第12話 ワインは万斛の蝋涙の如し(6)
「──シアラさん、こちらが解錠をお願いする扉です」
さっきの広間とは真逆で、家具がなんにもない殺風景な小部屋……。
あるのは見るからに頑丈そうな、鋼鉄製の濃いグレーの扉。
そしてその向かいの壁に、ニヤけた白髪のおじいさんの肖像画……だけ。
ガリさんのおとうさん……かな?
「こちら、お父上ですか?」
あっ、師匠も同じ疑問を。
「ええ。ニ年前に、持病でこの世を去りました。熱心なワインの収集家であり、ソムリエでもあり……。そして、何事にも遊び心を忘れない人でした。ですのでその扉の物理の鍵が、この有様です」
「ほおぉ……。コルクスクリューを模した鍵とは珍しい。螺旋部分はお飾りで、鍵としてはすなおなピンシリンダー……。合言葉は十五字前後くらい……ですか」
「遺品としてこれと、『わたしの秘蔵コレクションを譲り受けたければ、合言葉を突き止めよ』という手紙が一通」
「つまりこの扉の向こうには、ワイン貯蔵棚がずらり……ですか」
「ええ。この先は裏山の岩盤でして、そこを掘削して保管庫を作ったようです。五年前にわたしがこの屋敷を継いだときには、この扉はすでにありました」
「そうですか……。扉、よく拝見してもよろしいですか?」
「もちろんです。そのためにお呼びしたのですから」
「では遠慮なく。エルーゼ、来なさい」
「あ……はいっ」
へえ~。
この頑丈そうな扉も、噤みの錠かぁ……。
あれっ?
師匠、げんこつの背中で、扉にノックしてる……。
──カンカン……カンカン……。
「師匠、向こうにどなたかいらっしゃるんですか」
「いるわけないだろう。少しは頭を使え、間抜けが」
うわ。
師弟の会話になったとたん、ダンゴムシ男口調に……。
「音の反響で、扉の厚さを見てるんだ。厚さ八センチ前後……か。固定具は恐らく蝶番で、扉の向こう側。アンチ・チルトは施されていないが……。この先がワインの保管庫ならば、施されているも同然、か」
「そのアンチ・チルトって、きのうも言ってましたけど……。なんのことです?」
「きのうも言っただろう。専門用語だから気にするなと」
「いまはその専門職の業務中で、わたしは弟子。用語の説明は必要です~」
「……むぅ。弟子を取るとは、こういう面倒を抱えるということか……ふぅ。アンチ・チルトは、衝撃に対するペナルティーの呪いだ。合言葉を言わず錠をこじ開けたり、扉や入れ物を壊したりすると、その振動を検知して発動する。保管してあるものを破損させたり、盗掘者へダメージを与えたりと、反応はまちまちだ」
「なるほど……。そのアンチ・チルトが、この錠には施されていない。でもこの頑丈そうな扉を破壊しようものなら、衝撃でワインの瓶が割れるから、アンチ・チルトがあるも同然……ということですね?」
「うむ。むしろこの状況、アンチ・チルトが施されていないことが罠。錠を無視して扉を破った者が見るのは、床にまかれたワインとボトルの破片だろう。……ガリさん、合言葉はご自身でも、試されているんですよね?」
「無論です。ワインの銘柄、産地は、知る限りを試してみました」
「著名な醸造家、ソムリエ、収集家の名前。およびその金言は?」
「それも、文献で確認できるものはすべて。父の座右の銘も、試しました」
「……となると、マリアージュの料理名?」
「それも。考えられるものはすべて、試しています。なにしろ二年間も、この扉と向き合ってきたもので」
「ですよね……。参考までにお父上の座右の銘、聞かせてもらえませんか?」
「はい。『ワインは万斛の蝋涙の如し』です」
「……なるほど。遊び心を忘れるな、と仰る御仁のわりには、洒脱な銘ですね」
「故人に代わり、礼を申します」
えっ?
えっ?
なにがなるほどなんですか、師匠。
意味教えてくださいっ!
「……いかにも意味がわからんといった顔だな、エルーゼ。万斛は大量の水分、蝋涙は蝋燭が融けて垂れた跡、だ」
「大量の水分に、融けた蝋燭……」
「ワインのために流された汗や涙は、蝋燭が融けた跡のように、味や香りにくっきりと浮かび上がる……の意味だ。収集家の言葉だから、生産者への賛辞であると同時に、それを手に入れるには同じように汗と涙を垂らせ……という同業への戒め」
「はあぁ~。師匠、さすがの読解力ですぅ~」
「間の抜けた返事をするな。師の俺が恥ずかし…………ん?」
「なっ、なんですかなんですか師匠。急に人の顔をじろじろと見つめだして……。わたしの顔には、合言葉書いてありませんよ?」
「いや、ある」
「へっ?」
……って、なに物理の鍵差し込み始めてるんですっ!?
わたしの顔に、なにか本当に書いてあったんですかっ!?




