【8/10書籍発売】私の王子様は唯一人~本物の王子様などお呼びではない~
ダミアン・ベレスフォード伯爵が亡くなった。
心労がたたったのだろう。日に日にやつれていく伯爵様を前に私は何もできなかった。
子沢山男爵家に生まれた私は、祖父が投資に失敗してできた借金返済のために売られる十秒前というところだった。そこを颯爽と助けてくれたのが、通りかかったダミアン・ベレスフォード伯爵だった。
伯爵様の顔は世間一般には怖いと言われる容貌であった。細身で平均よりかなり高い身長に釣り上がった鋭い目と鷲鼻。年齢のわりに黒々とした髪。薄い唇には笑みが浮かんでいたが、何かを企んでいるようにも見えた。そして鈍く光るステッキ。粗相をしたらあれで叩かれるんだろうなというステッキだった。
でも、私にとっては王子様だった。
四十歳ほど年齢が離れていようとも私にとって伯爵様は王子様だ。だって、伯爵様の目がとても綺麗で「私が引き取ろう。その子はいくらだ」と言われた時でも怖い人だと思わなかったから。
私の人生に王子様は唯一人、四十歳年上のダミアン・ベレスフォード伯爵だった。助けられたあの日のことを私は一生忘れない。
伯爵様は十二歳の私を養女にして教育をつけてくれ、実家だった貧乏男爵家に援助までしてくれた。
奥様を亡くし沢山の商売をやっていて裕福だった伯爵様の教育は厳しかったけれども、私は自分で決めたんだからそして拾ってもらったんだからと机に文字通り噛り付いて頑張った。
伯爵様には三人の男児がいたが、長男は病で亡くなっており、次男は伯爵様に反発して籍を抜いて国外にいる。三男は放蕩息子だったから、私を養女にした時から伯爵様には何やら考えがあったのだろう。
その三男は素晴らしい婚約者がいたというのに、平民の愛人を分かっているだけで二人囲っており、痴話げんかの末に刃傷沙汰になって亡くなった。
商売を手広くやっていた伯爵も実子の子育てだけはうまくいかなかったようだ。三男の葬儀を出し、三男の婚約者に慰謝料を払って次の縁を見つけてあげてからは日に日にやつれていった。
私がようやく彼の仕事を家令や秘書官たちと一緒にではあるが、真似てできるようになった頃だった。
色づいた葉の舞い散る季節である。奇しくも私と伯爵様が出会った季節でもあった。
「マルグリッド……すまない。お前の婚約を整えてからと思っていたのに、せっかちな妻が迎えに来たようだ」
伯爵様はそう言って、それまでは苦しそうな顔だったのに笑った。
「伯爵様、私を置いて行かないでください。私はまだベレスフォード伯爵家のことを満足に一人ではこなせません」
「お前はもう十分にやれるが、無理に継がなくてもいい。息子たちも誰一人残らなかった家だ。マルグリッドに押し付けるような形になってしまうが、爵位など返上してもいいんだ。国が管理してくれるだろう」
それが伯爵様の最後の言葉だった。
爵位返上。一瞬考えたが、私は首をすぐさま横に振る。
爵位まで返上してしまえば、伯爵様を二度失う気がしていた。
これまで伯爵様が頑張ってきた商会、そして守り続けてきた伯爵領・領民に使用人たち。
放り出すのは手続きさえ踏めば簡単だ。でも、拾って育てて援助までしてもらった私にそんな無責任で薄情な真似はできなかった。
葬儀、そして爵位を継ぐ手続き。
すべて終わったのちに知らされたのは王命での結婚だった。寝耳に水だが、なんと私の結婚である。
相手は第二王子ケンドリック、十七歳。
葬儀や手続きで疲れすぎて幻覚だと思い、使用人一同と何度も何度も確認したが本当だった。何を言っているのか分からないだろうが、私も何を言っているのかわからない。
おそらく王国史上最短の婚約期間で結婚した私たちである。
初めて会った王子は綺麗な顔をしていた、王子だけに。
この第二王子ケンドリックは学園で男爵令嬢を侍らして、婚約者だった公爵令嬢に婚約破棄を言い渡したらしい。
あってはいけないが、よくある話だ。なんの面白味もない。
ちょっと違うのは、彼が婚約破棄を行ったのが休憩時間の教室であった点。顔は綺麗なのにやることは地味である。
普通卒業パーティーだろう、どうしてそんな学園の教室というこぢんまりした場所でやったのか。やるなら外野を楽しませるためにもっと華々しくやって欲しい。あと卒業パーティーだったら、その話を聞いた瞬間に適当にその辺に落ちている男性を婿にしていたので、うちは第二王子を押し付けられなかったのに。
さらにもう一点、普通と違う点があった。
それは、婚約者である公爵令嬢の方が先に浮気をしていたというものだ。
公爵令嬢には婚約前から想い合う幼馴染がいたらしく、婚約してからずっと第二王子をバカにして学園では幼馴染と一緒にいたんだとか。巧妙に国王夫妻と自分の両親の前では隠していたが、婚約破棄云々の時に周囲の混乱とともに暴露された。
これでは第二王子に同情も集まる。あれではちょっと可哀想ではないかと。しかしいくら隠していたとはいえ公爵令嬢でさえ制御できないなら、王太子の補佐として城には残せまい。
そんな普通と違う二点があったことにより、裕福なペレスフォード伯爵家、つまり二十歳になったばかりで婚約者がおらず女伯爵になった私マルグリッド・ベレスフォードにやらかした王子が押し付けられたというわけだ。
三年前から伯爵様が臥せっており、私は伯爵様の跡を継ぐ勉強にさらに奔走して忙しく婚約どころではなかったのだ。
生意気な上から目線のワガママ王子が来るのかと思っていたが、第一印象はこれである。
暗っ!
その一言だ。
恋人だった男爵令嬢に逃げられたせいか、公爵令嬢に巧妙にバカにされていたからなのか、ケンドリックは大変暗い青年であった。彼の金髪は輝いているのに、青い目は死んでいる。いや、まだ死んでいないか。
まさか雪が降るよりも先に私にお飾りの夫がくるとは思ってもいなかった。
暗いケンドリックに私は契約書類を見せる。学園の成績は悪くないと聞いているが、私は通っていないので実態がどうなのか分からない。
それに王命で結婚だ。断るには私が死ぬしかないし、簡単に離婚はできない。だから彼には私の邪魔をしないお飾りの夫になってもらうしかない。生意気な鼻っ柱を折る必要はなさそうだった。
「えーと、あなたも私もこの結婚は不本意だと思うの。でもあなたは大切な金蔓だから、ひとまずこの契約書通りに契約結婚にしようと思うのだけれどどうかしら」
伯爵様の死を悲しむ間もなく降ってわいた婚約、ではなくほぼすっ飛ばして結婚。
もちろん、私もタダで引き受けたわけではない。王家だって第二王子をある程度養える裕福な押し付け先を探してベレスフォード伯爵家に白羽の矢を立てたのだ。優遇やら支援やらを引き出すのは当たり前である。
なにせ、私の王子様は亡き伯爵様唯一人。なんの旨味もない本物の王子なんて押し付けられても困るので、王命といえども命を懸けて対抗した。
伯爵邸は急な王命での結婚に上を下への大騒ぎで、この契約書も頑張って作ったのだ。
「ほら、お小遣いは毎月これだけあげるわ。夫婦として振る舞わなくていいけどあなたは金蔓だから、どうしても同伴してほしい夜会には参加してもらうわ。もちろん、夫婦生活もナシね」
こいつが健康で生きていないと王家から支援を引き出せないから。
それに三歳下なので弟にしか見えない。お飾りの夫と、暗いイケメンな弟。どちらがいいだろうか。
「その時の衣装代なんかはこっちが持つわ。あと、愛人は作ってもいいけど子供は認知できないから。もし『王子の子供がいる』と我が家や王宮に押しかけた場合はその女性の命はないと思って。愛人はお小遣いの範囲内で。あと反乱を企てたらベレスフォード伯爵家まで取り潰されるので、もし反乱を起こしたくなったら正直に言ってね。その場合はあなたを処分しなくちゃいけないけど、隠れて反乱を画策した時よりも罪は軽くなるから」
大好きだった伯爵様の葬儀と手続きで疲れ切っている私は相当失礼なことを言っているが、相手はもう私と結婚して婿入りした元王子である。うちで生かしておけば別にいいのだ。彼との子供を作る必要もなく、養子に継がせていいと王家からも言質を取っている。私だって養女だし。
こう考えると、下手な男に夫の座を狙われるよりも良い気がしてきた。
「私のことは……そうね。『お前』や『貴様』と呼ばれるのは好きではないから、マーねぇさんと呼んだらいいわよ。マルグリッドも呼びづらいでしょうし、伯爵と呼ばれるのも慣れなくてね」
ケンドリックは契約書に目を落としていたものの、何も言うことなくサインした。大丈夫だろうか、この王子サマ。失恋が原因で死ぬんじゃないだろうか。死んだら金蔓が……。
大人しいのか落ち込んでいるのか分からないケンドリックは、その日から部屋に閉じこもった。社交シーズンも終わっていたので、王都ではなくベレスフォード伯爵家の領地の屋敷である。
思春期かなと気にもせず、仕事に打ち込んでいたら家令セバスチャンから話があった。そう、セバスチャンは伯爵様に仕えていた家令で引き続き私にも仕えてくれている。初めて会った時に思ったものだ。デキる家令って本当に名前がセバスチャンなのね、と。
「ケンドリック様がお食事を召し上がっておられません。いろいろと種類を変えてお出ししたのですがどれも手を付けておられず」
好き嫌いではなく結婚が気に食わないからハンガーストライキだろうか。なんというお子ちゃま。
やはり王子というのはいいご身分である。私なんて貧乏で売られる寸前だったから、出されたものは基本全部食べるのに。
「もう少し様子を見ましょうか。ついでにお医者様にも診せておいて」
雪が積もる前に領地での終えておきたい仕事があったので、私はケンドリックを家令に任せて放置した。
そして報告を受けた日から二日後。
領地の有力者のところを回って夜遅くに帰宅した時だった。
ケンドリックが珍しく庭に出てベンチに座り、池を眺めていた。
綺麗な元王子が池を眺めている光景は見ている分には美しかったが、いつ雪が降ってもおかしくない季節なのに彼はあまりに薄着だった。どうも寝間着のようである。王子様は寝間着で寒い時期に外に出る習慣でもあるのだろうか。
「どうしたのかしら……」
私が怪訝に思って近づくと、物陰から使用人が手を振っている。
「マルグリッド様。あの方は最近、お休みになったら急に起き出してああしておられるのです。目の前で手を振っても反応がないですし、お医者様は無理に起こそうとして池に落ちたり、暴行を受けたりしては危ないので起こさないようにと。どうやら夢遊病のようです」
「まぁ、そうなの」
使用人はケンドリックにかけてあげるためか、腕にひざ掛けを数枚抱えている。今はかけたら起こしてしまうから遠慮しているのだろう。
お飾りの夫とはいえ、彼がいるだけで支援が受けられるのだ。ベレスフォード伯爵家が困っているわけではないが、人脈や国外への販売ルートはあればあるほどいい。
そんなわけで、使用人たちも彼を丁重に扱ってくれている様だ。良かった、お飾りの夫を冷遇してざまぁされるようなつまらない使用人たちじゃなくて。
「私が見ておくから休んできて」
「そんなわけにはまいりません」
「ちょうど庭でお茶をしたい気分なの。私は着込んでいるから大丈夫よ」
使用人はこの寒い時期の夜に外に私がい続けることには反対したので、池が見える部屋でケンドリックを眺めながらジンジャーティーを飲んだ。
使用人たちのほとんどは伯爵様の時から仕えてくれており、急に養女となった私のことをよく知っているのでどうにも過保護だ。
「やらかした上にマルグリッド様に心配をかけるとは贅沢な奴ですね」
「教室で婚約破棄なんて若気の至りよ」
「普通の人はしません」
「普通の人は囲っていた愛人二人の刃傷沙汰に巻き込まれて死なないわよ」
「……それはですね、例外中の例外といいますか……マルグリッド様の比較対象が普通ではないといいますか……」
今日護衛についてくれていた騎士とそんな話をする。
しばらくしてケンドリックがハッと意識を取り戻した様子があった。急にキョロキョロ周囲を見回し、私の姿を外から見つけたらしい。
久しぶりに見る、というか書類を突き付けた日から会っていなかったのだが、彼は明らかにやつれていた。
その姿が伯爵様の最期と重なって、胸が痛くなる。
ひざ掛けを持つと、私は窓を開けて彼を呼んだ。
彼は自分の状況に失望しているような表情で、トボトボと私の方に来る。まるで無断で抜け出してお腹が空いて帰ってきた犬のようだ。
「ケンちゃん、寒いでしょ。お茶があるけど飲む?」
うっかり弟にかけるような言葉になってしまったが、仕方がない。三歳下なら弟も同然だ。ケンドリックだからケンちゃん、あるいはケンケンだろう。ケンドリックはマルグリッドと同じくらい言いづらい。
彼にお茶を飲ませてひざ掛けでぐるぐるに巻いて、手を引いて部屋まで戻った。
これは伯爵様が全部私にやってくれたことだ。
そういえば、葬儀から王命での結婚で怒涛の流れで私は伯爵様の死でふさぎ込む暇はなかった。
翌日、私は金貨を持ってケンドリックの部屋を訪れた。
「おーい、ケンちゃん。ケンケン!」
「……何なのでしょう、その呼び方は」
「だってもう弟みたいなものよ。それでね、考えたの。あなたがあんなに落ち込むのはお金が足りないからよ。ほら、これで娼館にでも行ってパーッと遊んできなさい」
昼だというのに睡眠が足りず眠そうなケンドリックの前に金貨の入った袋をドンと置く。
これも伯爵様が私にやってくれたことだ。「落ち込むのは金が足りないせいだ」伯爵様はそう言って私に金貨をどっさり持たせて仕立て屋に行かせた。
多分信じていたんだろう、金さえ稼げば家族が幸せになると。
その手は実子にはダメでも私には有効だった。貧乏だった私は金貨の輝きを見て、勉強の辛さは吹っ飛んだものだ。
「……あなたには恥じらいというものがないのか」
「それはあなたを押し付けて来た王家の方に言ってちょうだい。これは特別にお小遣いとしてあげる。前借とかじゃないわよ。超高級娼館のナンバーワンの子まではいかないけど、ナンバースリーの子となら一晩楽しめると思うわ。落ち込んでいる時に足りないのは、きっと金とおっぱいよ。あとはご飯ね。娼館に行くならちゃんと食べてカッコよくしてから行くのよ。ベレスフォード伯爵家の名に懸けてみっともないのは許しません」
一週間ほど経って、ケンドリックが外出したという報告が来た。それまでにご飯もちゃんと食べるようになったらしい。
良かった。やはり、足りないのは金とアレなのだ。
弟の部屋でいかがわしい本でも見つけた日のようにニヤニヤ安心していたら、ケンドリックは二時間ほどで帰って来た。
どうしたことだろう。移動時間を考えたらそんな早々にフィニッシュを決めたのか。それはそれで心配だ。
書類を前に変な方向の心配をしていると、執務室までケンドリックがやって来た。
なぜか手にはバラの花束を持っている。
「どうしたの? あの娼館は気に入らなかったの?」
「……娼館には行っていない。これをあなたに」
「マーねぇさんって呼んだらって言ってるのに」
私は目をぱちくりさせてバラを受け取る。ケンドリックはそれだけ言ってさっさと踵を返してしまった。
「これ、どうしたの? 私、そもそもバラは好きでも何でもないんだけど……世の女性は大体バラを貰えば喜ぶのかしら」
ケンドリックについていってくれた使用人が口を開いた。
「本日は花屋と菓子店にしか行っていません。菓子店では心配をかけたからと我々使用人たちにお土産を買ってくださいました。花屋では一時間半ほど悩んでおられました」
「ほとんど花屋にいたんじゃない。娼館はどうしたのよ」
娼館に行けば良かったのに。パーッと使えば落ち込みなんて吹っ飛ぶのに。
「マルグリッド様のあまり興味がない花が知りたいと仰って……それなら、バラかと……」
「普通は私の好きな花を贈ってくれるんじゃないの? もしかしてあの夜、歩き回っていたのを恥ずかしく思ってのお礼なの? あ、まさか気に入らなくて仕返しかしら」
「あの……マルグリッド様の好きなお花はきっと先代伯爵様関連だろうから、他人から贈られるのは嫌だろうと。だから、好きでも嫌いでもない花をと」
「……えぇ……? もしかしてお小遣いアップが狙いかしら」
使用人は苦笑していたが、私は本気で意味が分からなかった。
でも、オレンジのガーベラやスイートピーやヒマワリを贈られなくて良かったと頭の片隅で安堵する。それは伯爵様が私に買ってくれたことのある花だから。
ケンドリックからそれらをもらっても、それほど嬉しくなかったはずだ。むしろ、伯爵様を思い出して悲しくなる。
ある意味ケンドリックの行動は正解なのかもしれなかった。
私はその夜、夫婦の寝室に行った。といってもここには掃除以外で誰も入らないようにいいつけてあり、ケンドリックは存在さえ知らないだろう。
ここは伯爵様が領地にいる時に使っていた寝室だ。奥様が亡くなってからもずっとここで寝ていらっしゃった。
私は綺麗に整えられたベッドにそっと指を滑らせる。
当たり前だが、伯爵様の香りも体温ももう探すことはできない。それでも思い出は探すことができる。
眠れない日に伯爵様と一緒にここで飲んだココアの甘い味。見えずに遠ざけたり近付けたりしながら読んでくれた本に出てくるウサギ。窓から一緒に見た初雪、名前も知らぬ瞬く星々。
ケンドリックと結婚が決まってから忙しくて、忙しくて。
私は喪失感に泣くこともなかった。仕事で失敗したら領地にいる間はよくここで泣いた。王都にいる時は執務室なのだけれど。
その夜、私は久しぶりに泣いた。
ガーベラやスイートピーやヒマワリがなくて良かった。あれがあったら執務室で泣いていたはずだ。
翌週はとうとう雪が積もった。
目を刺すような白い色の世界に私はワクワクしながら、一番に庭の雪に足跡をつけようとコートを着込んではしたなく走った。
女伯爵仮面を外ではつけているが、中ではこんな感じだ。
雪は好きだ。冷たいけど、ちゃんと私が存在したという跡が残るから。それに醜いものをその白さの中にすべて隠してくれるから。
庭にはケンドリックという先客がいた。
マフラーをぐるぐる巻きで慣れない寒さに鼻を赤くして、恐る恐る雪を触っていた。ちょっと腹立たしいが、彼はまだ数個しか足跡をつけていない。
「あら、ケンちゃん。一番乗りは私よ」
一番乗りを取られたことが悔しくて私は白い息を吐きながら、庭に向かって一気に走った。
誰も踏んでいない白い雪に自分の足跡がつく。最も雪が積もっているところまで走ると、ダイブした。
ぐるりとあお向けになると、心配したのか雪に慣れていないのにこちらに走ってくるケンドリックが見える。
ケンドリックに向かってふざけて雪を投げた。彼は慌ててよけようとして滑って転ぶ。
私は声を上げて笑いながら、雪を固めてまた投げた。
「これが雪の遊び方よ!」
さすがに伯爵様とこんなことはしたことがない。彼は少し足を引きずって歩くから。
何度か雪玉を当てると、ケンドリックも見様見真似で雪を固めてこちらに投げてくる。
ケンドリックは王都育ちの王子様なのだから、積もった雪は初めてだろう。しばらくキャアキャア二人で遊んで、雪の上に二人でダイブした。
「雪というのはこんなに冷たくて、目が痛いんだな」
「楽しかった?」
「……楽しかった」
ガバリと起き上がると、ケンドリックも私に倣って起き上がる。彼の頭には雪が乗っていたので、弟に世話を焼くように手で払ってやる。服もびちょびちょだ。
「さ、足跡もつけたし遊んだし着替えましょうか」
ケンドリックの顔は雪焼けでもしたのか、すでに赤くなっている。
使用人たちが屋敷から出てきて「スープが出来ましたよ!」と叫んでいるのを聞いて、彼の腕を引っ張った。
「え? 仕事がしたいの?」
雪遊びをしてケンドリックだけが熱を出し、回復してからなぜか彼はやって来た。
「何かやることはあるだろうか」
「うーん、というか……ケンちゃん、何ができるの? 刺繍とか? 学園の成績と言われても私は行ってないから分からなくって」
ケンドリックが挙げた中で気になったのは、私ができない外国語だった。
「じゃあ、あなたにはエジェル王国とのやり取りの翻訳を任すわ。誰か通訳を雇わないといけないかと思っていたところだったから」
たまの社交だけで金蔓として飼い殺しではもったいないのでケンドリックに任せると、予想よりも彼は仕事ができた。念のため最初だけは専門家も雇って様子を見ていたが、ケンドリックだけで対処できそうである。
「エジェル王国の言語ってマイナーだから助かったわ。ケンちゃん、すごいわね」
もしかすると、ケンドリックは伯爵様が私にくれたプレゼントかもしれない。彼がいると伯爵様のことを想って猛烈に寂しくはないし、腑抜けにもならないで済む。
感激していると、ケンドリックは泣いていた。王子様は泣き方までお上品で綺麗である。あ、鼻水出てる。
「え、ケンちゃんどうしたの? 落ち込んでるなら娼館行く?」
「ナチュラルに娼館をなぜ勧めるんだ……ベレスフォード伯爵は行っていたのか」
「伯爵様は奥様一筋よ。ただ、えーと……名前も忘れた三男さんはよく行ってた」
「あぁ……彼か」
「そういえば仕事の報酬の話するの忘れてたけど、相場はこのくらいだから」
「私は恥じらいを知らない王家から押し付けられた夫で、あなたが養っているんだから金を払うことはしなくても」
「マーねぇさんって呼べばいいのに」
「社交の場でマーねぇさんなんて呼んでいたら、あなたの趣向が疑われるんじゃないか」
「なるほど。それは一理あるわね」
私が特殊性癖の持ち主ということにされてしまいそうだ。
「……褒められたことがなかったから……嬉しかったんだ」
「え、そんなことで? というかこんなに素晴らしいのに褒められないの?」
「そう。そんな、ことで」
ケンドリックが言うには王太子である第一王子が優秀だったので、教師陣から比べられて褒められたことがないらしい。
両親からも、そして婚約者からも。
伯爵様は私をよく褒めてくれた。だから、私はこうやってケンドリックを褒めることができたのだろう。
***
認められたかった、誰かに。
もし認められたら、生きていていいって信じられて自分を好きになれるから。こんな自分が生きていてもいいって実感したかった。
「レオニダス殿下は一度で覚えられましたよ」
「おかしいですね、まだ解けませんか。レオニダス殿下は……」
「ケンドリック殿下。そんな学園の課題もまだできていないんですか、遅いですね。私もアルフレッドもすぐできましたのに」
家庭教師や婚約者から言われた言葉の数々。
第二王子である自分が兄レオニダスと比べて出来損ないであることは、早い段階で分かっていた。
婚約者がアルフレッド・モンテス侯爵令息と度々会っていたことも知っていたし、婚約をなんとか私の有責で解消したい彼女があの男爵令嬢を送ってきたことも分かっていた。
いつの間にか疲れ切っていた。
婚約破棄を学園でやったら解放されると思うくらいには。卒業パーティーまでなんて待てなかった。
できていないことをずっと突き付けられていると、自分に何の価値もないように思えてくるんだ。
どうやら公爵令嬢の方が浮気していたことが私に同情を集めてしまったらしい。幽閉やどこかの国の女王のハーレムに送られることは免れてしまった。
王子としての婿入り先は限られるが、決められたのはベレスフォード伯爵家だった。裕福な伯爵家だったが、実子がことごとく亡くなるかいなくなるかして養女が継いだばかりの家だ。
前ベレスフォード伯爵は一代でかなりの財を築いた有能な人だったが、そんな才能を実子の誰もが受け継がなかったのだと誰かが話していた気がする。
しかも養女にしたのは遠い遠い親戚筋の貧乏男爵家の令嬢だった。特に才能に溢れているなどということは聞かず、伯爵はとうとうボケたのかと思われていた節もあった。
件のマルグリッド・ベレスフォードは、可愛らしい人だった。小柄でふんわりした栗毛、どことなくあの男爵令嬢に似ていた。彼女も男爵令嬢だったから、男爵家の女性はみんなこんなに庇護欲をそそる容姿をしているのだろうか。学園の男爵令嬢の見た目はマルグリッド・ベレスフォードに似ていても、わざとらしくてそそっかしかったが。
マルグリッド・ベレスフォードの見た目で最も圧倒的だったのは、キラキラしたグリーンの目だった。
さらに、彼女は人畜無害な外見に似合わずかなりイカれていた。
最初こそ彼女は自分の仕事ばかりで干渉してこなかったが、ストレスによる夢遊病で歩き回っていたら手を引いてくれたし、馴れ馴れしくも「ケンちゃん」なんて呼んでくるし、なんなら娼館に行ってこいとまで言われた。そのせいで手を引かれた時の心臓の煩さは吹っ飛んだ。
お礼としてバラを渡してもキョトンとした顔だったし、娼館に行けば良かったのにとなぜか説教までされた。
完全にお飾りの夫どころか、手のかかる弟のような生かして置いておく必要のある金蔓としか思われていない。
人生で初めての積雪を眺めていたら彼女は雪の上を淑女にはあり得ない速さで走るし、ニヤニヤして雪の塊まで投げてくる。
娼館に行けと発破をかけてきたのと同一人物とは思えないほど、子供っぽい。
服が濡れて寒くなるまで彼女と人生初の雪遊びをして、当たり前のように自分だけ熱を出した。彼女はピンピンしている。
体調が悪い時は「このまま死ねたらいいのに」といつも考えていた。でも、今回は考えなかった。
彼女といると、自分が無価値ではないかもしれないと思えたのだ。手を引いてくれるのも、頭の雪を払っただけだとしても頭を撫でてくれたのも物心ついてからは彼女だけだった。
知っている。
彼女が先代ベレスフォード伯爵を崇拝していることくらい。さらに他に知っているのは彼女が仕事中毒ということくらいか。
王都の屋敷には先代ベレスフォード伯爵と今より小さなマルグリッド・ベレスフォードの肖像画があった。
十三歳くらいのマルグリッド・ベレスフォードはソファにちょこんと座ってこちらを見ており、先代ベレスフォード伯爵はソファの側に杖をつきながらも威厳を保って立っている。
彼女はその肖像画の前でよく立ち止まって、幼い自分ではなく先代伯爵を見上げていた。
王都の屋敷にはほとんど滞在せず領地までやってきたが、何度か見た彼女のその目に走る光を私はよく知っていた。
家庭教師が兄を褒める時の目、兄の側近たちが兄に向ける目、婚約者だった公爵令嬢が恋人に向ける目。彼女の目の中にはそんな光があった。憧れ・尊敬・思慕というすべてが混ざったような。
だから、彼女の好きな花を花屋で選べなかった。
きっと彼女の記憶のほとんどが先代ベレスフォード伯爵とのものだろうから。
そこに土足で入る気などなかったし、入ったら負けである気がした。同じ土俵で戦える気がしない。すでに散々負け犬のような気分を味わい尽くした自分なのに。
マルグリッド・ベレスフォードに先代伯爵を見るような目で見て欲しい。
マーねぇさんなんて絶対に呼ばない。唯一、いろんな言語を学ぶのが好きで「無駄だ」と言われていても独学していたエジェル王国の言葉を褒められた時にそう誓った。
マルグリッド・ベレスフォードと王命で契約結婚して約一年。
「おぉ、ケンちゃん! いいじゃない! いいじゃない!」
相変わらず、彼女は私のことを落ち込んだ迷子の犬か出来の悪い金蔓の弟と思っているようだ。
「今日の夜会はレンブロン伯爵家だから! あそこのご夫人は娼館通いしている男性が大嫌いだから絶対娼館の話はしないようにね。あと、あの方に赤ワインを勧めたらダメだからね。伯爵の愛人と揉めた時に赤ワインの瓶で殴り合って意気投合して、その愛人としか赤ワインを飲まない人だから。あとは……チーフも完璧ね、それと髪の毛もうん、いいでしょう。エジェルの真珠のブローチはつけた? あの最新のデザインのやつ! つけてるわね!」
結婚した時、社交シーズンは終わりかけだった。これが結婚して初の夜会であるせいか、マルグリッドは出来の悪い私を心配しまくって早口でまくし立てている。
エジェル王国で珍しい真珠が採れ始め、私が一人で勉強していたマイナーな言語だったエジェルの言語が一気に必要になり、私の活躍の場ができた今でも彼女だけは最初と態度が変わらない。
真珠の貿易に関わることでお金を稼げるようになったけれども、彼女にとってはまだまだなのだろう。
「大丈夫。エジェルの言語の通訳でいろんなところに行ったし。伯爵邸の夜会くらいちゃんとこなせるから」
「でも婚約破棄のことまだ言う人もいるかもしれないんだから。言われても泣いちゃダメよ」
人前で泣いたのはマルグリッドの前だけなんだけど。出来損ないの第二王子だからって人前でワンワンなど泣かない。
「そもそも……みんなエジェルの言語ができないんだから、私がいないと真珠が手に入らないのに」
目の前でワァワァと落ち着かない、年上のはずの彼女の手をどさくさに紛れて握る。
「学習する人はすぐ学んで勝手にエジェル王国と真珠の取引を始めちゃうかもしれないんだから、慢心はダメよ。いくら今はうちがほぼ独占的に手に入れられているといっても」
ブツブツ言いながら頬を膨らませている。先代伯爵から受け継いだ商会を難なく切り盛りしている敏腕女伯爵には見えない。
「マルグリッドは今日も綺麗だ」
「もうケンちゃん。そんなこと言ってもお小遣いはアップさせないから」
真珠をふんだんに使ったネックレスとイヤリングをつけドレスアップした彼女を褒めても、返って来るのはそんな言葉だ。何歳児だと思われているんだ。
仕事を少しずつ手伝うことで仲良くなった家令のセバスチャンは、罠にかかったウサギでも見るような目で私を見てくる。確実に哀れに思われている。
レンブロン伯爵邸での夜会は、特に陰口を叩かれることもなく真珠欲しさによく寄ってこられた。
エジェル王国は元々閉鎖的な国だったから、真珠が採れて交易が盛んになろうともエジェル王国の言葉ができないと交渉させてくれないのだ。だから、真珠が欲しければベレスフォード伯爵家の運営する商会で買うしかないが、人気なので常に品薄で値段はつり上がる一方だ。
王家だって結婚した私に手紙など送ってこなかったのに、真珠の取引を主に私がしていると知ると手紙が何通も来た。
マルグリッドと離れて話をしていたが、彼女がある男性にしつこく絡まれているのが見えてギリギリ駆け足で近くまで行く。
「失礼。マルグリッド、レンブロン伯爵夫人が呼んでいる」
やや酒臭い男性は私が少し睨んで主催者の名前を出すと、顔を赤らめて去って行った。
彼女は絡まれても自力でなんとかする人だが、今日は仕方がないのかもしれない。
「ありがと。酔っぱらってたのか機嫌が悪かったのかしつこくて」
「もう帰ろう」
「え、ダメよ。もう少し真珠を売り込まないと」
「次の夜会でも間に合うし、散々さっきあそこのご令嬢方に説明した」
「わぁ、ケンちゃん凄い凄い。よくできました」
「体調が悪いんだろう。無理しないで帰ろう」
そう言うと、彼女は目を見開いた。
「え?」
「そこまで鈍くない。それにマルグリッドは私の体調が悪い時はベッドに押し込むのに、自分の体調が悪い時は無視?」
誰かが話しかけようとこちらに向かってくるのが視界の端に見えて、彼女の手を取ってバルコニーに向かう。
マルグリッドの顔色はいつもより青白い。月の物で腹痛が酷い日はいつもこうだ。
夜会に出発する前に指摘しようとしたのだが、彼女はこの夜会に絶対に顔を出したいようだった。それに口を挟ませないくらい早口でまくし立てていたから、彼女の考えを尊重したのだ。
彼女は本当に仕事が好きだ、見ていないと食事を平気で抜くくらい。ちなみに目の前まで食べ物を持っていくとパクっと食べるのでお腹は空くらしい。空腹よりも仕事なのだ。
家令セバスチャンが「あそこまでダミアン様の真似をされなくても」と先代伯爵の名前を出して嘆いているくらいだ。
彼女は一見、楽しそうに仕事をしているように見える。でも、何かに追い立てられて先代伯爵の後を全速力で追っているようにも見えるのだ。
「抱え上げて帰るのと普通に帰るの、どっちがいい?」
「ケンちゃん、そういうのは好きな女の子にしてあげなさい。あと、私は大丈夫だからもうちょっとお話してから帰るわ」
どこの母親のセリフだろうか。
ため息を堪えながら上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「ふぅん、好きな女の子にはそういうことしてもいいんだ?」
「そこはケンちゃんの自由だから。でもほら、ケンちゃんのおかげで王家にもかなりのお値段で真珠を買ってもらったじゃない? さらに流行りそうだから、まずはここで大きく稼いでおくといいかなって」
「そのくらいは私の方でもやっておくから」
宣伝するのは私でもできる。そのくらいは任せてくれてもいいのに。
半年以上彼女の仕事の手伝いをしてきたが、まだまだ子供扱いで何も委ねてくれないことに少し悲しくなる。
彼女は顔色が悪いのにソワソワと会場に戻りたそうにチラチラ視線を送っている。
彼女が先代伯爵しか見ていないのは分かってる。
でも、私は彼女に見て欲しい。
まだまだ道のりは長そうだ。
ため息をこぼしそうになりながら、少し身を屈めて彼女の膝裏と腰に手を添えて横抱きにする。
家令セバスチャンで練習した甲斐があってスムーズにできた。なんなのだろうか、彼の「私を楽に横抱きできるようになってからでないと許しません!」というガードは。
「ちょっと! ケンちゃん!」
「暴れたら落としてスカートがまくれるよ。怪我もするかも」
そう言うと彼女は大人しくなった。
腕の中でやや固まっている彼女を見て、ほんの少しの希望を見出しながら夜会の主催である伯爵夫妻に頭を下げて会場を後にする。
先代ベレスフォード伯爵はここまでのことはしていないだろう。
思うように真珠の宣伝をこなせなかったマルグリッドは不満げな表情で、私に抱えられたまま馬車に押し込まれた。
「ケンちゃん」
彼女が文句を言い始める前に人差し指を彼女の唇に乗せる。
馬車の座席に下ろしたところだったから、私は彼女の方に屈んでいて距離は思いのほか近い。
彼女の唇をそっとなぞると、緊張したようで体を固くする。
「出来の悪い弟扱いなのは分かってるけど、体調が悪い時くらいはもうちょっと信頼して欲しい」
彼女の肩にかけた上着がずれていたのでかけ直す。彼女の肌に少し手が当たると、また緊張が伝わってくる。さっきエスコートした時は全然平気そうだったのに、本当に彼女は仕事しかしていないし、先代ベレスフォード伯爵しか見ていないし男慣れだってしていない。
そのくせ、
「娼館行けとか、落ち込むのは金とおっぱいが足りないのよって平気で言うんだから……」
そんな言葉がつい漏れてしまった。
馬車を出すよう声をかけ、彼女の隣に体を滑りこませて座り自分の膝に彼女の頭が来るように倒す。
「もうそろそろ、遠慮しないから」
彼女の特別になりたい。先代伯爵じゃなくて、自分を見て欲しい。それに、彼女にも自分自身を大切にしてほしい。
彼女のグリーンの目を見つめながらちゃんと宣言しておく。そうしたら先代伯爵も自分の存在を許してくれる気がしたし、何かに追い立てられるように仕事をする彼女も少しは立ち止まってくれるんじゃないかと思ったから。
出来損ないの第二王子がマルグリッド・ベレスフォードの王子様になるまで、セバスチャンの予想よりも時間はかからなかった。
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