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偽の聖女として追放されたけど、寡黙な騎士に拾われました

作者: 天野 恵

 「聖女アリシアは偽物だった!」


 王都の広場に響き渡る、鋭い声。


 それは、まるで刃のようにアリシアの心を切り裂いた。


 ――どうして? 何が起こっているの?


 広場に集まった群衆はざわめき、次第に怒りと嘲笑に満ちていく。


 「まさか、今まで騙されていたなんて……!」

 「王太子殿下が直々におっしゃるんだ。間違いないさ」

 「そうよ、見て! 新しい聖女様よ!」


 人々の視線が向けられた先にいたのは、美しい金髪の少女だった。


 セシリア・エヴァンス。


 白く輝く法衣に身を包み、まるで聖母のような微笑みを浮かべたその少女は、アリシアのすぐ隣に立つ王太子リュカの腕を優雅に取っていた。


 「皆さん、どうか信じてください。私は天より授かった本物の聖女です。そして、アリシア様は……」


 セシリアは悲しげに目を伏せ、一滴の涙を流した。


 「偽の聖女だったのです」


 瞬間、広場の空気が弾けるように変わった。


 「なんてことだ! 今まで私たちは偽者を崇めていたのか!」

 「許せない!」


 誰かが石を投げた。


 「……っ!」


 アリシアはとっさに顔を背ける。石は地面に転がり、彼女の足元に小さな傷をつけた。


 「……嘘よ」


 震える声が自分の口から漏れる。


 「私は、本当に聖女だったのに……」


 リュカが冷ややかな視線を向けた。


 「アリシア、お前は罪を認めないのか?」


 「罪……?」


 「お前は聖女の力を騙り、私を欺いていた。その罪だ」


 信じられなかった。


 つい昨日まで、リュカは自分の隣で微笑んでいたはずだ。確かに最近は距離を感じていたが、それでも彼は自分を愛していると思っていた。


 それが――この仕打ち。


 「私は……あなたを騙してなんて……」


 「もういい」


 リュカの言葉は冷たく、彼の腕の中にいるセシリアの優美な姿と対照的だった。


 「アリシア・エルヴェール。お前に王国からの追放を命じる」


 静まり返る広場に、その言葉だけがはっきりと響いた。


 「……追放?」


 「今すぐに、王都から出ていけ」


 兵士たちが彼女の腕を掴んだ。


 「待ってください! 何かの間違いです!」


 必死に抵抗するが、兵士の力には敵わない。


 「リュカ様! お願いです、私の話を――!」


 「もう『様』なんて呼ばなくていい。お前は聖女ではない、ただの罪人だ」


 リュカの冷酷な声が、アリシアの心を完膚なきまでに打ち砕いた。


 「では、連れて行け」


 アリシアは王城の門を越え、石畳の道を引きずられるように歩かされた。


 周囲の人々は誰一人として彼女を助けようとはしなかった。


 「ふん、聖女様がこんな姿になるとはな」

 「騙していた報いよ!」


 容赦のない言葉が降りかかる。


 「……っ」


 喉の奥が締めつけられるようだった。


 こうして、アリシアは聖女としての全てを剥奪され、王都を追放された。



夜の城壁の外


 城門が閉ざされる音が遠くに響く。


 ――追放された。


 この現実を受け入れるには、あまりにも突然で、あまりにも残酷だった。


 王都の外は、昼間の喧騒とは打って変わって、冷たく静まり返っている。


 空には雲がかかり、月明かりもまばらだった。


 「これから……どうすれば……」


 頼れる人などいない。


 王都を出た瞬間、彼女は無力なただの少女になったのだ。


 足が震え、何もない荒野をただ歩く。


 ――生きていけるの?


 不安と恐怖が押し寄せる。


 その時だった。


 「……お前、何をしている」


 低く抑えた男の声が、静寂を破った。


 アリシアは反射的に顔を上げた。


 暗がりの中、そこに立っていたのは、一人の騎士だった。


 長い黒髪を後ろで束ね、冷たい瞳がこちらをじっと見下ろしている。


 「あなたは……?」


 「……ローラン」


 重々しいその声が、静かに名を告げた。



 暗闇の中、鋭い視線がアリシアを射抜いた。


 「……ローラン?」


 アリシアが名を繰り返すと、男――ローランは無言で彼女を見つめ続けた。


 黒髪を後ろで束ね、鋭い目つきをした彼は、見るからに威圧感があった。重厚な鎧を纏い、腰には長剣を佩いている。


 (騎士……? でも、どうしてこんなところに……)


 アリシアは思わず後ずさった。


 城壁の外は、盗賊や野盗が跋扈する危険な場所だ。こんな時間に歩いているのは、追放された罪人か、何かしらの理由で逃げてきた者くらいのはず。


 ローランの目が細まる。


 「……お前、こんな場所で何をしている?」


 低く、抑えた声だったが、どこか鋭さを感じる。


 アリシアは怯えながらも、喉を震わせて言葉を絞り出した。


 「……私……王都を……追放されて……」


 ローランの眉がわずかに動く。


 「追放?」


 「……はい」


 アリシアはうつむいた。


 ここで『偽の聖女にされた』と言っても信じてもらえるはずがない。それどころか、彼も王国の騎士なら、自分を罪人として扱うかもしれない。


 ローランはしばらく黙っていたが、やがて静かにため息をついた。


 「……ここで野垂れ死にするつもりか」


 「……!」


 鋭い言葉にアリシアは顔を上げる。


 「お前、何も持っていないだろう。食料は? 水は?」


 「……何も……」


 声に出して初めて、自分の状況の深刻さを自覚する。


 城を追放された時、何一つ持たせてもらえなかった。ドレスは埃まみれになり、靴もボロボロ。こんな状態で一晩すら過ごせるのかどうかも分からない。


 ローランは腕を組み、冷静な目で彼女を見下ろした。


 「……お前、名は?」


 「……アリシア」


 「姓は?」


 「エルヴェール……でした」


 ――「でした」。


 王都を追われた今、貴族の姓を名乗る資格もない。


 だが、ローランは特に驚いた様子もなく、無言で彼女を見つめる。


 アリシアは、ますます不安になった。


 彼が自分をどうするつもりなのか分からない。このまま見捨てられるのか、それとも……。


 ――その時。


 ぐぅぅ……。


 「……っ!」


 アリシアの腹が鳴った。


 気恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなる。


 ローランは一瞬、表情を変えなかったが、やがて小さく息をついた。


 「……ついてこい」


 「えっ?」


 「このまま放っておけば、お前はすぐに飢えて死ぬ。助けてほしいなら、黙ってついてこい」


 ――助ける?


 どうして?


 彼は何者なのか。どうして自分を助けようとするのか。


 疑問は尽きなかったが、拒む理由もなかった。


 「……っ、はい」


 アリシアはローランの後を追った。



騎士の隠れ家


 森を抜け、小さな小屋に辿り着いたのは、それからしばらくしてのことだった。


 「ここは……?」


 「俺の住処だ」


 小屋は思ったよりもしっかりしていた。木造の壁は頑丈そうで、屋根には厚い藁が敷かれている。煙突からはほのかに煙が昇り、かすかに薪の香りがした。


 ローランは無言で扉を開け、中に入るよう顎で示した。


 「……失礼します」


 中に入ると、温かい空気に包まれる。中央には暖炉があり、部屋の隅にはシンプルな木の机と椅子、そして寝台が一つ。


 「座れ」


 ローランは無造作に言い、棚からパンと干し肉を取り出した。


 アリシアは戸惑いながらも、勧められた椅子に腰掛ける。


 「……ありがとうございます」


 「礼はいい。食え」


 アリシアは震える手でパンを取り、ゆっくりと口に運んだ。


 ――美味しい。


 決して豪華なものではない。だが、飢えた体には何よりのご馳走だった。


 無我夢中で食べ進めるアリシアを、ローランはじっと見ていた。


 「……本当に何も持たされずに追い出されたのか」


 「……はい」


 アリシアはパンを口に運びながら、ぽつりと答える。


 「何の罪もないのに?」


 「……私には、どうすることもできませんでした……」


 彼の問いに、アリシアは目を伏せた。


 偽の聖女。罪人。詐欺師。


 そう罵られ、何もかも奪われたあの日――。


 思い出すたび、胸が痛くなる。


 ローランはしばらく沈黙した後、低く呟いた。


 「……馬鹿げた話だ」


 「……え?」


 「聖女というのは、そんなに簡単にすげ替えられるものなのか?」


 鋭い言葉に、アリシアは息をのむ。


 「……っ、それは……」


 答えられなかった。


 ローランはそれ以上何も言わず、炎の揺れる暖炉を見つめていた。


 やがて、彼は立ち上がり、棚の奥から毛布を取り出した。


 「今夜はここで休め」


 「……!」


 アリシアは驚いて彼を見上げる。


 「ですが……」


 「他に行く当てがあるのか?」


 その問いに、アリシアは首を振るしかなかった。


 ローランは何も言わず、寝台を譲り、自分は椅子に腰掛けた。


 「寝ろ」


 彼の静かな言葉に、アリシアは涙が出そうになった。


 (……この人は、どうして私を助けてくれるの?)


 わからない。でも、今はただ――


 「……ありがとうございます」


 彼女は毛布を握りしめ、静かに目を閉じた。



 アリシアが目を覚ましたとき、室内にはまだ朝の光が差し込んでいなかった。


 (……ここは……?)


 昨夜の出来事を思い出し、胸がざわめく。


 追放され、途方に暮れ、偶然出会った騎士――ローランに拾われた。


 彼の小屋で一夜を過ごし、ようやく暖かさを得たものの、ここで今後どうすればいいのかはわからない。


 ふと、暖炉の前に座る男の姿が目に入る。


 ローランだった。


 (寝ていない……?)


 椅子に腰掛けたまま、剣を膝に置き、じっと炎を見つめている。


 彼の表情は相変わらず冷たく、何を考えているのか全く読めない。


 アリシアはゆっくりと身を起こし、遠慮がちに声をかけた。


 「……おはようございます」


 ローランは視線を向けずに答える。


 「起きたか」


 その声は低く、感情がこもっていなかった。


 アリシアはしばらく戸惑ったが、思い切って尋ねた。


 「……ずっと起きていたのですか?」


 「……いや、少しは休んだ」


 そう言いながらも、彼の目には疲れがにじんでいる。


 ――本当はほとんど眠っていないのではないか。


 アリシアは昨夜のことを思い出す。


 彼は、自分に寝台を譲り、自分は硬い椅子の上で夜を過ごしたのだ。


 「……ありがとうございます」


 「……」


 ローランは何も言わず、ただ立ち上がると、戸口へ向かった。


 「水を汲んでくる。お前は朝食の準備をしろ」


 「えっ?」


 「食材は棚にある。好きに使え」


 そう言い残し、彼は外へ出て行った。


 アリシアは慌てて起き上がり、周囲を見回す。


 小屋の中には、確かにいくつかの食材があった。干し肉、パン、卵、少量の野菜……そして、鍋と火の準備も整っている。


 (何か、作らなきゃ……)


 城で暮らしていた頃、料理は侍女が用意してくれていた。しかし、アリシアはそれを当然とは思わず、興味を持って手伝っていたため、簡単な料理なら作ることができた。


 彼に恩を返せることがあるなら、少しでもやりたい――そう思いながら、アリシアは朝食の準備を始めた。



騎士の孤独


 しばらくして、ローランが戻ってきた。


 「……」


 彼は、鍋の中から立ち上る湯気を見て、一瞬だけ目を細めた。


 「スープを作りました」


 アリシアは恐る恐る言いながら、木の器にスープをよそう。


 干し肉と野菜を煮込んだシンプルなものだったが、煮込むうちにいい香りが広がっていた。


 「……いただく」


 ローランは無言で受け取り、一口すすった。


 そして、また黙る。


 (どうしよう、口に合わなかったかな……)


 アリシアが不安になったその時、彼がぽつりと呟いた。


 「……悪くない」


 驚いて彼を見つめると、ローランは表情を変えずにスープを飲み続けた。


 アリシアはほっとし、自分の分を食べ始めた。


 静かな朝食だった。


 お互いに無駄な会話はせず、ただ食べる音だけが響く。


 しかし、妙な居心地の悪さはなかった。


 (この人は、普段からこうなのかもしれない)


 そう思うと、少し安心した。


 食事を終えたローランは、器を片付けながら言った。


 「……今日から、お前はここで暮らせ」


 「……!」


 思いがけない言葉に、アリシアは驚いた。


 「でも……私、本当にここにいていいんですか?」


 ローランはしばらく黙った後、ゆっくりと答えた。


 「……この森には、野盗や魔物もいる。女が一人で生きていける場所ではない」


 「……」


 「それに、お前はまだ何も知らない。この国で生きるためには、色々と学ぶ必要がある」


 彼の声は淡々としていたが、その奥にあるものを感じる。


 アリシアはじっと彼を見つめた。


 ローランは、なぜこんなにも自分を助けてくれるのか?


 彼にとって、私はただの厄介者ではないのか?


 「……ローランさんは、なぜ私を助けてくれるのですか?」


 問いかけると、彼は一瞬だけ動きを止めた。


 「……」


 そして、静かに言った。


 「……理由はない」


 それだけ言って、彼は椅子に腰掛けた。


 (理由がない……?)


 アリシアは困惑した。


 しかし、それ以上彼は何も言わなかった。


 ――彼は、心を閉ざしている。


 それがはっきりとわかった。


 彼がどんな過去を背負っているのか。


 どうして、こんな森の中で一人で暮らしているのか。


 聞きたいことはたくさんあったが、アリシアはそれ以上踏み込めなかった。


 彼が心を開くのは、まだずっと先のことなのだろう。


 アリシアはそっと息をつき、小さく微笑んだ。


 「……では、お世話になります」


 ローランは何も言わず、ただ静かに頷いた。



 アリシアがローランの小屋で暮らし始めて、数日が経った。


 彼の生活は規則正しく、無駄がない。


 朝早くに起き、鍛錬をし、水を汲み、簡単な食事を済ませる。


 日中は森で狩りをしたり、時折村へ出かけたりしているようだった。


 アリシアは最初、そんな彼の生活にどう関わればいいのかわからなかった。


 けれど、少しずつ家事を手伝い、彼の手が届かないところを気にするようになっていた。


 (ここで暮らす以上、私にできることをしなくちゃ)


 追放された身。もう帰る場所はない。


 ならば、今いる場所でできることをするしかない――そう思った。



剣を振るう男


 朝の冷たい空気の中、アリシアは薪を割ろうと庭に出た。


 すると、目の前に広がる光景に、思わず足を止めた。


 ――ローランが剣を振るっていた。


 彼の動きは滑らかで、まるで無駄がなかった。


 筋肉の動きすら計算されたような正確さで、彼は静かに剣を振り続ける。


 (すごい……)


 アリシアは息を呑んだ。


 彼はただの騎士ではない。


 きっと、何か特別な存在なのだ――そう確信した。


 それにしても、なぜ彼はこんな森の奥で一人で暮らしているのだろう?


 王都で騎士をしていたのなら、今もどこかの領地に仕えていてもおかしくない。


 (……もしかして、彼も私と同じように、何かを失ったの?)


 そう思った瞬間、ローランがふとこちらを向いた。


 「……何を見ている」


 「!」


 鋭い視線に、アリシアは思わず身をすくめる。


 「す、すみません……。ただ、その……剣を扱う姿が、とても綺麗だったので……」


 そう言うと、ローランは少しだけ眉を上げた。


 「……綺麗?」


 「はい。まるで舞を見ているみたいでした」


 彼はそれ以上何も言わなかったが、しばらく沈黙した後、剣を鞘に収めた。


 「……お前も、戦え」


 「え?」


 突然の言葉に、アリシアは驚く。


 「この森では、誰もお前を守ってはくれない。最低限、自分の身くらいは守れ」


 彼の声は冷静だったが、それが彼なりの優しさなのだと、アリシアはすぐに気付いた。


 「……わかりました」


 そうして、アリシアの剣の稽古が始まった。



不器用な師匠


 「剣を握れ」


 「はい」


 ローランから木剣を渡され、アリシアは恐る恐る構える。


 「力が入りすぎだ。もっと手首の力を抜け」


 「こ、こうですか?」


 「違う。ほら、ここに力を――」


 ローランは無言でアリシアの手を取った。


 その瞬間、アリシアの心臓が跳ね上がる。


 彼の手は大きく、そして温かかった。


 普段、彼は冷たく見えるが、本当はこんなに温かいのだと、初めて知った。


 「……?」


 アリシアが固まっているのに気づいたのか、ローランは手を離した。


 「……集中しろ」


 「は、はいっ!」


 彼の前でこんなにも動揺する自分に驚きながら、アリシアは改めて剣を構えた。



彼の過去


 その日の夜、アリシアは火を囲みながらローランに尋ねた。


 「ローランさんは、なぜこの森で一人で暮らしているのですか?」


 彼はしばらく沈黙した。


 そして、ぽつりと呟く。


 「……昔、俺は王都の騎士だった」


 「!」


 「だが……すべてを失った」


 彼の声には、深い悲しみが滲んでいた。


 アリシアは何も言えず、ただ彼の言葉を待つ。


 「……俺には、妹がいた。病弱だったが、優しい子だった。……だが、ある日突然、命を奪われた」


 アリシアは息を呑んだ。


 「王宮の陰謀に巻き込まれた。……俺は、妹を守れなかった」


 炎がゆらゆらと揺れ、ローランの横顔を照らす。


 彼の目には、深い闇が宿っていた。


 「その時、俺は騎士でいる意味を失った。だから、ここにいる」


 彼の言葉を聞いた瞬間、アリシアの目に涙が浮かんだ。


 「……ローランさん」


 彼の苦しみが痛いほど伝わってきた。


 「私も……追放された時、すべてを失ったと思いました。でも、こうして生きていて……今、ここにいます」


 アリシアは涙をこぼしながら、ローランの瞳を見つめた。


 「あなたは、妹さんを守れなかったかもしれません。でも……私は、ローランさんに救われました」


 ローランの目が、驚いたようにわずかに揺れる。


 そして、彼はゆっくりと目を閉じた。


 「……もう寝ろ」


 静かにそう告げる彼の声は、どこか優しかった。


 アリシアは小さく微笑みながら、頷いた。


 ――その日、彼は初めて、ほんの少しだけ心を開いた気がした。



 アリシアがローランの小屋で暮らし始めてから、二週間が過ぎた。


 彼女は家事をこなしながら、少しずつ剣の稽古を続けていた。


 ローランは多くを語らないが、教え方は的確だった。


 時に厳しく、時に黙って見守る。


 その姿勢が、アリシアにはありがたかった。


 (……少しでも強くなりたい)


 この森で生きていくために。


 そして、ローランの隣に立てるようになるために。


 そう思いながら、今日も彼女は剣を握る。



騎士の教え


 朝靄が残る森の中。


 ローランは、いつものように無言で剣を構えていた。


 アリシアも木剣を持ち、彼の前に立つ。


 「……やってみろ」


 「はい!」


 アリシアは力いっぱい剣を振るった。


 しかし、その一撃は簡単に受け流され、足元がぐらつく。


 「……お前、まだ無駄な力が入りすぎている」


 「うぅ……でも、どうしても力が入っちゃって……」


 ローランはため息をついた。


 「剣は腕力で振るものではない。体全体を使え」


 そう言うと、彼は静かに剣を構え、一本の木の枝を斬り落とした。


 ――その動きは、まるで風が流れるようだった。


 「わかったか?」


 「……はい。でも、難しいですね」


 「焦るな。まずは、剣を握ることに慣れろ」


 ローランはそう言って、再び構えた。


 「……あと、敵の動きをよく見ろ」


 そう言いながら、彼は突然アリシアの懐に踏み込んだ。


 「きゃっ!」


 彼女の剣は、あっさりと弾かれる。


 「……今、お前は俺の動きを見ていなかった」


 「えっ……?」


 「敵がどこを狙っているか、どこに動くか。それを意識するだけで、剣の動きは変わる」


 アリシアは自分の剣を拾い上げ、改めてローランを見つめた。


 ――確かに、彼の目は常にこちらを見ていた。


 彼は、相手の動きをすべて読んでいる。


 「……私も、できるようになりますか?」


 「やればな」


 ローランはそう言って、少しだけ口元を緩めた。


 それが、彼なりの励ましなのだとアリシアは理解した。



村へ


 その日、ローランはアリシアを連れて村へ向かった。


 「今日は、村に用がある」


 「村……?」


 「食料の調達だ。お前も来い」


 アリシアは少し驚いた。


 彼はあまり人と関わらないタイプだと思っていたのに、村へ行くのか。


 「……ローランさん、村の人と仲がいいんですか?」


 「別に」


 「……ですよね」


 やっぱり。


 それでも彼が村へ向かうのは、生きていくために必要だからだろう。


 村は森を抜けた先にあった。


 こぢんまりとした集落だが、穏やかな空気が流れている。


 「あ、ローランさん!」


 市場の前で、少年が手を振った。


 「……久しぶりだな」


 「最近、顔を見せてなかったから、心配してたんだよ!」


 「ああ、悪かったな」


 少年と話すローランの姿を見て、アリシアは驚いた。


 ――彼、意外と人付き合いが悪いわけじゃない?


 ただ、不器用なだけなのかもしれない。


 「そっちの人は?」


 少年がアリシアを見て、首をかしげる。


 「……今、一緒に暮らしている」


 「えっ!? まさか、お嫁さん!?」


 「違う」


 即答だった。


 アリシアは思わず苦笑する。


 「私はアリシアと言います。よろしくね」


 「僕はテオ! ローランさんにはいつもお世話になってるんだ!」


 元気な少年に、アリシアも笑顔になった。


 村には、彼を慕う人々がいる。


 彼はきっと、人を助けることが好きなのだ。


 ただ、それを素直に表現できないだけ。


 ――少しだけ、彼のことがわかった気がした。



託された剣


 帰り道、ローランは突然、腰の剣を抜いた。


 「……これを、お前に預ける」


 「え?」


 彼が差し出したのは、見事な銀の剣だった。


 「私に……?」


 「村で、新しい剣を買った。だから、これはもう使わない」


 「でも……」


 「お前が強くなるなら、剣も必要だろう」


 アリシアは、そっと剣を受け取った。


 重みが、しっかりと手に伝わる。


 「……ありがとうございます」


 「礼はいらない」


 ローランはそう言って、前を向いた。


 アリシアは剣を見つめながら、静かに思う。


 ――これは、彼が託してくれたもの。


 それなら、自分もそれに応えなければならない。


 彼の隣に立つために。


 (私も、強くなる)


 心の中で、そっと誓った。


 夜の森は静かだった。


 焚き火の薪が弾ける音だけが、暗闇に響く。


 ローランは黙って剣の手入れをし、アリシアはその横で湯を沸かしていた。


 ――こんな静かな時間が、今では心地よい。


 そう思っていたが、今夜はなぜか違った。


 アリシアの心の奥に、ずっと燻っていたものがある。


 それは「自分が偽の聖女にされた理由」。


 まだ、ローランには話していない。


 話すべきなのか。


 それとも、ずっと隠しておくべきなのか。


 迷いながら、ふと目を向けると、ローランがじっとこちらを見ていた。


 「……何か言いたいことがあるなら、言え」


 低く落ち着いた声だった。


 驚くほどに、彼にはすべて見透かされている。


 アリシアは、ぎゅっと膝を抱えた。


 「……私、聖女だったんです」


 「知ってる」


 「あ……そうですよね」


 少し気が抜けるような返事だった。


 「でも、私は偽の聖女だと言われて、追放されました」


 ローランは剣を拭く手を止め、ゆっくりとアリシアを見る。


 「誰に?」


 「……王太子、です」


 焚き火の炎が揺れた。


 アリシアは小さく息を吸い、震えそうになる声を抑えながら続けた。


 「私、王太子アルベルト様の婚約者だったんです。でも……彼が側近の女性と関係を持って……」


 そこまで言うと、言葉が詰まった。


 王太子アルベルト。


 かつて愛し、信じていた人。


 しかし、その人は、自分を偽りの聖女に仕立て上げ、すべてを奪った。


 「私は、最初は何も知らなかったんです。でも、ある日突然、“お前は偽の聖女だった” って言われて……」


 思い出すだけで、心が痛む。


 信じていた宮廷の人々は、彼の言葉を疑おうともしなかった。


 「“聖女の力が本物なら、奇跡を起こせ” って言われました。でも……その時、私はもう何もできなくなっていたんです」


 ローランは黙って聞いている。


 アリシアは、震える手を握りしめた。


 「私は、たしかに癒しの力を持っていました。でも……聖女として認められてから、何度も何度も力を使うことを強要されて……気がついたら、何もできなくなっていました」


 魔力の枯渇。


 それを理解しない人々は、ただ無能だと罵った。


 「王太子は私を邪魔だと思ったんでしょう。私がもう”使えない” から、新しい聖女を迎えた方がいいって……」


 だから、私を”偽の聖女” にした。


 王太子が愛した女性を、新たな”聖女” として迎えるために。


 「……馬鹿な話だ」


 ローランが、低く呟いた。


 アリシアは顔を上げる。


 彼は炎を見つめたまま、静かに言葉を紡いだ。


 「人の命を救う力を持っていたお前が、“偽” であるはずがない」


 その言葉は、優しかった。


 信じてもらえた。


 それだけで、胸が熱くなる。


 「……でも、私はもう聖女ではありません」


 「関係ない」


 ローランは、すぐに言い切った。


 「お前はお前だ」


 ――“お前はお前だ”


 その言葉が、どれほど救いになったか。


 涙がこぼれそうになり、アリシアは慌てて袖で拭う。


 「……ありがとう、ローランさん」


 ローランは何も言わなかったが、炎の向こうで、ほんの少しだけ目を細めていた。


 そして、その夜から。


 アリシアは、もう一度自分の力と向き合おうと決めたのだった。




 冷たい風が吹き抜ける。


 森の外れ、古びた小屋の前に、一団の騎士たちが陣を敷いていた。


 その中心に立つのは、かつてアリシアの婚約者だった王太子アルベルト。


 彼は馬上から見下ろしながら、薄く笑った。


 「久しいな、アリシア」


 アリシアは、凛とした表情で彼を見つめる。


 ――もう、怖くはない。


 「……何の用ですか?」


 アルベルトは、馬を降りて一歩踏み出した。


 「決まっている。お前を迎えに来た」


 「迎えに?」


 「お前がいなくなってから、“新しい聖女” の力が弱まってな……どうやら、真の聖女はお前だったらしい」


 アルベルトは、当然のように手を差し出す。


 「戻ってこい。お前には王国のために尽くす義務がある」


 その瞬間、剣が抜かれる音が響いた。


 「――その手を、引っ込めろ」


 低く冷えた声。


 アルベルトが振り向くと、ローランが無言で剣を構えていた。


 「ローラン……!」


 アリシアは思わず彼の名前を呼ぶ。


 無口で不器用な男。だが、誰よりも優しく、彼女を守ってくれた騎士。


 アルベルトは嘲るように笑う。


 「なるほど。アリシア、お前はこんな男にすがっていたのか?」


 「すがってなどいません」


 アリシアはきっぱりと言い放った。


 「私は、ローランと共に生きると決めました」


 アルベルトの表情が歪む。


 「何を言っている。お前は聖女だ。俺の元に戻るのが当然――」


 言葉を終える前に。


 ローランの剣が、アルベルトの目の前に突きつけられた。


 「……下がれ」


 ローランの瞳は氷のように冷たかった。


 「俺はお前を殺さない。ただし、二度とアリシアに近づくな」


 その圧倒的な威圧感に、アルベルトは息を呑む。


 「……お前に、王太子を脅す権利があるとでも?」


 「俺は、“アリシアを守る者” だ。それで十分だ」


 剣先が、アルベルトの喉元に触れる。


 「……消えろ」


 騎士たちは息を呑み、アルベルトもまた、初めて見せる恐怖の色を浮かべた。


 「……貴様のことは、必ず覚えておくぞ」


 憎しみのこもった視線を投げつけるが、ローランは微動だにしない。


 結局、アルベルトは剣を鞘に収めると、踵を返した。


 「行くぞ」


 彼の一言で、騎士たちは一斉に馬を回し、森の向こうへと消えていく。


 静寂が戻った。


 アリシアは、そっとローランを見上げる。


 「ローラン、私は――」


 彼は、剣を収めると、静かに言った。


 「……俺は、お前を守る」


 短い言葉。


 しかし、それだけで十分だった。


 アリシアは、自分の力を再び使うことを決意する。


 それは、もう誰かに利用されるためではない。


 この目の前の騎士のために――


 彼女はローランの手を取り、微笑んだ。


 「私も、あなたを守ります」


 焚き火の炎が優しく揺れる。


 ――それが、二人の新たな旅の始まりだった。

ここまでお付き合いありがとうございます!少しでも良ければ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をよろしくお願いします!

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