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書き出しの先に、結びの前に。

作者: 我妻

 季節が移ろい秋の涼しげな風が吹く。午後の柔らかな日差しが差し込み、薄い影の作られた図書室の隅で川園 湊(かわその みなと)は静かに本を手に取っていた。静寂の中に時折響くのは湊がページをめくった音と、本棚の本を整理している音。今、図書室に居るのは、彼と図書委員のあの子──深山みやま つきの二人だけだ。彼女の前で、湊は一歩踏み出すことができずにいた。


 湊は彼女に言いたいことがあった。言葉で伝えたくて仕方がなかった。でも、どうしても言葉が出てこなかった。


 いつも彼女が図書室に現れると、心臓が早鐘を打つように鳴り始める。静寂な図書室には心臓の音が響いていて、彼女に自分の気持ちがバレているのではないかと不安になるほどだった。

 普段は大らかで教室では多くの友人とくだらない雑談を繰り広げている湊も、彼女の前ではただただ緊張して、何も言えなくなってしまう。


 伝えたいのは「好きです」のたった四文字。しかし、どうしても口にできない。ラブレターにして文字で伝えようともしたが、途中から文字に残った自分の気持ちを見てどこか恥ずかしくなってしまって書き終えられなかった。

 こうしてただ本を読むふりをしながら、遠目に彼女を見つめることしかできない毎日を過ごしていたのだ。


 そんなある日、湊は一計を案じた。図書室では本の貸し出しの際、図書委員に借りる本の題名を書いた貸出カードを提出することになっている。そこに並んだ本の書き出しの一文の頭文字でこの言葉を伝えようとしたのだ。少し前に題名の頭文字で伝えようとしたことがあったが、なんだか露骨な気がして気が引けていた。

 そんな中でこんなにも遠回しな伝え方を思いついたのは、自宅で何気なく見ていたクイズ番組で本の書き出しの一文を聴いて題名を当てる問題が出されているのを見て、本が好きな彼女ならもしかしたら気付いてくれるのでは、と思ったからだ。


 しかし、湊は本をあまり読まない人物であった。知っている本といえば小学校の国語の教科書に出てくるような作品ばかり。確かに毎日図書室に通って本を開いていたが、その目線はほとんどの時間彼女を追っていて、手元の本の内容はほとんど頭に入っていなかった。そんな湊が「す」「き」「で」「す」から始まる本など知る由もなかったので、インターネットで有名な作品の書き出しを調べて実行することにした。

 そうして選ばれた本は泉鏡花いずみきょうかの『婦系図おんなけいず』、島崎藤村の『夜明け前』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の三冊。本来ならばもう一冊「す」で始まる本が必要であったが、どうしても見つけられなかったので『婦系図』を二回書くことで代用することにした。


 手汗のせいか端に少ししわの入った、四冊──正確には三冊だが──の題名が書かれた貸出カードを見つめる。果たして彼女は気付いてくれるのだろうか。もしかしたら、などと思って書いてみたはいいものの、誘導もなしに自然と気付いてくれる確率は限りなく低い、いやゼロに等しいと言っても過言ではないだろう。

 しかしこれ以上良い方法はもはや思いつかないのでは、という考えが頭を過り、ここで諦めるのであれば一生彼女に自分の気持ちは伝えられないだろう、と思った。それでも......しかし......などとしばらく逡巡していると、彼女は本棚の整理を終え、貸出カウンターの席に着き、静かに本を読み始めた。


 チャンスはここしかない、と意気込んで席を立つ。立ち上がるときに緊張からか足が椅子に当たって床を擦る音が鳴り、彼女がこちらを一瞥したときに目が合った。目が合ったのはほんの一瞬、一秒にも満たない時間であったが、先ほどまでの意気込みはどこかへ消え去り、足を床へ縫い付けられたかのように一歩も動けなくなってしまった。

 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかないので、緊張をほぐすように息を大きく吐くとカウンターへ向かって歩みを進める。窓の外からはリーンリーンとスズムシの鳴き声が微かに聞こえる。そんな音をかき消すかのように湊の心臓は大きく跳ねていた。


「貸し出しですか? 貸出カードをどうぞ」


 カウンターに着くと彼女は手に持った本にしおりを挟みつつ視線を上げ、ほほ笑みをたたえながら応対を始める。その顔を見て少しばかり恥ずかしくなりながら、貸出カードを差し出す。


「この本をお願いします」

「はい、わかりました。『婦系図』、『夜明け前』、『銀河鉄道の夜』、『婦系図』......『婦系図』が二回書かれていますよ? 間違いでしょうか。一応新しくカードを書き直していただいてよろしいですか?」

「えぇと、この並びじゃないとダメなんです」


 『婦系図』を二回書いていることに気付いた彼女は、新しい貸出カードを差し出してくる。やはりすぐには気付いてはもらえなかった。想定内ではあったが、誘導をしなければいけないという現実に直面し、緊張しながらもあくまでもこうじゃないとダメだと返す。彼女は当惑したような表情を浮かべながらしばらく貸出カードと湊を交互に見ると、カードに目線を落として考え込み始めた。


「この順番ですか......ということは何かの暗号......頭文字、いえ、ふよぎふなんて言葉はないですね。著者の名前......も違うでしょうか......」


 ここまで来れば彼女なら助け舟を出さなくても書き出しにも考えが至るのではと思った。しかし、彼女の目の前でただただ待ち続けるこの時間が永遠にも思え、1秒時間が経つ度に恥ずかしさが増していく状況に耐え切れなくなり、思わずヒントを出してしまった。


「その、『婦系図』の書き出しってわかりますか?」

「えぇ、『素顔に口紅でうつくしいから、その色にまがうけれども、可愛いは、唇が鳴るのではない。』ですね」

「で、では『夜明け前』は?」

「『木曾路きそじは全て山の中である。』」

「『銀河鉄道の夜』は?」

「『ではみなさんは、そういうふうに川だとわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。』」

「そしてもう一度『婦系図』を」

「『素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。』」


 彼女は最初は困惑したような表情を浮かべながらも、流石に本が好きなだけあってすらすらと書き出しの一文を答えていった。その後書き出しを反芻するかのようにしばらく考えると、答えに思い至ったようでポンと手を叩くと答え合わせを始めた。


「なるほど。書き出しの頭文字がそれぞれ、す、き、で、す。好きです、ですか?」

「その通りです」


 実際に声に出されるとやはり恥ずかしいもので、火が出そうなほど顔を熱くしながら言葉を返すと、さらに彼女から問いが飛んでくる。


「それで、本当に伝えたいことは?」

「本当に伝えたいこと?」

「えぇ、好きですという気持ちは伝わりました。そして、その上で何かさらに伝えたいことがあるのではないですか?」

「あ、その......ぼ、僕と付き合ってください!」


 最初の問いの真意がわからなかったが、二度目に訊かれて本当に伝えなくてはいけない大切な一文を伝えていないことに気が付き、図書室に似つかわしくない大声で告白をした。おそらく彼女から見た僕の顔は耳まで真っ赤であろう。緊張と不安の入り混じった面持ちで返答を待っている湊を真っすぐに見つめながら、彼女は疑問を呈してきた。


「わかりました。でも返答をする前に一つだけ聞きたいことがあります。どうして『婦系図』を2回使ったんでしょう。他にもあったのでは?」

「えっと、インターネットで調べる限り他に『す』から始まる本が見つからなくて......」

「つまり、この本の内容はしっかりと読んでいないわけですね?」

「あ、その......はい......」


 この本を読んでいないのだろう──少し責めるかのようにそう問われた。本が好きな彼女にとってみれば、本の内容もろくに読まず書き出しだけを知って、それで告白をしているのだから良い気持ちはしないだろう。そんな単純なことにも思い至らなかった自分の浅はかさをいまさら嘆くわけにもいかず、肯定の言葉を絞り出して白状するほかなかった。


 ふぅ、と彼女は一つ溜息をつく。そして書き直すようにと差し出していた新しい貸出カードを手に取ると、すらすらとなにかを書き始めた。呆れて言葉も出ないから返答は文面でということなのだろうか、もしかして振られるどころか嫌われてしまったのではないか、とさまざまな憶測が頭の中を巡る。

 不安に押しつぶされそうになり下を向いていると、はい、という彼女の声とともに、視界に端に彼女が差し出してきた貸出カードが映った。覚悟を決めてカードを受け取り、それでもやはり少し不安になって恐る恐る視線を上げてカードを見てみると、そこには実に奇麗な文字でこう書かれていた。


"芥川龍之介『或阿呆の一生』

有島武郎『小さき者へ』

夏目漱石『草枕』"


「これがわかった時、付き合うかどうか決めましょう。ちゃんと最後まで読んで、考えてくださいね」


 付き合ってくれるのか、いやあるいは先ほどの反応からこっぴどく振られる文言が書かれているのでは......と、そう思っていた湊は意趣返しの如く本の題名が書かれたそのカードを困惑の表情で見つめていた。

 どうして遠回しに......とこちらが先に遠回しに告白した身である以上、強く言い切れずに尻すぼみに口から零すと彼女から返答があり、カードを見つめていた視線は自然と彼女の顔に向いていた。


 ちゃんと自分の言葉で素直な気持ちを伝えてくれなかった罰です──そう言いながら少し顔を逸らした彼女は、夕焼けの日差しの上からでもわかるほどに、ひどく赤面していた。

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