫女に駆け寄った。

「ひどいんですよ、トクソン様! シアったらまた暴力を振るったんです! ちょっと綺麗だからってバカにして……」

 事実無根である。

 しかし、トクソンは「まあ」などと非難めいた声を出しながらアラを抱き寄せ、シアを睨んだ。

「シア! あなたは何度言えば分かるの! アラは確かに聡明な娘よ。だからと言って嫉妬して手を上げるなど、言語道断」

「いいんです、トクソン様。ごめんなさい。私のほうが年上だから、嫉妬なんて我慢すればいいのに、愚痴めいたことを申し上げて……」

「ああ、アラ。なんていい子でしょう。シアもアラの広い心を見習いなさい」

(心が広いって、誰が)

 内心のツッコミは、当然トクソンの耳には届かない。

「まったく、顔は美しいクセに、何故なにゆえこうも心がすさんでおるのか……」

(荒んでるとしたら、あんたらの所為せいだよっ)

「今夜は罰として、祈祷道具の掃除をしなさい。すべて磨き上げるまで、眠ることはならぬ」

 磨くような祈祷の道具、と一口に言っても色々だ。蝋燭立てや、神への供え物を乗せる盆、祈祷に使う銅鑼や鈴。それも、一つや二つではなく、無数にあるのだ。

 すべて磨き終える、なんて言ったら朝までやっても終わるまい。このあいだの、祈祷堂の掃除など、範囲が分かるだけまだマシなほうだった(もっとも、トクソンは、まだ埃がうっすら積もっている、などと言い掛かりを付けて来たので、結局シアは、丸二日も不眠不休で掃除をする羽目になった)。

 いつもこの調子で、理不尽な罰を課せられる。

 最初の頃こそ、シアも自分の無実を訴え抵抗していたが、こちらの正当性を訴えようとすればするほど、なぜか罰が重くなっていく。

 父に不満をぶちまけたりもしたが、『女人にょにんの格好をしている限り、今後も同じような目には山ほど遭うぞ』と返された。

 だったら、本来の性別である男の格好がしたいと抗議したのは、一度きりだ。それはどうしても無理なのだ、時が来れば事情を説明するから今はこらえてくれ、と苦しげな顔で言われて、口を噤むしかなかった。

 要は、我慢するしかなく、最近ではほぼ諦めの境地だ。

 どうしてアラもほかの少女も、シアをこうも目のかたきにするのか、皆目見当も付かない。

 溜息を吐きながら、「はい」と返事をした直後、別の若い従巫女がやって来た。

「皆、ここにいたのね。集まって。都巫女様がお呼びよ」


***


 あとからやって来た従巫女に付いて、前庭まで行くと、都巫女の隣に見慣れない女性がいた。

 見たところ、両班ヤンバン〔上流階級層〕の夫人のようだ。

 頭部のふちに沿うように、太い三つ編みを二重に巻き付け、顔の横部分の髪には小振りの簪が飾られている。オンジュンモリと呼ばれるその髪型は、既婚女性のそれだ。

 肩先からはスゲチマ〔上流階級の女性が使う外套〕を羽織っており、彼女の身に着けたチマの途中までを覆っている。

 面長の輪郭に、長い鼻筋、ぽってりとした赤い唇――一つ一つを取れば悪くはないが、全体的な顔立ちはあまりパッとしない。取り立てて不細工とも言い切れない十人並みの容貌の中で、その目だけがどこか際立っていた。

 心の奥底、考えていることがよく分からないその瞳には、そんなはずがないのに見覚えがある気がして、シアは無意識に一歩後退(あとじさ)った。その動きは、却って相手の注意を引いたらしい。

 濁ったような、それでいて何かが輝くような鋭い目と視線が重なり、シアは顔を強張こわばらせる。

 そんなシアの心中には気付くことなく、都巫女は、少女たちを見渡して口をひらいた。

「こちらは、宮中からいらした提調尚宮チェジョサングン〔女官長。※尚宮…女官の最高位〕様です。ご挨拶を」

「いらっしゃいませ、提調尚宮様」

 シアも、ほかの少女たちと共に斉唱し、頭を下げる。提調尚宮、という単語に、尚のこと何か、記憶の隅が刺激された気がしたが、理由はやはり分からなかった。

「皆、おもてを上げよ」

 提調尚宮と紹介された女性が、初めて声を発する。

 年の割に重みのある声音に従い、少女たちは頭を上げた。

「今、宮中では久方ぶりに新たな女官見習いをつのっている。そこで、尚宮たちが方々(ほうぼう)へ探しに出ているのだ。わたくしも、提調尚宮となって初めての女官の募集ゆえ、自ら足を運んだ」

「ですが、提調尚宮様。ここにいるのは皆、巫女見習いで」

「よいのだ。本来、募集が掛かれば対象年齢の者は皆、応募資格があるのが習い。たとえ卑しい(・・・)巫女見習いであろうがな」

 サラリと言われたので聞き流しそうになったが、随分上からの物言いだ。だが、直接それを言われた当の都巫女も、若い従巫女たちも、ついでに言えば見習いの少女たちも、言い返す気配はない。

 この国では、巫女というのは賤民階級で、『卑しいもの』なのだ。身分的に低い者が、身分の高い者に物申すなど、それこそ(仮にそれがド正論であっても)言語道断、というのが国の掟だ。

 頭では分かっているが、シアにはこの理屈が納得できてはいない。けれど、この場でそれを口には出せない。外から来た、初対面の人間がいる場で、目を引くような言動はいけない、と父やチュンホ夫妻から釘を差されている。

 舌打ちしたい気分で唇をキュッと噛み締めたところで、再度、提調尚宮と視線がかち合った。

「そなた。名は何と言う」

 シアは、自分のこととは思っていないと言う顔で目を伏せたが、提調尚宮はシアのほうへ歩み寄って来た。真ん前で足を止め、「面を上げよ」と命じる。

 尚も自分に言われたのではないという態度を貫いたが、彼女の白い指先が、シアの顎先を掴んで仰向かせた。くらく濁った中に、鋭い光を宿した瞳が、シアの黒曜石の目を射るように見据える。

「そなただ。名を何と言う」

「あの、尚宮サングン様。この者は、稔時雅イム・シアと申します、ですが」

「そなたは黙っていよ」

 慌てて割って入ったトクソンをピシャリと遮り、提調尚宮はシアを見つめ続ける。

「これで最後だ。名を答えよ」

「……人に名前を訊くのに、ご自分は名乗られないのですか?」

 素直に答えるのは癇に障り過ぎる。気付いたら、そう口を開いていた。

「シア!」

 提調尚宮が目を見開くのと、トクソンが咎めるような叫びを上げるのとは、ほぼ同時だった。

「無礼だぞ、シア」

「無礼はどちらです。宮中の尚宮様だか何だか存じませんが、女官の長たる方がこれでは、宮中の教育も程度は知れていますでしょう」

「シア!!」

 トクソンの金切り声が高くなる。途端、提調尚宮のほうは吹き出した。

「はっはっはっはっ、あっはははは……いや、すまぬ。色々思うところがあったゆえ、ついな」

 クックッ、と笑いの残滓を引きずった提調尚宮は、最後に深呼吸で笑いを納めると、「よかろう」と改めて口を開き、シアに視線を戻した。

「わたくしの名は、金介屎キム・ゲシと言う。改めて、そなたの名を訊ねてもよいか?」

「……イム・シア、と申します」

 シアは、用心深く答えた。彼女が何を考えているのかまったく分からないが、キム・ゲシという名にはやはり覚えがある気がする。

「左様か。ではシア。明朝早く、わたくしと共に宮中へ参ろう」

「尚宮様!?」

 最早、トクソンは叫びっ放しだ。少女たちの中で、アラもまた悔しげに顔を歪めている。女官として、誰よりも先にシアが引き抜かれそうなのが悔しいのだろう。

 しかし、提調尚宮――キム・ゲシと名乗った女性は、お構いなしだ。

「よいでしょう、都巫女よ。わたくしはこの子が気に入りました。この度胸ならきっと、宮中でもやってゆけましょう」

「お待ちください、尚宮様」

 話を振られた都巫女・志遠チウォンは、曇った顔をして、こちらへ歩を進めた。そして、シアの肩へ、庇うように手を回す。

「申し訳ありませぬ。この子は必ずや立派な巫女とするようにと、天よりの思し召しで」

「わたくしに下された託宣ではない。それにここは本来、孤児を養育する場ではないか?」

 事実を言い当てられ、チウォンは一瞬息を呑む。が、果敢にも言葉を継いだ。

「左様です。しかし、預かる内、また教育を受ける内に神託をいただく者もおります」

「恐れながら、尚宮様。その者は、孤児ではありません」

 直後、トクソンが口を挟む。

「誠か?」

「トクソン!」

「都巫女は口を挟むでない。詳しいところを聞かせよ」

「はい……実は、その者には父親がおります。ある日、どこからか父娘おやこして流れて来たのです。この寺院は男子禁制ゆえ、父親は普段は近隣の別棟に滞在しております」

「ほう……」

 ケシの目が、うっすらと細められ、怪しく光った、ような気がした。

「ここへ彼女らが流れてきたのがいつ頃かは、覚えておるか?」

 問い掛けながら、ケシはトクソンのほうへ足を向ける。

「えっと……確か、昨年の二月頭頃であったかと」

 シアは、自身の横にいるチウォンのほうへチラリと視線を投げた。彼女は、トクソンに目を向け、唇だけで『それ以上言うな』と繰り返している。

 チウォンだけが、この寺院でシアの性別を知っている人だ。

 シアは、彼女の衣服をそっと引っ張る。するとチウォンは、せわしくシアとトクソンのあいだで視線を動かした。ケシは、こちらへ背を向ける形でトクソンと向かい合っている。

『シア』

 チウォンは、唇の形だけで言った。彼女自身はその技術はないものの、シアはふと気付いた時には、読唇術を心得ていた。

『今の内に、急いでお父様のもとへ。今のことを告げて、急いでここを離れなさい』

 シアは、音にはせずに、覚えず『えっ』と返した。それを、チウォンが察してくれたかは分からない。

『急いで!』

 彼女はやはり唇だけで言いながら、シアの肩先を後ろ手に押した。それに促される形で、シアは二、三歩足を引く。

 ほかの少女たちが、ケシとトクソンのほうに気を取られているのを確認し、シアはチマの裾をからげた。

「あっ、シア!?」

 きびすを返した途端、はかったようにアラの声が追い掛けて来る。

「トクソン様! シアが逃げました!」

「何ですって!? シア、待ちなさい!」

(待てって言われて待つバカいねぇだろ)

 その頃にはすでに、シアは正門の外へ飛び出していた。


©️神蔵 眞吹

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