三話 音楽室のピアノ13
ピアノが好きだった。
それ以外に取り柄がなかった。
ピアノを弾くと、母が喜んでくれる。ピアノ先生が褒めてくれる。
そして、発表会に出ると、彼に――吾妻霖之助に会えた。
霖之助は通っていた小学校の男の子達と違い、よく分からない理由でからかってくることもなければ、騒ぐこともなかった。擦れ違えば、必ず挨拶をしてくれていた。いつも妹の話を穏やかに聞いていて、とても繊細な雰囲気があり、ピアノの音色も心地良かった。
発表会以外でも会いたい――
いつからか、そう思うようになっていた。
それは、ピアノの先生にも気付かれていて、少し発表会の度に、『吾妻君も今回出演されるみたいよ』と優しく教えてくれた。
『吾妻君』
その名字を聞く度、自分で呟く度に、胸が高鳴った。
それまでは、ピアノが好きたから練習していたが、いつの間にか、彼に見てもらっても恥ずかしくない演奏をするために練習していた。そして、いつか彼と同じステージに立って、一緒に演奏したいと思うようになっていた。
彼の横に立てる自分になりたい。
吾妻霖之助は、沙理奈が初めて好きになった男の子だった。
あれは、六年生の発表会間近だった。
練習していた曲が、なかなか自分の納得いく出来にならず、沙理奈は苛立っていた。
先生は、焦りが沙理奈の良さを消していると言った。いつも通り、楽しくピアノを弾けばいい、そうアドバイスもくれた。それが沙理奈のピアノの良さなのだ、と。
しかし、楽しいだけは上手くなれない。その時の沙理奈は思っていた。
前よりも、もっと上手くなりたい。上手くならなきゃ――彼のように、ならきゃ。
先生に無理を言い、練習に付き合ってもらった。
いつもは夜八時に終わる練習も、九時、九時半となっていた。先生が『さすがに、そろそろ終わりましょう』言い、沙理奈も渋々練習を切り上げた。
『遅いから、送っていくわ』
ピアノの先生が心配し言ってくれたが、沙理奈は『いつも通っている道だから大丈夫です』と断った。
沙理奈の家は、ピアノ教室から線路を挟んで向かい側の地区だったが、徒歩十分ほどで遠くはない。
だが、先生は首を横に振った。
『この時間に一人は危ないわ。ちょっと準備してくるから、待っててね』
先生宅を出て、住宅街の薄暗い道を歩いた。擦れ違う人もちらほらといて、何も変わった様子はなかった。
その間、どうすれば演奏が上手くなれるのか、ずっと先生に質問していた気がする。
歩道橋の下まで来ると、線路の向こう側で母が手を振っているのが見えた。どうやら、帰りが遅いから迎えに来ていた途中のようだ。
沙理奈もホッとして手を振り返した。
『先生、ここで大丈夫です! ありがとうございます! また次もよろしくお願いします!』
沙理奈は勢い良く歩道橋の階段を駆け上がった。
背後で先生が何か叫んでいた気がする。
先生は、何と言っていたのだろうか。
歩道橋の上まで来て、向こう側へと――
『え……?』
背後から音がした。
どんな音だったか――
テケテケ……
裸足でコンクリートを歩いているような、乾いた音。
『な、なに……?』
振り返れば、昇ってきた階段の所に、黒い塊があった。それは沙理奈よりも小柄で、人のように見えた。
だが、立っているわけではない。黒い塊に目を凝らせば、下半身の部分がなく、腕で上半身を持ち上げるようにしているようだ。だから、人のように見えて、自分よりも小柄なのだと沙理奈は気付いた。
『ひッ……⁉』
後退り、小さく悲鳴を上げれば、それはこちらへと向かってきた。
物凄い速さだった。
テケテケテケテケッ!
『ぃッ、いやッ!』
恐ろしさに慌てて踵を返せば、すでにそれは背後に差し迫っていた。
『たっ、たすけ……ッ⁉』
階段を駆け下りる、その時だ。
『あッ!』
足が滑った。
前に傾く体。頭上に何かが通ったような風圧があった。
反射的に受け身を取ろうと腕を前に出せば、体が反転した。
その時に、見えた――
歩道橋の金網に張り付く、上半身だけの少女。
アシ、アタシノアシ……
少女の声ではない。地を這うような――
が、沙理奈の意識は、そこで永遠に途切れた。




