プロローグ 華子と花子
三階の女子トイレの右から三番目の個室には、彼女がいる――らしい。
「出してよ! ねぇ!」
大きく声を上げても、助けはない。それは分かっているけど、毎回叫んでしまう。
トイレの個室が、いつも以上に薄暗く感じる。悲しさと悔しさで、目の前が霞んでいる。
ドアの向こうで、クスクスと面白がる含み笑いとひそひそ声が聞こえてきた。自分の声は、大きくすればするほど、無視されてしまうというのに、相手の声は潜められるほどこっちに鋭く刺さる。
ぼやける視界を、必死で拭う。
泣いてはダメだ。向こうの思う壺になってしまう。
再度声を上げた。
「出してっ……ねぇ! キーホルダーも返してよぉ!」
四限目の体育が終わった後、ランドセルに付けていたお気に入りのキーホルダーが無くなっていることに気が付いた。
通学路で落としたことは考えられない。だって、三限目までは、ちゃんとランドセルの横に付いていた。
だとすれば、考えられることはただ一つだった。
クラスの女子グループの仕業だ。彼女達は、常に自分達の優越感を満たしてくれる笑い者を求めていた。その笑い者に選ばれてしまった。
それはただの不運だったと諦めている。
去年、小学三年生になって、自分にだけ見えるものがあると知った日から――
でも、こんな仕打ちなんて、酷過ぎる。何もしていないのに。何もできないのに。
「ねぇ……お願いだから、返して……」
大切なキーホルダーだ。去年の夏、お父さんに買ってもらったキリンさんのキーホルダー。持ってきたら、こうなる日が来ることは薄々分かっていたけど、お父さんの買ってくれたキーホルダーを持っていたかった。
どんなことをしても、取り戻さなければならない。
「ねぇ! なんか、変な感じがするよ……」
ドアの向こうが一瞬静まる。が、今度は大笑いし始める。
「出たぁ!」
「ユーレイ見えるのぉ?」
「どんなおばけが見えますかぁ?」
冷やかす口調に、言葉の選択肢を間違えたことを確信する。
初夏に差し掛かる暑さが、ねっとりと纏わりついてくる。
「ここにはいるもんねぇ」
「見たことないけどぉ」
女子グループの話し声に重なって、ガチャガチャとドアの向こうから音が聞こえてきた。
「ね、ねぇ……何してるの?」
バチャバチャと水の跳ねる音も聞こえている。
「涼しくしてあげるね!」
「きゃあっ! ちょっと入れ過ぎじゃない?」
ケタケタと笑う声が、近くて遠く聞こえる。
「え……やだ……」
ガチャガチャバチャバチャと、ケタケタとが、波打っている。ドアを力一杯叩いた。バンバンと叩く音が、しかし掻き消されていく。
「お願いだから……やめて……」
恐怖が一気に押し寄せてくる。ドアを叩く。何度も叩いた。
バンバン、ケタケタ、ガチャガチャバチャバチャと。
ドクドク鼓動が、鼓膜を突き破りそうだった。
「助けて! 誰かぁ……!」
込み上げてくるしょっぱいものを堪えながら叫ぶ。
「花子さん!」
そして、寒気が――
「ッ……」
本当に来てしまった。呼んでしまった。
三階の女子トイレの右から三番目の個室には、いるのだ――トイレの花子さんが。




