又聞きの八市 ~野盗の頬白~
又聞きの八市といえば、江戸の人々は大体知っている。
この男、歳は二十歳そこそこ、水も滴る美丈夫で、裕福な質屋の次男坊だが、ろくに働かず、毎日ぶらぶらと町中を歩き回り、市場に賭場に神社に銭湯に遊郭に畑に便所……ところ構わず出入りして、男も女も老人も若者も、武士も農民も乞食も金持ちも、誰彼構わず話しかけ、本当かどうかもわからない噂や、表に出せない内緒話をせっせと仕入れては他人に売り込み、ちょっとした小銭を稼ぐのを生業としていた。
八市本人は、いっぱしの消息通のつもりだったが、ある時、彼を快く思わない人が「八市のネタなんぞ、所詮全部又聞きだ」と吐き捨てた。やがて八市本人もそのことを耳に入れたが、怒るどころか面白がって、以来「又聞きの八市」を自称するようになった。
八市は、今日も江戸の街を気ままにふらつき、又聞きに精を出しているかに思われた。
が、その日だけは違うようだった。
夕暮れ時。
町奉行廻り方同心・内山信之介の足は、探し人が一向に見つからぬ苛立ちのせいで、いよいよ速まっていた。
人の死体を探すより、又聞きの八市を探す方が難しい。冗談混じりにそんなことを言う者すらいる。内山は数えて十一軒目になる酒場へ、大股に踏み込んだ。
ごま塩髪の店主、松蔵が怪訝そうに声をかけてきた。
「おや、旦那ぁ。そんなに急いでどうなさったんで」
「八市だ! 奴はおらんか」
「さあ、今日は見かけておりませんが」
「まったく。あいつときたら、こちらが会いたい時に会えた試しがない……」
そこへ、松蔵の一人娘・きぬが、徳利ののった盆を手に奥間の暖簾をくぐってきた。松蔵がそちらへ顔を向ける。
「きぬよ、おめえ一昨日、八市の奴に会ったとか言ってなかったか。内山の旦那が探してるそうだが、居所わかるか」
「八市さんなら、家にいらっしゃるんじゃないかしら」
「何だと? 家?」
信之介は思わず聞き返していた。四六時中歩き回っている八市が家の中にいるとは、ただごとではない。もしや病にでもかかったのではないか。
しかし、きぬはころころと笑って続けた。
「確か、貸本屋から借りっぱなしにしてた読本を読み終えるんだって……、だから、しばらく外に出ないとか――」
皆まで聞かずに、信之介は店を飛び出していた。
畳四畳の部屋には、大量の本と瓦版が錯乱していた。
又聞きの八市は、そこにいる。
寝床の上で仰向けになり、貸本の「傾城水滸伝」をのんびり読み続けていた。この二日、飯と用足の時を除いてひたすら本と共に過ごしている。だが、飽きはまったく来ない。
本はいいものだと、八市は思っている。読書を通して得る経験は、時として実際のそれよりも身になることを知っていた。
突然、静寂を打ち破る足音が、部屋に響きわたった。
「探したぞ、八市!」
相手が誰かは声でわかる。八市は、そちらを見向きもせずに言った。
「待ってくれって、旦那。今、いいところなんだよ」
すると、乱暴に本をひったくられた。満面を赤くした内山信之介の顔があった。
「阿呆め! お前を探すのに、店を十軒もまわったぞ」
「はは、廻り方同心が人探しに苦労するんじゃ、お勤めもままならんぜ」
「大層な口をきくではないか。必要でなければ、お前のもとを訪ねたりするものか」
内山と八市は、もう二年近い付き合いになる。江戸でとある心中事件が起きた時、内山がこの風変わりな又聞き屋を頼ったのが、親交のきっかけだった。歳は内山の方が三つばかり上で、武士と町人という身分の差もあるが、どちらもそうしたことには頓着しない仲だった。
八市はのそのそと身を起こし、あぐらをかいた。
「わかったよ。旦那の用件を先に聞こう。座ってくれ」
内山は顔をしかめた。
「こんな散らかった場所では、落ち着いて話も出来ん」
「急いで来たくせに、話し場所を選ぶのか」
「ええい、もうよい」内山は差料を帯から抜いて、その場にどっかりと座った。内山は男の割に小柄な体躯の男だ。そうでなければ、ただでさえ狭いこの部屋は窮屈で仕方ないはずだ。
八市は、自分から促した。
「で、話ってのは?」
「うむ……。実は、あの夜盗の頬白に関わることなのだが」
夜盗の頬白。時折、江戸を騒がせている凄腕の盗人だ。常に三尺の刀を背負い、黒装束で身を包んでいる。旗本や豪商――それも世間の評判が悪い輩ばかりだが――の屋敷に軽々と忍び込んでは、鮮やかな手並みで金品を奪い去り、神社へ寄進したり貧民街の入口に置き去ったり、といったことを繰り返している。犯行の際は、常に頬白を描いた墨絵を残していくので、この名前がついたのだった。強きから奪い弱きへ施す頬白を、支持する町民は少なくない。講釈師などは、もっぱら義侠の士として、頬白の活躍を語り物にしている。
内山が、厳かな表情で告げた。
「近頃、偽物が現れたのだ」
「偽物?」
「盗みはしても、決して殺しはやらぬのが頬白の流儀だ。だがこの一月ほど、頬白と同じ墨絵を残し、人々を手に掛ける事件が続いている。その手口の惨たらしさときたら……。私としては、これ以上の凶行を許してはおけない。そこで、ほかならぬお前に助けを頼みに来た」
八市は懐へ右腕を差し込み、脇を掻きながら言った。
「そういえば、そんな話を耳に挟んだ気がするなぁ」
「本当か?」
「流行りのネタを聞き逃すようじゃ、稼業の名折れってもんだぜ」
「ならば良い。この一件、何としても解決しなければならん」
八市はふふっと笑った。
「そりゃそうだ。偽物が現れたときては、本物の方が心穏やかじゃいられないからな」
内山は、ちらっと目を伏せた。
夜盗の頬白。その正体が、眼前にいる内山信之介であることは、二人だけの秘密でもあった。
八市と内山は、肩を並べて城下町を歩いていた。
「で、その偽者を俺に探せって?」
「うむ。偽の頬白は、本物の特徴をことごとく真似ている。小柄な体格、頬白の墨絵、三尺の刀……」
内山が袖の隠しから一枚の紙を抜き出し、八市へ差し出した。どこにでもある半紙に、頬白の絵が描かれている。
「殆ど瓜二つだな」八市は絵を眺めつつ、口の端を持ち上げた。「旦那が来なけりゃ、本物が宗旨変えをしたんだと疑ってたぜ、俺は」
内山が眉を逆立てた。
「冗談も大概にせんか」
「はは、すまん」
「お前に、見せたいものがある」
案内されたのは旗本の屋敷だった。事件から間もないせいか、岡っ引きや同心が度々出入りしている。
「こっちだ」
内山の案内で、庭に通された。筵を敷いた死体が六つ、その横には大きな桶が置かれている。桶の底は濁った赤色に染まり、強烈な死臭を発していた。
「殺されたのは勘定所に勤める旗本・生方荘介と、その家族だ」
内山が一番端のむしろをめくった。
思わず、八市も顔をしかめた。
そこにあったのは、人の原形を留めていない肉の塊だった。片目がえぐり取られ、鼻も根本から削がれている。左足と右腕が無く、腹は大きく捌かれて臓腑のあちこち穴が空けられていた。野犬に襲われても、ここまで酷く食い散らかされることはないだろう。肉の切り口がやけに荒れているのは、腕が悪いのか、あるいは切れ味のよくない鈍刀を用いたのか。
八市は、ちらっと桶の方を見やった。恐らく、これらの死体の手足が中に詰め込まれているのだ。
内山がごくりと唾を飲み、再びむしろをかけてやる。
「他のむくろも似たようなものだ。実に惨たらしい有様よ。生方の老母、息子が二人、それと使用人が二人。奥方だけは親戚の家に所用で出かけていたため無事だった。とても不幸中の幸いと喜べるようなものではないが……」
八市は顎先を手で撫でながら言った。
「ただの殺しじゃないな。よしんば恨みがあったとしても、ここまではなかなか出来るもんじゃあねえ」
「うむ。だが、生方の生前の評判は、余りよいものではなかった。勘定所でも、死んで清々したと口にする者がいるくらいだ。この男、御家人への給米を担当していたのだが、一部の米を横流しして、その利を自分の懐へ蓄えていた」
「おやおや」
「悪行には罰が下る。だが……お前はどう思う? こんな殺し方がまかり通ると思うか?」
その言葉には、恐らく本物の頬白としての義憤が含まれていたに違いなかった。内山は正義感の一際強い同心だった。
「狂人のやることは理屈の外だ。説明の仕様もねえよ」
「だが、少なくとも頬白のやり口ではない。あの者なら、こんな残虐な真似は……」
寝所に入ると、そこは惨劇の痕跡がありありと残っていた。倒された襖、破れた障子、血を吸って赤茶色に染まっている壁や床。天井に視線をくれると、刃の突き立ったような穴が空いていた。なるほど、下手人はこの狭い寝所で、本物と同じ三尺の長物を振り回したのか。
「あっちこっち穴だらけだな。乱暴な立ち回りだぜ」
「うむ。飛び散った血痕から推測するに、生方と二人の息子、そして老母は一緒にこの寝所で眠っていたところを襲われたのだ」
内山の言葉を聞きながら、八市は惨劇の様子を想像した。下手人が室内へ押し入り、寝入る四人へ刃を振るう姿を。
続いて、内山は寝所から庭へと続いている血痕の道を示した。
「下手人は死体を引きずり、庭へ運び出した。それから、手足を切り裂く凶行に及んだ。物音を聞きつけて二人の使用人がやってきたが、下手人は容赦なく彼らも斬った。死体の傷口を改めたが、どれも同じ得物による犯行だった」
語りながら、身震いする。怒りのせいか、あるいは度の過ぎた凶行に恐れおののいたのか。
「五件だ。この一ヶ月で五件。これ以上、偽者の好きなようにさせるわけにはいかん」
内山は懐から書状を取り出し、八市に渡した。
「ここに記されている三名の消息が欲しい。偽頬白の疑いがかかっている」
八市が書状を開く。その筆頭にある名前を見て、八市は眉をひそめた。
「渋谷五辺衛? あの公儀隠密だった渋谷のことか?」
「そうだ」
「だが、こいつはもう十年以上前に亡くなったと聞いたぜ」
内山は笑った。
「本当に死んだ者ならば、消息を知るのにお前の手を煩わせることもあるまいが?」
八市と内山は、浅草のあたりまでやってきた。八市の持ちネタが確かなら、そこに渋谷の手がかりがある。
行く手に、人だかりが出来ていた。八市が足を止める。
高らかな声が響いた。
「さあさあ、お集まりの皆様! 本日お話いたしますは、頬白が悪徳商人を退治し、貧しき領民を救うというもの。どうぞお集まりあれ!」
近頃江戸で人気の講釈師・源二だ。見たところ歳は五十、肌は浅黒く、額から頬には長い傷が走っていかにも凶悪な面相。右足が無く、樫の杖をついている。本人が語るところでは、甲斐で狼に襲われて食いちぎられたらしい。江戸へ来る前は、行商として各地をまわり、数奇な出来事を見聞きしてきたという。それが、講釈のネタとして活きているのだった。抜群に語りがうまく、老若男女問わず、彼の講釈を聞きに集まってくる。
八市はしばし、かれの物語に耳を傾けた。
源二が語る頬白は、偽頬白と同じで、江戸の悪を容赦なく成敗していくものだった。聴衆もそれを支持しているのか、頬白が三尺の刀で悪徳商人を撫で切りにする場面に至るや、痛快とばかりに拍手喝采した。
八市は口笛を吹いた。
「偽頬白の過激なやり口が、ああもすんなり受け入れられてるとはね。実際の凶行を目の当たりにしたら、へへ、果たして容認出来るもんだかわからねえが」
「物語と事実は違うものだ」内山はちらっと目を伏せた。「もう行くぞ。渋谷を探さねば」
八市は、一軒の店を訪ねた。
店主の佐治は初老の男で、桶作りを生業としている。彼の桶は大きくて頑丈なつくり、しかも臭いや水漏れが殆ど無い。そのため「仏様」を運ぶなら佐治の桶を使うのがいい、と江戸でもっぱらの評判だった。
「知らんよ、渋谷なんて男は」佐治は金槌を叩きながら、ぶっきらぼうに答えた。「うちは桶を作って売るだけだ。客がその中へ何をぶち込むかなんて、いちいち気にしちゃあいない」
八市は微笑んだ。
「いいや、すぐに思い出すはずさ。なにせその桶は一度限りの作り物で、あんたはその時、大層稼がせてもらったんだ。それに、中身が何なのかもあんたはわかってる。だって、自分で入れたんだからな」
佐治の手が止まった。長いこと逡巡した後、おもむろに言った。
「わかってるようなことを、何故聞きたがる?」
「へっへ、俺が何て呼ばれてるか知ってるだろ? 又聞き屋だぜ。入ってくるネタの大半は、ほんとか嘘かもわからんようなもんばかりだ。そうなると、正しい話が何なのか、きちんと見極めをつけなけりゃな」
佐治は口をへの字に曲げ、再び金槌を打ち始めた。打ちながら、唐突に言った。
「豚の肉だ」
「へえ?」
「豚の肉を入れて、桶に蓋をして、公儀に渡した。あの時は金に目が眩んで、言われるままにやった。公儀が渋谷五辺衛という男の死を偽装したかったと知ったのは、後になってからだ」
八市は真顔に戻り、頷いた。
「あんたにその話を持ちかけた公儀の人物、名前を教えてくれるかい?」
佐治から、沼田という、もと同心を紹介された。早速会いに行ったが、相手はそっけなく、同僚の磯部という男をあたるよう突っぱねた。そこで磯部のもとへ赴けば、今度は旗本の富岡に会うよう告げられた。八市と内山はたらい回しに苦笑した。とはいえ、これは八市の家業では常のこと、さほど気にはしていない。そうして行き着いた三人目の富岡は、八市の話にも真摯に応じてくれた。そして渋谷の居所まで案内すると申し出たのだった。
「私も偽頬白に、知り合いを殺されたのだ。宮本という旗本でな。一家皆殺しだった。それに渋谷が関わっているとすれば、他人事ではおれんよ」
富岡は、手を貸す理由をそのように語った。
三人は、向島のあたりまでやってきた。
「あれだ」
富岡の示す先には、ぽつねんと立つ一軒の農家。
腰の曲がった老人が、大根畑を耕していた。しみだらけしわだらけの茶色い肌、枝のような頼りない手足、量の減った白髪……どこから見ても人生の終わりを感じさせる風貌だ。
八市と富岡は、遠巻きにその姿を眺めていた。
「あれが渋谷五辺衛か。もと公儀の隠密で、しかも類稀な剣の使い手。往年は三尺近い刀を振り回してたっていう」
富岡が感心したように頷く。
「よく調べ上げているな。十二年前、八丁堀で起きた放火事件以来、渋谷はずっと世間から身を隠し、ここに住んでいる」
「確か、江戸城内で老中の暗殺騒ぎがあったんだっけな。下手人は公儀隠密の目白青山って男だ。だが、暗殺に失敗して、逃げ出す時の目眩ましで八丁堀に火をかけたっていう」
「うむ。老中暗殺を企んだのは江戸城内の人間だった。目白が捕まっては内幕がばれるので、失敗したとわかるや、渋谷に命じて殺させた。だが、暗殺騒ぎの証拠を何一つ残したくなかった公儀は、騒ぎの後で渋谷を捨てた。仕事の報酬として、あの小さな土地と月々の給米を与えてな」
八市は得心したように言った。
「なるほど。その時捨てられた恨みが、ここへ来て爆発したってわけかな?」
「何だと?」
「ここ数年、渋谷は随分困窮しているんだ。給米は年々減らされ、追い出し屋がしょっちゅう家の周囲をうろつくようになった。年月が過ぎて、公儀も渋谷の忠義と犠牲を忘れ始めてる」
八市は、黙々と鋤を操る孤独な老人をじっと見つめた。
「偽頬白に殺された四家の目録を見たんだが、そのうちの宮本家は、追い出し屋と繋がりを持っていた。もう一つの秋山家は、十二年前に要職についていて、渋谷の切り捨てを命じた張本人だって噂だ。どっちも渋谷が恨みに思ったっておかしくない。けれども、身分を明かしておおっぴらに暴れたら、かつての忠義に背くことになる」
富岡が後を引き取った。
「だから、頬白という義侠の士の名を借り、そやつらへ復讐をしたということか。頬白は旗本屋敷へも頻繁に忍び込むから、彼らを殺したとしても不思議ではない。なるほど。理屈としては通っておる」
八市は渋谷をじっと見つめた。
「だが、違うな」
「というのは?」
「動機が復讐だったなら、宮本家と秋山家以外を襲う理由が無いからさ。もっとも、内山の旦那が目をつけた男だ。何か他にわけがあるかもしれねえ」
「わけ、とは?」
「さあてね。他の連中が握ってるかもな」
八市はそう言って、きびすを返した。
富岡と別れた八市は、茶屋で人を待っていた。半刻も過ぎた時、痩せた猿のような小男が店前に駆け込んできた。
「兄貴、探しましたよ」
「来たか、菊次。それで、例の奴の居所はわかったかい?」
「もちろんです」
この菊次は八市の弟分だ。手が足りない時や、自分が動けない時に助けを頼んでいる。
内山から渡された書状には、犯人と疑わしき三人の名前が記されていた。八市自身が渋谷を追う間、菊次に残り二人の消息を探ってもらっていたのだ。
菊次がつけ加えた。
「それから、重要かどうかはわかりませんが、途中で妙な話を聞きましたよ」
「へえ?」
「偽頬白に殺された五家なんですがね、どこも全員一度は本物の頬白の被害に遭ってるんです。偽頬白は、頬白の足跡にもかなり詳しいみたいですね」
八市は片手で顎をさすった。雲のように、もやもやした疑念が胸中を渦巻く。これは、あまりいいものではない。まったく。内山の旦那、俺に余計なことを疑わせやがるぜ。
その長屋は酷く寂れていた。
住人の大半は出払っていて、物静かだ。年頃四十の婦人が、背に赤子を背負いながら洗濯に勤しんでいる。
菊池は首をすぼめた。
「でも兄貴。本当に会うんですかい? あの大塚万吉に?」
大塚万吉――。通称・穴熊の万吉と呼ばれている浪人だ。賭場や遊郭といったいかがわしい場所の用心棒をやっていると聞く。もとは御家人だったようだが、困窮して家財を売り払い、この長屋に間借りして暮らしているという。
八市は、中の様子をうかがうように首を伸ばした。
「出かけてるらしいな。まあ、おっつけ戻ってくるだろう。お前、大塚の噂を知ってるか?」
「へえ。居合の達人で、刀は二尺八寸の長物。かつて麹町剣術道場の勝又先生を、逆袈裟斬りの一撃で破った話は、ことに有名でさ。おっかない男ですよ」
「その通り。あの男の抜く手は速い。後に抜いても先に斬る、って評判だ。それほどの腕を持った奴が、長屋暮らしの浪人に落ちぶれちまってるんだからなぁ……」
八市は、しんみりとした気分でそう言った。
不意に、菊次がひっと小さな悲鳴を漏らした。八市が振り向く。
男が一人、立っていた。まるで随分前からそこにいたかのように。茶色の着物は色褪せ、素足で草鞋を履き、刀も雑に帯へぶち込まれている。いかにも浪人らしい貧しげな風体だが、双眸は周囲の者を圧する冷たい気迫で満ちていた。
八市はしかし、その気迫を肩で受け流した。又聞き家業では、しょっちゅう危険な場所にも出入りする。やくざな相手と向かい合うこともある。自然と、度胸や知恵が鍛えられた。今も殆ど意識せずに、大塚の放った殺気をうまくかわしていたのだった。
「大塚万吉、だな。待ってたぜ」
「誰だ、お前達」
「俺は八市」
浪人が、片方の眉を持ち上げる。
「噂に聞く又聞き屋か?」
「へへ、ご名答」
「何の用だ?」
「近頃、江戸を騒がせている夜盗の頬白について、聞き回っているところなんだ」
「夜盗騒ぎなど、俺には無縁のことだ」
八市は浪人の腰物に興味を惹かれていた。鞘の鐺が地面に届くほど長い。あれを操る技がどれほどか見てみたいものだ。
「どうかな」八市は一歩、詰め寄った。「生方荘介という男の死は、あんたと無縁じゃないはずだぜ」
生方の名を聞くや、浪人は不敵な笑みを浮かべた。
「奴か。近頃、死んだそうだな」
「生方だけじゃない。他にも三軒、頬白に殺されている。そのうちの前山正作とも、禍根があったろう?」
「さあ、忘れた。無いことも無かったような気がする」大塚は気怠げに手を伸ばし、首元を掻きながら言った。「話というのはそのことか」
「そうだ」
「先にも言ったが、夜盗騒ぎのことは知らん。だが、そいつを捕まえたいなら、腕を貸してやっても構わんぞ」
「へえ?」
大塚はせせら笑った。
「ここへ来たのは、俺を疑ったからだろう。疑われるのは気分が悪い。悪いが、俺も稼業の手前、身の潔白を証明しようがない。人をしょっちゅう斬っていると、身に覚えのない殺しを押しつけられることもある。だから、腕を貸すと言っているのだ。それで俺への疑いは解けないかね」
意外と口がうまいやつだ。人斬りにも、色々いる。わけもなく殺しを好む奴、殺しには自分なりの理屈を通す奴。殺しは殺しに違いないが、その違いは大きい。
少なくとも、八市は大塚という男を面白いと思った。
「また、来るぜ」
「俺に用がある時は「紅梅」という廓へ人を寄越せ。その方が早い」
「覚えとく」
「どうであった?」
その晩、酒屋でそばを食べていた八市のもとに、内山がやってきて開口一番に尋ねた。
「どうと言われてもな、まだどうとも結論はくだせねえよ」
「しかし、何かしら推測くらいはつくだろう。急がなければ、また犠牲者が増える」
内山がやや苛立たしげに言う。
「見たところ、渋谷も大塚も、自分から他人を手にかけるような輩じゃねえ。渋谷は何十年も刃傷沙汰と無縁みたいだし、大塚は殺しに自分なりの流儀があるみてえだ。何せ、俺に偽頬白を探す手伝いをしてやると、売り込みをかけてきたからな。今んとこ、あの二人に疑わしい部分があるとすれば、三尺近い刀を振り回せるってことだけだ」
「となると……」
「可能性が高いのは、最後の一人だな。実際、俺もそいつが一番怪しいと思ってる」
「何故だ?」
「悪事を強く憎んでるからさ。何て言うかな……殺された生方家も他の四家も、ひらたく言えば、江戸の庶民に恨まれてたろ? 犯人は、わざわざ義賊の頬白に成りすましてやつらを殺した。当人からすれば、悪人を成敗したんだという思いが強いに違いねえ」
「なるほど……」
内山が深く頷く。悪を憎む人間ならば、動機も理解出来ると言いたげだ。
八市はそばをすすってから言った。
「明日、そのお方を訪ねにいく。そうすりゃ、この一件の真相に行き着くかもしれねえ」
翌日。菊次は朝早く八市に呼ばれ、城外の寂れた寺へ向かった。古びた門には「麝月庵」の三文字が見える。
八市の背後に従っていた菊次が、尋ねた。
「兄貴、ここは何なんです?」
「駆け込み寺だよ」
「へえ?」
駆け込み寺は、夫との離縁を目的とした妻が、救済を求めてやってくる場所であり、各地に点々と存在する。こんなところにいる八市の探し人とは、何者だろう。訝る菊次を後目に、又聞き屋はずかずかと中に入り込んでいった。
庭に、一人の若い娘がいた。歳の頃は十八、九か。寺内の人間にも関わらず剃髪していない。質素な藍色の着物をまとい、俯きがちに箒で落ち葉を掃いていた。その動きは規則正しく、寸分の無駄もない。毛先が掻くのはあくまで落ち葉だけ、その下にある地面にはまったく触れていなかった。
八市は彼女へ近づき、朗らかに声をかけた。
「紫乃さん。久しぶり」
紫乃と呼ばれた娘は手を止めて、微かに顔を上げた。
「八市さん。何かご用ですか」
蚊の泣くような声だった。
「ご隠居様はいらっしゃるかい?」
「今、お客様がお見えですから」
「そうか。木の葉浮かしの調子はどうだい?」
紫乃はちらっと菊次を見咎め、もごもごと言った。
「多少は練習しています」
「じきに師匠も追い越せそうだな」
八市の賞賛らしき言葉に、紫乃が顔を赤らめる。菊次には、木の葉浮かしが何なのかはわからなかった。
その時、寺の中から人影が姿を見せた。こちらは紛れもない尼僧の身なり。顔には筋がいくつも刻まれ、腰も曲がりがちだったが、歩みはしっかりしている。
尼は八市の姿を目に留め、片方の眉を上げた。
「おや、八市じゃないか。どうしたんだい?」
「ご隠居の顔が見たくてね」
「馬鹿をおっしゃい。私じゃなくて、紫乃に会いに来たんだろ」
紫乃が一層真っ赤になって俯く。八市はからからと笑っただけだ。彼は江戸でも評判の美丈夫、この内気そうな娘が気を惹かれるのもおかしなことではない、と菊次は思った。
「本当の用事を言うと、夜盗の頬白を探しに来た。ちなみに、本物じゃなくて、近頃江戸を騒がせてる偽者の方だ」
「はん。そういうことかい。だけど、私のもとへ手がかりを求めるのは筋違いじゃないかえ」
八市は相手に顔を近づけ、声をひそめて続けた。
「もっと言っちまうと、知り合いの同心がご隠居に疑いをかけてるんだよ。偽頬白が殺した連中は、癖のある悪党ばかりだったって話だ。もしかしたら、どこかの正義の士が、ちょいと頬白の名を借りて、表で裁けない悪を裁こうとしてたんじゃないかと思ってね……」
「生憎と、俗世にあれこれ手を出すような元気はもう残っちゃいないよ。もとより、あたしが手を下すなら頬白とやらの名前を借りる必要なんか無いだろ」
尼僧がそっけなく答えたその時――。門前で、誰かのわめき声がした。
「辰はどこじゃ。ここにおらんのか!」
大柄な体躯の武士が、大股でやってくるところだった。顔は赤く、足取りも乱れ、着物も着崩していた。酔っているようだ。
ご隠居がかぶりを振った。
「やれやれ。今月で二度目だよ。うちに逃げ込んできた奥方を連れ戻しにきたのさ。酒を飲んで気が大きくなったんだろう」
紫乃がおずおずと進み出てきた。
「先生、私が……」
「お前は稽古を続けなさい。私が相手をするから」
娘は大人しく、しかしどこか不服そうな表情で引き下がり、また地面を掃き始めた。
尼は緩やかに歩を進め、武士の行く手を塞いだ。小柄な体躯は、相手の半分にも満たない。
「奥方なら出てこないよ。大人しくお帰り」
「だまれ、婆ぁ! あれは俺の女だ。連れて帰って、何が、悪い」武士は刀の柄へ手をかけた。「どけ。どかんのか!」
「どかなかったら、どうするんだい」
酔っていても、流石に老いた尼へ斬りかかるほど武士も愚かではなかった。柄から手を離すと、団扇のような手で尼の体を押しのけにかかる。
ところが、尼の体に触れた手は、大岩を相手にでもしたように、小揺るぎもしない。
武士の表情が異変を嗅ぎ取った時、音もなく伸びてきた尼僧の手が、柔らかな動きで喉元を叩いた。
真っ赤だった武士の顔から、血の気が一瞬引いた。そして、棒きれのようにその場へ倒れてしまった。
「えっ? えっ?」
菊次は素っ頓狂な声をあげた。何が起きたのか、まるでわからなかったからだ。
尼僧はきびすを返し、悠然と内山達のもとへ戻ってくる。しわだらけの拳で、腰をとんとん叩きながら言った。
「歳をとると、体が動かなくていけないね。それで、話の続きは?」
「ここ何ヶ月かで、仕事はしたかい?」
「いいや」
「紫乃さんも?」
「あれはまだ未熟者だよ。腕はあるけど、一人で外に出せるほどじゃない」
「ふーん。でも、偽頬白は三尺近い長物を使って人を殺すらしいんだ。江戸城下でそんな代物を使いこなす達人は、そう多くないはずだぜ。誰か、心当たりはいないかい?」
「いないね。ふん、あたしを疑うなんて迷惑な話さ。あんた、その同心とやらに伝えておくんだね。あんまり知りすぎると、自分の命を縮めるってね」
老尼は釘を差すように、八市を見た。
「ははは、伝えておきますよ。お手間をかけてすみません。それじゃ、俺達はこれで」
八市は深く一礼し、寺を出た。しばし歩いた後、菊次は勢い込んで尋ねた。
「ね、兄貴、あの尼様は何者なんです」
「さっきの技を見たろ。駆け込み寺の老尼は世を忍ぶ仮の姿。裏じゃ、お上の法で裁けない悪党を退治してる、凄腕の武芸者なんだ。木の葉浮かしっていう家伝の技があってな。へへ、俺も滅多に拝んだことはねえが、優れた居合の技なのさ」
「へええ、あの尼様が」
「内山の旦那も抜け目がねえ。ご隠居の正体を、全てではないにせよ掴んでるってわけだ」
「八市さん」二人が振り向くと、紫乃が小走りで近づいてくるところだった。「少しご一緒してもよろしいですか。その、これからちょうどお使いに行くところだったので」
「いいよ」
八市に否やは無かった。
菊次は娘をそれとなくうかがった。寺から大分走ってきたのに息切れ一つ見せていない。あの尼様の弟子である以上油断ならない相手だと思って、菊次は気を引き締めた。
肩を並べて歩きつつ、八市と紫乃はとりとめのないことを話した。菊次も又聞き稼業の手伝いをしているだけあって、勘は鋭い。紫乃がついてきたのにも、裏があるはずだ。
果たして、娘は話題をそれとなく偽頬白の件にうつした。
「お師匠様のこと……疑いがかかってると聞きましたけど」
「ご隠居は覚えが無いって言ってるんだ。数日大人しくしていれば、疑いも晴れるだろうよ」
「でも、事件が続いているんでしょう? 八市さんは、誰が犯人なのか心当たりが?」
「あるような、無いような感じだね。俺の持ってる消息は、所詮又聞きだからな」
「私も、何か出来ればいいのに」
「何かって?」
「その……偽物を捕まえる手伝いとか。本物の頬白様は、今頃偽物を探してるんじゃないですか?」
「かもね」
紫乃は腰の前あたりで、両手をぎゅっと握り合わせながら言った。
「私、ずっとお師匠様のそばで稽古をしてきました。でも、全然その成果を発揮する機会が無いんです。お師匠様はもう歳だから、日々の……その、お仕事も、私が代わってあげられればいいのに」
先ほど八市の話を聞いていた菊次は、紫乃の口にする仕事が何なのかも察しがついた。こんな年端もいかない娘が、あの老尼の驚くべき武術を受け継いでいるというのか。
その時、通りの物陰から、誰かがこちらをうかがっているのを見た。ぼろを着て、土と泥にまみれた男。物乞いだ。菊次の視線を受けて、相手はすぐに頭を引っ込めた。かと思うと、また恐る恐る身を乗り出してくる。
なんだ、こいつ。怒鳴りつけてやろうかと考えた矢先、乞食がくわっと目を見開き、脱兎の如く去ってしまった。まるで幽霊にでも出くわしたかのように。
呆気にとられる菊次を後目に、八市が言った。
「ありゃ「運無し」のごんだな」
「運無し?」
「ここらをうろついてる乞食だよ。当人はそんな気がないのに、いっつも酷い目に遭うから、同業の連中から「運無し」って呼ばれてるのさ」
「さすが兄貴は消息通ですね。乞食のことまで知ってるなんて」
八市が懐から小銭を何枚か取り出し、菊次へ渡した。
「おい、こいつをごんへやってくれ」
「へ……?」
「急げよ。見失っちまうぞ」
「はい、はい」
八市の意図がわからないながら、菊次は銭を受け取り、二人のもとを離れていった。
八市はそのまま、紫乃の買い物につき合った。
帰り道の途中、白髪の講釈師が語り物で人を集めていた。題目は「夜盗の頬白」だ。しばし足を止めて。耳を傾けるが、特別変わった内容ではない。悪徳商人が汚い手でせしめた金品を、頬白が鮮やかに盗み取る、といったところだ。話が終盤になると、講釈師の声にも一層の熱がこもってくる。
「……さて、悪徳商人の金治は凄腕の用心棒を雇っていた。それが行徳で名の知れた猪田喜八。喜八は得意の刺又で頬白を突きにかかった。が、そこは流石の頬白、ひらりと飛んで身をかわし、刺又は掠りもしない。そのまま風のような走りで、あっという間に姿を消した……」
聴衆がわっと喝采する。八市はフム、と頭を捻った。何か引っかかる気がした。
客が立ち去ったところで、彼は講釈師へ声をかけた。
「先生、ちょっといいかな」
「おや、あんたは確か……盗み聞きの八市!」
「又聞きだよ」八市は苦笑した。「それより、ちょっと聞きたいんだ。さっきの話、頬白の大立ち回りがあっただろう。せっかく三尺刀があるのに、なんで使わなかったんだい?」
「おや、あんたともあろう人が知らんのかね。頬白は殺しのために長い刀を持ってるわけじゃない。あれは塀を飛び越えたり、屋根に登ったりする時の足がかりに使うんだ」
「ああ、そりゃ聞いたことがあるよ。でも、講釈なんだし、得物でちゃんばらやる方が、面白味もあるんじゃないかな」
「確かに講釈は作り物だが、何から何まで嘘をついてりゃいいってもんでもないんだぜ。頬白は刀を抜かずに善を成すからこそ、義侠の人なんですよ」
「それって、本当でしょうか」突然、紫乃が口を出した。「物を盗まれたくらいで、悪党が改心するわけじゃないでしょう。あなたが語る頬白のやり方は、生ぬるいんじゃありませんか。悪徳商人が良民から金を巻き上げて、頬白がそれを盗んで良民に分ける。頬白のせいで損をした悪徳商人は、また良民から金を巻き上げる。そして頬白がまた盗む。ただのいたちごっこじゃないですか」
これには、講釈師が狼狽してしまった。
「んなこと言われてもなぁ、お嬢ちゃん。これはお話なんだぜ」
「お話だからこそ、余計に生ぬるいって思うんです。悪党が成敗されないんじゃ、すっきりしません。頬白が刀を抜かないなんて、それこそ綺麗事で、正義のために自分の手を汚す覚悟が無いように聞こえますもの」
八市が割って入った。
「先生、近頃世間を騒がしてる偽頬白は、人を殺すのも厭わないそうじゃないか。語り物としてもそっちの方がうけはいいんじゃねえか。ほら、あの人気者の源二先生もそうだし」
源二の名を耳にした途端、講釈師は口端を歪めた。
「はん、あの御仁ですか。講釈師にも五寸の道徳ってもんがあるもんです。客寄せをはかって、悪徳な武士やインチキ商人をむごたらしく成敗する話をする輩もいますがね、ああいうのは聞き手にも悪い影響を与えるでしょう。あっしは、綺麗事だと言われても、人を切り刻むような頬白のことを、善人として語りたくはありませんや」
紫乃は肩をすくめた。
「道理で、聞き手が少ないわけですね。だって、お客は頬白が悪党を成敗する話を聞きたいはずなのに」
「お嬢さん、そりゃ勘違いってもんですぜ。今の江戸で、頬白をあんな惨たらしい輩のように語ってるのは、源二だけなんですから。あの御仁がやたら売れるのはね、悪代官やケチな商人についてやたらと消息通で、そういう輩を頬白に惨たらしく殺させるからなんですよ。もちろん、名前はぼかしますが、ちょっと聞けばどこの誰某かはっきりわかるんです。きっと庶民はそれで溜飲も下がるんでしょうが……あんまり実在の人間を話に出しまくるのも、どうかと思いますね。何を考えているのやら……」
なるほど。源二の講釈がやたら売れているのは、そういうわけだったのか。
しかし、どうも引っかかる。悪を裁く正義の士を語りたいなら、もともと殺しをしない頬白を出す必要は無いではないか。本物の頬白からしても、いい迷惑だろう。
八市は思案顔になった。どこか、今回の一件と、繋がりがあるような気がする。
「又聞きさん、どうかしたんで?」
講釈師に声をかけられ、八市は笑顔を繕った。
「いや。こだわりがあるのは、素晴らしいことですよ。俺も、人を殺しまくる頬白より、盗みですませる頬白の方が好きだな」
「ははは。又聞きの八市にそう言っていただけるのは、光栄でさあ」
帰り道、紫乃の表情は悶々としていた。八市が気遣って、声をかける。
「どうかしたのかい?」
「八市さんは、私の考えが間違ってると思うんですか?」
「考えって?」
「頬白が悪人を殺すのは間違いだって」
「人が何を思おうが、当人の勝手さ。正しいことだろうが悪いことだろうが、そんなの自由だよ」
「本物の頬白は、どう思ってるんでしょう? 偽物のやっていることを、憎んでるでしょうか?」
「そりゃ憎むべきだろうな」
渋谷、大塚、ご隠居……。ひとまず調べるべき人間の消息は調べ尽くした。内山の疑い通り、この中に下手人がいるのだろうか。
しかし、八市が最も気になっていたのは、三人のことではない。講釈師が語った、頬白の真実の姿だった。
夜の帳がとうに下り、外では鈴虫が鳴いている。
渋谷五辺衛は、居間で一人、粥をすすっていた。六十の半ばを過ぎて、歯もいくつか抜け落ち、近頃は肉や魚を食べるのが億劫になっている。老い先短い人生を、ただ静かに過ごす。それが渋谷の望みだ。ごたごたに巻き込まれるのは、ごめん被りたかった。
物音がした。誰かが、戸口にいる。
渋谷は、食事の手を止めた。
「誰だ」
答えはない。
腰を浮かした瞬間、戸が蹴破られた。黒衣の影が、刀と共に飛び込んでくる。
渋谷は床を蹴り、壁に立てかけてある刀へ手を伸ばした。
が、そこへ音もなく白光が割って入った。
渋谷の手首から先が、落ちた。
燃えるような痛みを堪えて、すぐさま刃圏の外へ飛び退く。
だが、今度も相手の方が速かった。渋谷の動いた先には、無情に振り下ろされる刃が待っていた。
白光が走る。渋谷の喉がばっくりと割れて、真っ赤な血が吹き出した。
渋谷は、最期に相手を見ようとした。せめて、自分を殺した相手が何者なのか確かめたかったのだ。
またしても遅かった。
頭上から一筋の光が落ちてきて、彼の頭を両断していた。
死の瞬間、渋谷は己を哀れむことしか出来なかった。
昼時、内山が松蔵の店へ来て、八市を待ちかまえていた。
「渋谷が死んだ」
「らしいな」
八市も、ここへ来る前にその消息は耳に入れていた。
内山が腕を組む。
「おぬしはこれをどう読む?」
「さあてな。今のところは、殺される理由がわからねえ。とはいえ……この状況で渋谷が死んだのは、確かに今回の一件と無関係ってわけでもなさそうだ」
「麝月庵の尼はどうであった?」
八市はありのままを話した。内山は思案顔になり、それから首を振った。
「なるほど。ひとまず、大塚とその尼は、まだ偽頬白の疑いがあるわけだ。二人とも長物の使い手で、大塚は殺された旗本達に関わりがあり、尼はかつて義士を称し悪人を斬っていた過去がある……」
彼の呟きを聞いた八市は、もう一人だけ心当たりがあるのに気がついた。
「もしかしたら……」
「何だ?」
「いや……やめとく。こいつはまだ、確証が無いんでな」
「おい、水くさいぞ。知っていることがあるなら、言えばいいではないか」
「そうもいかねえ。俺の消息は確かに又聞きだが、デタラメをばらまいちゃいけねえって思う程度の良識はあるんだぜ。とりあえず……次の手がかりをあたるとするかな」
「次の? 一体、どんな?」
八市ははやる内山を制して答えた。
「旦那は動かず、待っててくれ。その手がかりが手に入ったら、俺の方から呼びに行くよ」
消息通の八市でも、なかなか見つけられない人間はいる。
そういう時は、根気よく足で探すしかない。
運無しのごんは、橋の下に座り込み、継ぎはぎだらけの着物にたかる虱をつまんでは放り捨てていた。
八市はにこやかに声をかけた。
「運無し兄貴、元気かい?」
ごんは、ぎくりとして腰を浮かした。それから八市の顔を見て、二度驚いた。
「げっ、又聞き!」
「そうさ。俺だよ。兄貴に聞きたいことがあってね」
「な、なんだよぉ。俺、なんも悪いことしてねぇよぉ」
ごんは正真正銘の乞食だった。何の職にもつかず、その日その日をだらだらと過ごしている。江戸という都市は、どんな人間でも糊口をしのげる働き口があるし、周りも浮浪者を放っておかないから、ごんのような人間は珍しいといえた。
八市は、相手の目線まで屈み込みながら尋ねた。
「あんたって、ほんと運が悪いよなあ。こうして俺に目をつけられちまってよ」
「な、なんの用があるんだよ」
「近頃、偽頬白の騒ぎが起きてるのを知ってるだろ。ついでに、俺がその件について探し回ってるのもな」
ごんは垢やふけをばらまきながら、激しく首を振った。
「俺、何も知らねえ。知らねえよ」
「へへ、じゃあなんで、昨日は俺と目があった途端に逃げ出したんだ?」
ごんはもごもごと、よく聞こえない言葉を口走った。八市がにっこりしながら肩を叩く。
「おいおい、俺が誰かってわかってるはずだぜ。お前のよろしくない噂の一つ二つは知ってるんだ。どっかの口入れ屋に頼んで、お前をうんと辛いところで働かせることも出来るんだからよ。それに昨日、菊次から小銭を受け取ってるはずだぜ。あの出所は俺なんだ」
「ま、待てよォ。わかったよう……。ただ、俺が話したことはあんまり他の連中に言わないでくれ。口封じに殺されるかもしれねえ」
「いいとも。で、何を見たんだ」
ごんは唾を飲んだ。
「偽頬白の殺しを見たんだよ……。それも一人じゃなくて、お屋敷まとめてさ」
「へえ?」
「その日、大雨が降っちまってよ。どうにもしのげる場所が無くて、俺、とある武家様のお屋敷に忍び込んで、軒下にうずくまってたんだ。うとうとしかけた時、急に屋敷の中が騒がしくなったもんだから、興味がわいて、覗いてみただろ。すると、黒装束の人影が、長い刀を振り回して次から次へと人を斬ってやがってよォ。お屋敷の旦那らしい御仁が、震え声で言うのが聞こえたんだ。「お前は頬白か?」ってね。黒装束は黙って一突き、その旦那もやっちまった。俺、怖くてまた軒下へ隠れたんだ。息を潜めてたら、黒装束は庭に死体を引っ張り出して、また細かく刻み始めたんだ。力任せに長い刀を何度も叩きつけてよぉ」
「刀は長かったのか? 間違いなく?」
「ああ。ありゃ、三尺はあったね。……そうそう、で、頬白はばらした死体を、また中へ運んで、誰もいないのを確かめてから立ち去ったんだ」
八市は片方の眉を上げた。
「死体を外で刻み、屋敷に戻したのか?」
「ああ……うん。そうだ」
「そりゃ、どこの屋敷だい?」
「確か、前山って旗本のお屋敷さ」
ひらめきが走る。やはり、そういうことか。
八市は懐から小判を一枚取り出して、ごんに押し付けた。
「やるよ。色々ありがとな!」
言うなり、駆けだしている。ごんの迷惑そうな声が、微かに聞こえた。
「おいおい……小判なんて、俺が使えるわけないじゃねえかよぉ。盗んだと思われるだろうがよぉ……!」
引きちぎられた障子紙のような雲が、夜空を漂い、街に注ぐ月光を度々に遮る。
一つの影が、音もなく長屋の屋根瓦を踏み抜き、滑るように駆けていた。黒装束に、三尺の刀。
旗本屋敷の門前に立っていた八市は、その影が目の前に下りてくるのを見て、気を引き締めた。
「待ってたぜ、旦那」
黒装束が顔の隠しをめくると、内山の顔が現れた。
「急な呼び出しで驚いたぞ。偽頬白の正体が掴めたそうだな」
「ああ。ここん中だ」
内山が眉をひそめた。
「ここは……前山家ではないか。偽頬白の犠牲になった」
「ああ、そうだ。ここに手がかりがある」
八市は門を開け、中に入った。どこかよどんだ空気。まだ惨劇の血の臭いが、残っているような気がした。
中庭に、人影が見えた。
浪人だ。長い差料、着流し、素足の草履。
内山が目を見開く。
「貴様は! 大塚万吉!」
刀へ手をかけた内山を、八市が手で制した。
「待ってくれ。旦那。あいつは俺が呼んだんだ」
「何だと? あれが……偽頬白ではないのか?」
「試して欲しいことがあってな」八市は大塚に向き直った。「大塚の旦那。やってくれ」
浪人は面倒くさげに首の後ろを掻きつつ、土足で屋敷の居間へあがった。だらしなく両手を下げ、微かに肩を上下して息を吸ったかと思うと――。
出し抜けに、腰の鞘が光を噴いた。闇の中を、白刃が音もなく閃く。三尺近い長物を縦横に振るいながら、床にも天井にも一切傷がつかない。次の瞬間、刀は何事も無かったかのように、また鞘へおさまっている。
「いい腕だ!」
八市は拍手喝采した。大塚が顔をしかめ、縁側を下りてくる。
内山は、取り残されたように呆然としていた。
「八市よ……これは一体……」
「今のは偽頬白の正体を暴く、手がかりさ」八市は内山を真剣な眼差しで見据えた。「旦那はご存じと思うが、俺には決まり事があってね。消息を悪事に利用されるのはまっぴらなんだ」
内山の表情が、微かに強ばる。
「おぬしの信条なら、もちろん心得ている。何故、今そのような話をする?」
「言わなきゃいけないのか? ここへ呼んだ時点で、旦那も理由を半分かたは察してるはずだぜ」
内山は黙りこんだ。
八市は待つ。大塚が欠伸をした。
雲が横切り、月明かりを遮った。まだ、内山は語らない。
闇の中で、八市は告げた。
「偽頬白の凶行は、あんたの仕業だ」
月光が戻った。内山の頬がひくついていた。
「何を証拠に、そんなことを言う」
「知り合いがたまたま、偽頬白の殺しに居合わせてたんだ。偽頬白は、確かに三尺の刀を振り回してた。ところが、どうもその腕のほどが怪しいんだな。一突きで殺した人間を、わざわざ中庭に引っ張って、死体をばらしてから、また屋敷へ戻す。まるで、屋敷の中で殺しを済ませたと見せかけるように」八市は顎をしゃくった。「この前山家の有様を見りゃわかるが、天井、壁、床、あちこち刀傷だらけだ。旦那と最初に見た、生方家と同じさ。下手人は、長物の扱いが不得手なんだ。ことさら死体を切り刻み、凶行を惨たらしく見せたのも、腕の悪さを悟られないようにしたかったからだ」
「だから私が犯人だと? それはどういう――」
「本物の頬白は、三尺刀を一切武器として使わない」八市はずばりと言った。「あの長さが必要なのは、盗みに入る時の足場代わりに利用するからだ。俺としたことが、本物の頬白を知ってるのに、そんな当たり前のことも忘れちまってた。講釈の先生が、思い出させてくれたのさ。
あんたは使い慣れない得物を振るったせいで、あちこちに証拠を残しちまった。ところが、それを見落とした。自分の犯行を押しつけるために、三尺刀の使い手が犯人だと決めつけ、俺に消息を探すようし向けた。だけど、さっき大塚の旦那が見せた通りだ。達人なら、屋敷を傷つけずに長物を振るえる。もし、本当に三尺の刀で殺しをやるならな」
「それだけでは、証拠と言えまい。大塚より腕の劣る者なら、やはり屋敷は傷だらけになったかもしれん」
「旦那……その言葉が、何よりの証拠なんだよ。旦那の言い方が通るなら、殺しの得物は三尺刀である必要はないんじゃねえか? それこそ、匕首でも使えばいい話だし、まして頬白を騙る必要もない。
あんたは、時には頬白が殺しをやる、ってことを世間に知らしめたかったんだ。ずっと、江戸の人間達の評判をどこかで記にしてた。盗みしかやらない頬白は、悪党に対して生ぬるいってな。それが一連の事件を起こした動機なのさ」
内山は話半ばで目を伏せていた。それから、おもむろに言った。
「……魔が差した。一言で片づけるなら、そういうことだ。お前ならわかるはずだ。この江戸に巣くう悪人どもの有様を」
八市は理解のある表情で頷いた。
「聞くし、見るよ」
「にも関わらず、誰もそれを正そうとはしない。だから、私がやらねばならなかったのだ。生方の屋敷には、これまで三度も盗みに入った。私は、奴が己の所行に懲りて米の横流しをやめると思った。ところがどうだ、生方は盗まれた損を取り戻そうと、それまで以上の横流しを始めた。悪というのは、根を絶たぬ限りどうしようもない。ゆえに、私は……」
内山の拳が震える。八市は痛ましい思いで、友人を見つめた。
「わかるよ。あんたは、人一倍正義感の強い御仁だからな」
「私は見せしめにしようと、残虐な殺しをやった。しかし……一方で己のしたことが恐ろしくてならなかった。血の負債を、誰かに押しつけてしまいたかった。それでおぬしの手を借りた。だが……悪人とて、あのような最期が容認されるわけがない。既に、この手は血で汚れ過ぎた。おぬしに全てが知られた以上は、この命で、償うより他あるまいな……」
内山が、深くうなだれる。
「それほど命が惜しくないのなら――」鈴のような女の声。八市と内山は揃って振り向いた。「この私がいただきましょうか?」
「おぬしは!」
そこにいたのは、麝月庵ご隠居の弟子・紫乃だった。腰には地面に届きそうなほどの長物を差している。
「こんばんは、八市さん」
「紫乃さん、何の用だい?」
「偽頬白を捕まえるお手伝いに来たんです。まさか本物が偽物を演じていたなんて、意外でした。でも、残念です。本物の頬白がこれほど意気地の無い方だったなんて」
内山が一歩前へ出た。
「な、何だと?」
「悪党を成敗する覚悟も無く、人殺しを続けていたなんて、意気地なし以外の何なんです? でも、いい解決法があります。この場で私があなたを斬り、頬白に成り代わるのはいかがでしょう。人を殺めることも厭わない、新しい頬白に」
「そなたが、頬白に?」
「そうです。私は悪人を斬るのなんか怖くありません。あなたが及び腰になった頬白としての勤めを、立派に果たしてみせます」
「黙れ、小娘が何を言う。あの凶行を、この先も繰り返すというのか!」
「ご自分でやっておきながら、おかしなことを!」
紫乃の小さな白い手が、柄にかかった。両の足を開き、微かに腰を屈める。
内山が、はっとして背中の三尺刀に手を伸ばす。
が、遅すぎた。紫乃が地を蹴り、一足で内山に迫る。
鞘が、目も眩むような光を噴いた。
僅かに遅れて、肉の避ける鈍い響き。
内山が仰向けに倒れた。胸から首までがばっくりと割れ、鮮血がどくどくと溢れ出ていた。
紫乃は艶然と笑った。
「本物は、抜く手が遅いですね」
刀を一振りして、血を払うと、鮮やかな手並みで鞘へ納めていく。
八市が、内山のそばへひざまずいた。
「旦那」
「八市、すまぬ。私は、求められているような気がしたのだ……。盗むのではなく、殺めることを……」内山は、歯を食いしばって必死に声を絞り出していた。「おぬし、この一件には、まだ裏が……」
「大丈夫だ。後は俺が引き受けるよ」
内山は弱々しく頷き、瞳を閉じた。
顔を上げた八市は、紫乃を見た。
「大した腕だ。二尺七寸五分の木の葉浮かしは、伊達じゃねえな」
「今は二尺八寸二分が抜けます。お師匠様と変わりありません」
「わからねえな、紫乃さん。偽頬白に成り代わるって話は、どういうわけなんだ。ご隠居が許しはしねえだろう」
紫乃は鼻を鳴らした。
「あの方は、ずっと私を押さえつけてきたんです。私はもう、立派に一人でやれるはずなのに。ちょうどいい機会だと思いました。八市さんを手伝って偽頬白を殺し、私がそれに成り代わればいいんだって」
「あんた、源二先生の講釈が好きだったもんな。悪党を斬ることに憧れてたわけだ」
「ええ」
「じゃ、俺もついでに斬るってか?」
「八市さん、あなたとは友人です。それに江戸きっての消息通、他にかけがえのない方です。だから、こうしませんか。私が斬るべき悪を探す手伝いをして欲しいんです。力を合わせ、一緒に江戸の悪を根こそぎにしませんか?」
紫乃の言葉には一点の迷いも無い。ひたすら純粋に、己の正義を信じているようだった。
八市は用心深く返した。
「断ったら?」
「仕方がありません。この場であなたを斬るまでです。本当はやりたくありませんけれど、頬白としての正体を、周りにばらされては困りますから」
紫乃が、再び刀へ手をかける。
横合いから、一本の扇子が飛んできた。
紫乃は抜刀一閃、扇子を真っ二つに割った。目の覚めるような早業、しかも次の瞬間、刀は既に鞘の内へ収まっていた。
扇子を投げたのは大塚だった。先ほどからその場にいないような体だったが、八市の危機を察して動く気になったらしい。
「話はもういいのか、又聞き屋」
「ああ、いい」
「だったら、どいてろ。ここから先は俺の仕事だ」
大塚が、八市と紫乃の間に立つ。紫乃は浪人を上から下まで眺めて、冷ややかに言った。
「どこのどなたか存じませんが、何の用ですか?」
「又聞き屋の用心棒だ。名前は無いし、何も知らん。だが、こいつを斬るつもりなら代わりに相手をする」
紫乃はせせら笑った。
「あなたが? この私を斬るというんですか?」
大塚はまるで聞こえていない様子で、紫乃の切り裂いた扇子の半分を拾いあげた。切り口を一瞥しただけで言った。
「技が荒い。俺の相手にならんな。命が惜しいなら、さっさと失せろ」
紫乃は憮然と、相手を睨みつけた。
「失せろ? この私に言っているのですか?」
音もなく持ち上がった右手が、静かに柄へ触れた。
刹那――鞘から光がしぶいた。
木の葉浮かしの神髄、柔らかな所作からは想像のつかぬ、容赦ない一閃だった。
大塚は完全に出遅れていた。そのように見えた。紫乃が抜ききった時に、ようやく両手が柄に届いている。
だが、実際はそれで十分だった。
大塚は抜いた。打ち上がる花火のごとく、一筋の光が天めがけて走る。
速い。のみならず、振りが小さく、狙いが絞られている。
対する紫乃の一閃は、相手を深く切り裂こうとしたせいで、大振りだった。大塚の思いがけない抜く手の速さに、足の踏み込みが鈍る。
些細な逡巡、それが勝敗の差になった。
大塚の逆袈裟の一撃が、紫乃の右肩を切り裂く。
あっと呻いて、娘は数歩退いた。流れ出た血が、腕を伝い滑っていく。
大塚が刀を収め、淡々と言った。
「居合の神髄は、先に抜くことではない。先に斬ることだ」
紫乃は歯を食いしばっていたが、ふと脱兎のごとく逃げ出し、闇の中へ消えた。
「用は済んだな。俺は帰るぞ」
「いや、まだだ」立ち去ろうとする大塚を、八市が制した。「内山の旦那は、この一件に裏があると言ってた。そいつを掴むまでは、まだ終われねえ」
「どこまでつき合わせる気だ」
「今晩でかたがつくさ。黒幕は、あの娘の逃げた先にいる」
八市はそう言って、微かに顎をしゃくった。
闇の中に、てらてらと光る赤い道筋が見えた。
紫乃は切り裂かれた右肩を左手で庇い、小走りに進み続けた。傷はさほど深くないものの、まだ血が止まらない。
体よりも、心の方が傷ついていた。長年、師匠のもとで鍛錬に励み、余人を圧倒する技を身につけたはずだった。紫乃は農家の生まれだ。優しい両親に慈しまれて育ったが、幼い頃、野盗に二人を殺された。以来、悪を憎み続けていた。師匠に武芸を学んだのも、自分の手で悪党を殺し尽くすためだ。
まだ、これからが始まりだというのに。こんなところで躓くなんて!
紫乃は、暗い裏路地へ逃げ込んだ。ここは彼女と、ある男の隠れ家だった。
肩を上下させ、息を整えていると、闇の中から声が聞こえた。
「つけられたな。未熟者が」
「え……」
「血の跡を残して逃げるとは、愚かな」
紫乃はぎくりとして振り向いた。流した血が、地面に点々と道を作っている。
「わ、私は……」
「どうやら、わしの見込み違いであったか。腕は確かだが、経験が足りぬ」
失望に満ちた声。紫乃は恥じ入って、俯くばかりだった。
そこへ、足音が聞こえた。
「やれやれ、薄気味悪い場所だなぁ。悪党の隠れ家には、もってこいだぜ」
又聞きの八市だ。それと、大塚万吉。
闇の声が迎えた。
「これはこれは、よくお越しくださったな」
八市はにっと笑った。
「その声、聞き覚えがあるぜ。あんたが黒幕ってわけだな、講釈の源二先生」
八市の指摘に、笑い声が響いた。
「ご名答。又聞きの八市」
闇の中から、片足の人影が、杖をついて姿を見せる。講釈師の源二その人だった。傷の走った顔のおかげで、その笑みは一層邪悪さを増している。
「どうやら、わしが糸を引いていたことにもそれほど驚いていないようだな」
「内山の旦那が偽頬白かもしれねえってことは、割と最初から感じてたんだ。問題は、そこじゃねえ。旦那を凶行に走らせた、そのきっかけだ。そいつが無けりゃ、旦那は頬白として自制出来ていたはずなんだ。それで思い当たったのが、あんたの講釈だったってわけさ」
「ほほう?」
「あんた、内山の旦那が頬白だと、以前から知ってたんだな?」
「お前ほどではないが、わしも消息通でのう。講釈のために耳を開いていると、その気が無くても色んな噂が聞こえてくるものなのだ」
「それで合点がいったぜ。この江戸で、頬白が惨たらしく人を殺すのは、あんたの語り物だけだ。あんたは、頬白が江戸の悪商や旗本を残虐に殺す語り物をやって、盗みしかやらない本物の頬白が、江戸に巣くう悪をのさばらせていると暗に喧伝した。内山の旦那としては、自分のことを語られて気にせずにはいられねえ。当然、正体を明かし、あんたと接触をはかったはずだ。あんたはここぞとばかり旦那の正義感を揺さぶって、殺しをするように仕向けたんだ」
「くくく、正義感の強い輩ほど、煽りには弱いものよ。だが、あの男はいずれ使い物にならなくなると思っていた。三度ばかり殺しをやるうち、気が咎め始めたからな。わしは、それなら誰かに凶行を押しつけてしまえばいいと唆した」
「なるほど。じゃあ、渋谷、大塚、麝月庵のご隠居に偽頬白の疑いをかけたのも、あんただな?」
「その通りよ。全員、腕の立つ人間だと知っていた。その三人のうち誰かで、わしの目的に最も都合のいい奴を、次の偽頬白に仕立てるつもりだった。ところが、たまたま別の適材がいた。わしの講釈に聞き惚れ、正義感も強く、腕も立つ娘がのう。もっとも、見込み違いであったわ」
源二が鼻を鳴らし、紫乃を睨む。
八市はじっと源二を見据えた。
「……あんた、ただの講釈師じゃねえな」
「ほう?」
「大塚はまだしも、ご隠居や渋谷の正体を、そう簡単に掴めるもんじゃねえ。ずっと気になってたことがあるんだ。この一件、死んだ連中はどれも、過去のある事件と繋がりがある。あんたが単に頬白を利用して世の悪党を裁こうとしただけなら、これほど綺麗な繋がりにゃならねえはずだ」
源二が凄みのある笑みを浮かべた。
「よかろう。続けてみろ」
「十五年前に起きた、老中暗殺事件。その犯人は一人の隠密だった。世間じゃ死んだことにはなっているが、はっきりした確証があったわけじゃない」八市は、まじまじと相手を見て、続けた。「隠密の名は目白青山……それが、あんたの正体だ」
源二は体を反らせて大笑いした。
「お見事。又聞きで行き着いた真相とは思えんな」
「偽頬白が殺した五家は、どれも老中暗殺事件の関係者だった。悪商や悪代官なら他にいくらでもいるのに、わざわざその五家が選ばれた。こりゃ、過去に何らかの恨みを抱えた個人の仕業としか考えられねえ」
「いかにも、いかにも! わしのこの無様な姿を見ろ。老中暗殺のため働いた挙げ句に失敗し、渋谷に殺されかけた。片足を失い、大火傷を負って辛くも生き延びたが、わしは江戸を追われ諸国を逃げ惑う哀れな身の上となった……。そんな目に遭ってなお、幕府に忠義など誓えようか。否! わしは自らの力を以て、復讐することにした! 顔を傷つけて人相を変え、講釈師としての技能を学んで江戸へ舞い戻り、手始めに当時の事件に関わった連中を始末したのだ!」
「渋谷が死んだのも、あんたの仕業だな」
「ふふ。もともと殺すつもりは無かったのだ。むしろ、暗殺事件の晩にわしを食い止めたその腕を買っていた。あれも幕府に捨てられた身、仲間に引き込めると思った。そこで内山に捜索させる数日前、わしは奴を訪ね、共に幕府へ復讐をしようと誘った。だが……あれは突っぱねた。そこで、紫乃を使って始末させた。ちょうど、この娘の腕のほどを確かめるにいい相手だったのでな」
八市はへっと口端を曲げた。
「他人の手を借りて人を殺しまくるのは、さぞかし気分がいいだろうな」
「偽頬白が暴れれば、講釈の実入りも増える。一石二鳥、実にありがたい」
「物語ってのは、人を幸せにするものだぜ。間違っても、誰かを悲しませたり、ましてや憎んだりさせるものじゃねえ。あんたの講釈は、ただの恨み言だ。あんたは恨み言で江戸の人々を煽り、内山の旦那や紫乃さんを引き込んで道を踏み外させた。そいつは大間違いだぜ」
「ふふ。何とでも言うがいい。頬白の代わりなど、いくらでもいる。正義面をした馬鹿な輩は、わしがことごとく利用してやる。気に入らぬ奴は皆殺しだ。十五年前の仇にけりをつけたら、次はわしが闇から江戸を支配するのだ!」
紫乃が瞳を丸くして、身を震わせた。
「あなた様は……まさか、そんな。そんな方だったなんて! 自分の復讐のために、私を利用していたんですか? あなた様は、渋谷が悪党だと言っていたじゃ無いですか……!」
「渋谷はわしを見捨てた幕府の一味、悪党には違いない」
「でも、あなた様がやろうとしていることは――」
「くどいぞ! 貴様のような役立たず、わしとてもう必要ないわ」
紫乃は歯を食いしばり、刀を鞘走らせた。、
と、源氏が袖を一払いした。細い毒矢が三本飛び出す。狭い長屋の中では、逃げ場がなかった。矢は娘の胸を貫いた。
「あ……」
手中から得物を滑らせ、紫乃は倒れた。
源二が、ぎろりと八市を睨む。
「又聞き。貴様も知りすぎた。この場で死んでいけ」
それまで唖同然だった大塚が、ふと口を開いた。
「ようやく終わりか」
「ああ。待たせて悪かったな。あとは頼む」
八市の前に、大塚が立ちはだかる。源二がねっとりした笑みを浮かべ、手招きした。
「大塚万吉。紫乃を破った腕、実に惜しい。どうだ、わしと組まぬか?」
「くだらんな」
「何だと?」
「変人の酔狂な夢物語につき合う暇は、俺に無い」
「ならば、死ぬがいい!」
源二が右袖を振るうと、七つの矢が飛んだ。
万吉が抜刀しざま、刃を旋風のように回し、全てを叩き落とす。
すると源二が杖を捨てて片足で立ち、すかさず左袖を翻す。内から、分銅つきの鉄鎖が放たれた。鎖は蛇のように刀へ絡みつき、動きを封じた。
「終わりだ!」
再び右袖を振りかぶった源二、矢を打ち込まれれば、今度は防ぐ術が無い。
だが……もと隠密はうっと呻いて、体をぐらつかせた。腕は突如、力を失った。
胸の先から、刃が突き出している。
その背後には、ぜいぜいと激しく肩を上下させている、満身創痍の紫乃の姿があった。
「小娘……!」
鎖を素早く解いた大塚が、踏み込んで刀を横薙ぎにする。源二の首が吹っ飛び、路地の壁に跳ね返って、地面に落ちた。残った体が、血を吹き出しながら前のめりに倒れていく。
ふらつく紫乃に駆け寄って、八市は彼女を支えた。
「八市、さん。すみません……私……」
「何も謝るな。黒幕はあんたが倒したんだ」
「お、お師匠様に、伝えて……ください。紫乃は、悪い弟子でした……」
「そんなことはねえよ。しっかりしろ。必ず助けてやるからな」
すぐにでも背負って麝月庵へ行こうとしたが、不意に紫乃の体がずしりと重みを増した。目を閉じた八市は力無く首を振り、息絶えた彼女をそっと地に下ろした。紫乃に間違いがあったとしても、全ては血が洗い流した。
大塚が刀を収めて、言う。
「終わったな」
「ああ」
「亡骸はそちらで片しておけ。俺は帰る」きびすを返しかけた大塚が、ふと尋ねた。「一つ聞きたい。お前の正義は何だ。又聞き屋?」
「正義、ね……。自分が正しいなんて思い込みをしたら、そいつはもう正義じゃ無くなってるのは確かだな」
「そんなものか」
「どうして聞くんだい?」
「お前に手を貸したのが正しかったか、気になっただけだ」浪人は、そっけなく答えた。「お前とはこの先も縁がありそうだ。何かあれば、また呼べ」
翌日、八市は紫乃の亡骸を麝月庵のご隠居のもとへ届けた。
真相は全て話さなかった。ただ、偽頬白を追う手伝いをして、黒幕の源二と相打ちになったのだと告げた。
聞き終えて、ご隠居は嘆息した。
「あの子は、大人しいように見えて、昔から心に秘めているものがあった。ずっと、何かしたくてうずうずしていたんだろうねぇ。あたしが抑え込むような真似をしなければ、まだ生きていられたのかも……」
唯一の直弟子を失った傷は、すぐには癒えないだろう。ご隠居は、念を圧すように尋ねた。
「八市、あの子は本当に、間違ったことをしなかったんだね?」
八市は深く頷いた。
「もちろんですよ。彼女は、あなたの弟子だ。最後まで、あなたの教えに忠実だったんです」
事件が終わり、数ヶ月が過ぎた。
八市はその日も、消息を求めてふらふらと街の中にいた。
頬白はぱったり姿を見せなくなった。人々は噂をする。偽物と戦って相打ちになったのだとか、とうとう奉行に捕まったのだとか、実は本物があの凄惨な殺しをやっていたのだとか……。
渋谷、内山、源二……相次いで亡くなった者達に関する真相を、八市は胸にしまい込んだままだった。適切な相手と時が来れば、必要なことだけを明かすし、そうでなければ、ずっと黙っておく。所詮は又聞き、八市の語る言葉すら、あらゆる角度から見た真実とは限らない。
人々は大抵、自分が見たい、聞きたいと思ったものしか信じられないのだ。頬白と偽頬白の一件も、皆がそれぞれに解釈し、勝手に結論をつけ、そのまま時の中に埋もれていくだろう。
八市は歩き続けた。
ふと、黒い頭巾と街頭を被り、長い棒きれを手にした童が、人混みの中を駆け抜けていくのを見た。
何故か、懐かしい友を見つけた気分になり、八市はその童に声をかけた。
「威勢がいいなぁ。その格好、もしかして頬白かい?」
立ち止まった童は、誇らしげに笑った。
「うん!」
「よく似合ってるぜ」
「ねえ、兄ちゃん。頬白、どうして最近出ないのかなぁ? いなくなっちゃったのかな?」
「いなくなってないよ」八市はその子の頭を撫でた。「世の中が悪党だらけになったら、きっとまた現れてくれるよ。あいつは、悪党を許さないからな……」
「もし頬白がでなくなったら、おいらが代わりをやるよ。悪党から盗んで、貧しい人達に分けてあげるんだ!」
「へへ、そいつはいい」
八市はにっと微笑んだ。
そう。きっとまた誰かが頬白を名乗り、正義を成そうとするだろう。
頬白の心だけは、今も人々の中で生きている。