三話 音楽室のピアノ9
霖之助は、闇の中に聳えるその建物を見上げていた。
夜に来ると、どうしてこうも不気味なのだろうか――学校という場所は。
「橘、ここに何の用があるんだ?」
確かに、擦れ違うことを望んではいたが、まさか本当に橘華子の姿を帰り道に見ることになるとは思わなかった。
暗くてあまり表情は見えなかったが、足取りは軽快で、昼間よりもさらに嬉しそうな雰囲気だった。
が、帰る方向とは反対方面へ歩いていた。
(後をつける気はなかったけど……)
声をかければよかったのだが、避けられている気もしているから、どうしても勇気が出なかった。
気付いた時には、小学校に辿り着いていた。
彼女が入った裏手のフェンスから、霖之助も体を捻じ込ませる。
「きっつ……」
小さい頃はよくこういったフェンスや壁の穴に入っては、秘密基地と言っていたが、今では入るのも一苦労だ。
「校内入ってったのかな?」
彼女が小学校へと吸い込まれて、しばらく立ち竦んでしまっていたから、どこから入ったかまでは見ていなかった。
「入口どこ?」
華子と同じ地区に住んでいるが、霖之助が通っていたのは、ここではない。
知らない学校へ入るのは、新鮮でもあり、怖くもあった。
(見付かって怒られたりしないよな?)
フェンス沿いに植えられたツツジに身を寄せながら、霖之助は辺りの様子を伺う。
どの教室にも灯りは見えない。人気も感じられない。
本当に彼女はここに入っていったのだろうか。確かに見たはずなのに、それすらも疑ってしまうほどだ、
校舎の影が、さらなる闇を生んでいる。目を凝らせば、何か蠢いているようにも見えた。
そんなはずはないのに――
昼間は子ども達の声で溢れていることが嘘のようだ。静けさが凝縮された空間のように思える。
生温い風が頬を撫ぜ、背中に少しだけ冷たい汗が流れた。
「……何やってんだ? 俺……」
燻り始めた恐怖に打ち勝つため、霖之助は小さく呟いた。
――と。
「……な、何か、聞こえる?」
足が縫い付けられたように動かない。
目だけで音が聞こえた方向を探す。
気のせいかと思った。思いたかった。
が、音は確かに聞こえていた。
それが、聞き慣れたものだから間違うはずがない。
「ピアノの音……」
目は、二階の角の教室を捉えた。
灯りは点いていない。しかし、音は確かにそこから聞こえている。
「これ、子犬のワルツ……」
発表会のために、練習していたことを思い出した。でも、結局自分では納得できないままのできだった。
そういえば、これを完璧に弾いていた子がいた。いつも一緒の発表会に出ていた。
記憶が蘇る。
が、最後の発表会にはいなかった――
(あの子の音色みたいだ)
しかし、こんなことがあるのか。
さっきまで動かなかった足が、今度はふらふらと動き出した。
まるで、引き寄せられるように――
(聞いたことがある気がする)
誰が弾いているのだろう。
なぜかは分からないが、懐かしい。
さっきまで身を寄せていた植木からふらふらと離れた霖之助は、校舎へと近寄った。
「どうやって入る……?」
ふと呟けば、窓がすっと開いた。
「え?」
誰も触れていない。
再び恐怖が湧いた。
が、それ以上にこのピアノの音色の正体が知りたかった。きっと誰かが弾いているはずだ。
それが、生きている人ではないとしても――
「よし」
小さくだが気合を入れた霖之助は、窓の桟に手をかけたのだった。




