桜の下での幕間
歩いていた。あてどもなく、目的もなく、歩いていた。
心は、暗い闇の穴の底に、どこまでも落ちていっていた。
続いた理想は無残に崩れ、今のおれには何も無い。
今までのことは、なんだったのだろう。今までのおれは、なんだったのだろう。
もうなにもやりたくない。けれどやらなければならない。
色々なものを捨ててきた。犠牲にした。でもそれのためなら仕方がないと思っていた。
一人ではなかったから、楽しい時もあった。一人ではなかったから、やろうと思えた。
酷い状況や、絶望に近い状況もあった。けれど、一人ではなかったから充実して過ごしてこれた。
なのに。だというのに。
おれは一人になってしまった。
もう、誰一人としておれの隣に立ってくれる者はいない。
すべてが、どうでもよくなっていた。
と。
視界に入るもの。薄ピンク色のなにか。
桜の花びらだ。
地面にひらひらと舞いながら落ちていく花びら。
そうか、もう桜の季節か。
そんなことにすら、気が向いていなかった。
顔を上げると、そこには桜の木が一本立っていた。
開けた場所に、ただ一本、巨大な桜の木が立っている。
普通の桜の木よりも、一回りか二回りは大きいだろう。視覚的には、かなりでかく感じる。
「綺麗だな」
ありきたりなどうでもいい感想が、こんな時なのに口から漏れた。
歩く事さえ億劫になって来ていたおれは、背を預けるのにちょうど良さそうな、巨大な桜の木の幹まで歩み寄り、背を預け、座り込んだ。
疲れていたのか、力が抜けて、気も抜けていく。
もう、立つことすらしたくない。
このままここで果てるのもよさそうだな。
そんな考えさえ浮かんでくる。
でも、まだおれにはやらなければならないことが残っている。
それが終わるまでは、また立ち上がらねばならないのだろう。
だけど。
いや、だな。
やめてしまいたい。諦めてしまいたい。けれどそれは許されない。おれがおれを許さない。
だから、立ち上がるべきだ。
けど。だけど。しかし。されど。
そんな気力は、ない。
思考は鬱屈し、濁った泥のように巡る。
精神が、気分が、病気が悪化するように沈んでいく。
「どうされたんですか?」
声が聞こえた。
透き通るような、耳に心地いい声音だった。
後ろからだ。
足音。敵意は、ない。
おれの前に、声の主は回って来た。
視界に入るのは、桜色。
桜の花びらではない。綺麗な、とても綺麗な、桜色の髪だ。
さらに桜色の瞳に、桜色のワンピース。
全体的に、桜色だった。
どこかのお嬢様のようにも、見える。
幼い顔立ちで、小柄。身長低め。
見た目は高校生ぐらいだ。ということは、おれよりも年が下。
「誰だ?」
「とってもかわいいかわいい女の子ですよ~」
桜色の女の子は、ふにゃりと笑いながらそんなことを言った。
「そうか」
二言しか話していないが、話すのも億劫になってきた。
今は誰とも話す気にはなれない。
おれはうつむいた。
何も視界に入れたくない。
何も見なければ、気は落ちていく一方だと解ってはいても。
「って、ツッコんでくださいよっ。これじゃわたしが痛い子みたいじゃないですかー!」
「…………」
「ほんとに何か喋ってくださいよー! このままじゃわたし、変な人で終わっちゃいますー!」
「…………」
「…………」
「…………」
「ふぅ……」
桜色の女の子は、一息つく。
そして、黙っておれの横、右隣に腰を下ろした。
同じ桜の木の幹に背を預ける。
巨大な桜の木は、一方面に人二人が背を預けられるほど太い幹を持っていた。
その行動を止める気はなかった。
話す気もなかったのだから、そんな気も起きないのは当然だ。
それからは、なにも女の子は喋らなかった。
けれど、何故か、動かないおれのそばで、ただ座っていた。近くに、いた。
ヒトの匂いが、存在が、俺のそばにあった。
その日は、終始、一言も女の子とは話さなかった。
別れ際でさえも、何も話さなかった。
そう、おれは動いたのだ。家には、一応帰った。
その気力が、どこから湧いたのかはわからない。
けれどおれは、ちゃんと帰って、食事をして、風呂にも入って、寝る。
一連の、人並みな生活の行動をすることができた。
そんな気力、一片たりとも残っていなかったはずなのに。
布団に入って、眠る前に思う。
そういえば、あんなに綺麗な桜の木だったのに、周りにあの女の子以外の人は誰一人いなかったな。
次の日。またおれは桜の木が立つ場所にやって来た。
昨日よりは、少しはましになった精神で。
今、何もすることがないおれは、なんとなく足を運びたくなってしまった。
あの女の子とまた会いたくなったとか、そういうのではないはずだ。
あの子がまたここに来るとは限らないのだから。
花びらが舞い散って、咲き誇っている。
微風を頬に受ける心地よさを感じながら、おれは歩き、木の幹に近寄り、昨日と同じように、同じ場所に背を預け腰を落とした。
「お兄さん、また来ましたね」
座ってすぐ、後ろから声が聞こえた。
前回と同じように、おれの前に回って姿を現す桜色の女の子。
君も、また来たんだな。と気軽に話す気力は、まだ湧かなかった。
「ねーねーねーねー、喋ってくださいよー。会話にならないと寂しいじゃないですか」
言いながらおれの右隣、昨日と同じ位置に腰を落ち着ける少女。
「ねー」
近づいてくる、主に顔が。
「ねー」
さらに近く。
「ねー」
吐息がかかるほど近い。少女の、ふんわりとした桜のような匂いが鼻腔を通る。
「ねー」
近い。
「……なにを話せばいい?」
おれは根負けした。
頑なに話さない理由もないと思ったからだ。
気力ぐらい、少し振り絞ればいい。
「だから、また来ましたねって」
最初の発言からやり直す気か。
「ただの気まぐれだ」
「なら、その気まぐれに感謝しないといけませんね」
感謝。なぜだ。おれはこの少女と会ったことなどない。昨日が初対面だ。
「どうしてだ?」
「なにがですか?」
「なぜ感謝する」
「どうしてでしょうね」
少女はにっこりと笑って理由を話さなかった。
「サクラです」
「……?」
「わたしの名前です。サクラといいます」
「名前……」
桜の下で、桜色の髪の桜色の服を着た、サクラという名前の女の子と出会う、か。
「それは、なにか。自分の名前に合った行動と見た目にしたいとか、そういうのか」
「なんのことですか?」
「君の行動原理」
「君じゃなくてサクラです」
「じゃあ、サクラの行動原理」
「うーん。そうですねー」
考えるそぶり。
「そんな感じです」
なんとも曖昧な答えだった。
「それより、あなたのお名前を教えてください」
「名乗るほどのもんじゃない」
「わたしは名乗りましたよ?」
「……ハルキだ」
「ハルキさんですね。いいお名前です」
「サクラ程じゃないよ」
「そうですか? えへへ~」
おれの適当な言葉なんかで喜ぶな。
「ハルキさんは、なにしてる人ですか?」
「なにもしてない、なにもできていない」
「プーたろうさんですか?」
「フリーター」
「最近はなにしてましたか?」
「……あー。普通に、バイトしたり……」
「なんのバイトをしてるんですか?」
「本屋」
「本、好きなんですか?」
「まあ、それなりに」
「わたし、少ししか本を読めたことがなくて、読んでみたいな、とは思ってたんです。おすすめの本とかありますか?」
「おすすめ……ああ、それなら――」
おれたちは、他愛のないことを話していった。
サクラの質問が最初の方は多かったが、その後は本当に他愛のないことだった。
昨日と違って、ほとんどの時間を話して過ごす。
久しぶりに、多く喋ったような気がした。
――いや。
何をおれは、のうのうと楽しげに話しているんだ。
もう、何もかも終わってしまったというのに。
光が灯り掛けた精神は、それでも腐敗を止めなかった。
次の日。
また桜の巨木立つ場へと、おれは来た。
来る必要なんてないはずなのに、来てしまった。
腰を落としながら木の幹へ背を預ける。
一間開けて、足音。
「またまた来てくれましたね、ハルキさん」
サクラが木の後ろから姿を現した。
おれの右隣に座る。
「今日も、お話ししましょう」
「…………駄目だ」
「駄目なんですか?」
「…………」
「そうですか……」
サクラはあっさりと引き下がり、話しかけてくることはなかった。
けれど。その代わりかは分からないが。
おれの右手に、やわらかさと暖かさを感じた。
手を握られたんだ。
振り払おうという意思は湧かない。
暖かかった。
濁って腐った心に染み渡る熱があったから。
サクラの存在が伝わる。ここにおれ以外の人がいてくれていると分かる。
腐敗を続ける精神に、光は照らされ続けた。
おれは結局、何がしたいのだろう。
あの場所へ行くことに意味はない。
そう考えながら、それでもおれは通い続けた。
握られた手は、おれの心を少しずつ立ち直らせていく。
おれは驚愕と愕然をした。
人はどれだけ絶望しても、人のぬくもりさえあればどうにかなってしまうのかと。
それから、数日経った。
サクラは毎回おれの前に現れては、そばにいた。
この子は、どうしていつもおれの所に来るのか。
何故そばにいてくれるのか。何故会ったばかりの他人の手を握ってくれるのか。
わからなかった。
けれど、その光と暖かさは、何度もそばに在ってくれた。
ある日。
今日もおれは、巨大な桜の木が立つ場所にやって来た。
もう、認めよう。
おれは、サクラと過ごす事に唯一の安らぎを見出している。
たった数日しか過ごしていないのに、おれはそう思えていた。
今日も会えるとは、限らないけれど。
しかし不思議と、逢えない可能性は低いと感じた。むしろ確実に会えるとすら判じられた。
また同じように、桜の木の幹に背を預け座る。
すると。また同じように。
「また来てくれましたね、ハルキさん」
サクラがおれの前に姿を現す。
そうして同じように、右隣に座った。
「これ、この前言った本だ」
以前に貸すと約束した、けれどあの時の精神ではできなかった行動。
今ならできる。
おすすめの本をサクラに渡した。
「わあ。ありがとうございます」
プレゼントを渡された子供のように、サクラは目を輝かせて笑った。
「話、してくれるようになりましたね」
「……ああ、そうだな」
「ありがとうございます」
「なぜそんなことをいう」
「嬉しいことをしてもらったら、感謝しませんと」
サクラは本気でそう思っていそうな笑顔を湛えている。
本気だとして、なんでおれなんかと話せるのが嬉しいんだ。
おれにはこの子がわからない。
わからないのに、安らぎを覚えてしまったんだ。
今さらそんな疑いで、どうこうする気は起きなかった。
「ハルキさん、最近笑っていますか?」
少しの間無言で過ごした後。
サクラはそう言った。
なぜそんなことを訊くのかは分からない。
けれど、あんなことがあって、笑えるはずもなかった。
おれは答えなかった。
すると、サクラは一つ息をついた。
「hんcdmhmgvtjrmrんdcじjklsmdjb」
「なんだ!?」
おれは思わず大声を出していた。
この前までは、考えられなかったほど、元気に声が出た。
「意味不明なことを言ったら面白いかなって思いまして」
「意味わかんなすぎて面白さの前に困惑しかない!」
ツッコミと呼ばれるだろう言葉も自然と出てきた。
「ふむ。これはダメですか……」
サクラは顎に手を当てて考え込む。
「ふむじゃなくて」
おれはサクラの奇行に沿って話をしながら、戸惑うしかない。この子はなにを考えているんだ。
「難しいです。明日までに考えておきますね」
なにを。
それに、明日もおれがここに来ること前提なのか。
けれど、こんなふうに話をするのは、心の底から元気が湧いてくるようで楽しかった。
その日のその後も、他愛ない話を散発的にし、黙って座りながら過ごした。
お互い無言でも、居心地悪い空間ではなかった。
次の日になる。
おれは、また巨大な桜の木が立つ空間へとやって来た。
木の幹に背を預け座る。
そして。
「やっほです、ハルキさん」
サクラが顔を出す。
おれは手だけ上げて応えた。
隣に座ったサクラは、すぐに切り出す。
「昨日、一日考えていました」
「はあ、なにを」
「ハルキさんに笑ってもらう方法をです」
なぜ、そんなことを。
「それで、コントをやったら面白いんじゃないかと結論しました」
「……そうか」
「でも」
「でも?」
「やろうと思ったんですけど、思いつきませんでした……」
「それは」
なんとも。なんとも。
「コントが思いつかなかったということがネタになりませんかね」
「ならない」
「あう~……」
サクラは頭を抱えて唸る。
なんだか色々空回りしてる子だな。
だけど、かわいいな、と思った。
ぽんっ、とサクラの頭に手を乗せる。
「……これじゃ立場が逆ですよ~」
頬を赤らめながらうつむいて大人しくなるサクラ。
「わたしの方が慰め名人なんですからね」
慰め名人ってなんだ。
その日も、他愛ない会話と、穏やかな沈黙で過ぎた。
さらに次の日。
おれは習慣のように桜の木の下へとまた足を運んだ。
巨木の背に身を預けると、いつものようにサクラがおれの前に回ってくる。
「ハルキさん、どうもどうも~」
お笑い芸人が入場するときのような言葉を吐きながら、おれに顔を向けるサクラ。
「…………」
おれは絶句していた。
こいつは何を考えているんだ。アホなのではないか。
サクラは変顔をしていた。
むしろ奇顔だった。
美少女がしてはいけない顔だった。
両眼はあらぬ方を向き、頬の筋肉はぐにゃりと歪み、舌をだらんと出していた。
はっきり言って気持ちが悪い。
サクラは見せつけるように顔を俺に近づけてくる。
「その顔で近寄るな。……ええい! 近寄るな!」
言っても近寄って来たので無理矢理押し戻す。
おれは昨日、この子をかわいいなと思った。
訂正したい気分だ。
どうにか落ち着かせて、いつも通りに隣に座るサクラ。
しょんぼりと肩を落としている。
思いっきりしょんぼりするがいい。
「なんであんなことした」
「面白いかなって」
「面白くないわ!」
「すみません……」
「もうあんなことしないか?」
「しません!」
「ならいい」
「もっと面白いこと考えます!」
「考えなくていいから……」
次の日。
「布団が吹っ飛んだー!」
サクラが出てくるなり叫んだ。
完全にやけくそに見えた。
おれは酷く悲しくなった。
俺が今サクラを見る目は、憐れな人を、かわいそうな人を見る目になってしまっているだろう。
サクラが真顔になっておれの隣に座る。
そして悲しげな顔をした。
「わたしにはギャグの才能がないようです。ごめんなさい諦めます」
「はあ」
「でも、別の方法を考えますから!」
一転、切り替えて気合を入れた表情。
「はあ」
おれは、それしか言えなかった。
次の日。
桜の巨木へと向かいながら、考える。
最近は、サクラと過ごしている間だけは嫌なことを考えないでいられる。
だから毎日足を運んでしまう。
それ以外の時間は、無気力だ。
なぜか最初から好意的で、おれと仲良くしてくれる女の子。
美人局か何かなのではないのかと疑いはした。
今も、疑問が残ってはいる。
……本当にそうじゃないだろうな?
思考が迷った。
けれど、すぐに至る。
いや、それだったらあんな変な行動はしないか。
おれはバッサリと美人局の可能性を切り捨てた。
考える余地すらなかったな。
桜の花びら舞う空間に辿り着いた。
巨木を背に、座る。
「は、ハルキさん……」
サクラがおれの前に姿を現した。
サクラはマイクロビキニを着ていた。
「ぶーーーーーーっっ!!!!」
思わず吹き出す。
ほとんど全裸な姿。
おれは目を疑う。
「痴女か!? 痴女なのか!??」
「ち、痴女じゃないです……!」
「この淫乱ピンクめ!」
「なんですかそれ! とりあえず違います!」
サクラが動くと、所々危ない部分が見えそうになる。
マイクロビキニだけを身に着けているのだから当然だ。
それでいて本人は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにもじもじしている。
足をすり合わせる姿が余計にエロい。
ほとんど白に近い、薄いピンク色のマイクロ水着。
サクラの髪や瞳の色とも合っていて、妙に似合っている。
だがここは海でもプールでも湖でもない。
桜の木の下、水要素が一切ない。
それ以前に布面積が狭すぎる。
痴女だと判断するのは仕方がない。むしろ妥当だろう。
「ハルキさんが、喜んでくれると思ったんです……」
恥ずかしがりながらも、健気というか、いじらしく見える。
「よろこ――」
ばない。
言おうとして、言えなかった。
実際、サクラのその姿は魅力的だったからだ。
正直言って情欲が刺激され過ぎて危ない。
それを抑えるために目のやり場に困る。
もしサクラがおれの恋人で、この姿で現れたら即押し倒していた可能性は否めない。
だから、まったく喜んでいないと言えば嘘になる。
なぜそこまでしてくれるのか。
おれのために、アホなことをしたり空回りしながらも何かしてくれようとしてくれているように見える。
実際、サクラはおれを笑わせようとしている。
『ハルキさん、最近笑っていますか?』
サクラの言葉が思い出された。
でも、なぜサクラがそんなことをするのかは分からない。
「とりあえず、服着たらどうだ」
「で、でも……ハルキさんはこのままの方がいいですよね……?」
そうだな。
と言いそうになる自分を制する。
「誰かに見られたらどうするんだ」
「誰も来ませんよ」
確かに、今までここに誰か来たことはない。
それどころか見かけた事すらない。
おれが見た限りでは、だが。
「なら、いいか」
「そうですよね」
「とはならないからな」
「なんでですか!?」
「いや、普通に目のやり場に困る」
「でもそれって本当は見たいからなるんですよね」
「サクラも恥ずかしいんだろ。なら無理をするな」
サクラの言を無視して続ける。
「無理はしてませんっ」
顔を赤くしながら言われても説得力がない。
「風邪ひくぞ」
「あ、あったかくしてれば大丈夫です」
「だから、そのために服を着るんだろ」
「こうすればいいんですっ。えいっ」
「……っ!」
サクラはいつもの定位置、おれの右隣に座った後、あろうことか抱きついてきた。
マイクロビキニ姿の素肌が密着してくる。
胸は、大きくもなく、小さくもなかった。いや、少し小さめか?
そんなことはどうでもいい。
ほとんど裸の状態でおれに抱き付いてくる、会って数日の少女。
本当に美人局じゃないだろうな。
少し、疑わしくなってきた。
ここまでされて少ししか疑ってない時点で、美人局だとしたら術中に嵌まっていると思うが。
「おい。淫乱ピンク」
「その呼び方やめてください」
穏やかな声音だったが、有無を言わさない気配を感じた。
「本当にいいのか」
「わたしからしてるんだから、いいんです」
サクラはそう言い切った。
けれど、おれは誰かに見られて逮捕、なんてことになりたくない。誰も来ないみたいだが、それも確証がない。
年上の大人として、そういうところはしっかりしておくべきだとも思う。
美人局ではない、この子の意思だとしても。
物事には、順序というものがあるのだから。
「なあ淫ピ」
「略してもだめです」
「まあ、とりあえず、服は着ておきなさい」
「でも――」
「着ておきなさい。おれがそう望む」
今までのサクラの言動から、こう言えば引き下がってくれると思った。
おれに喜んでほしいみたいだからな。
「……はい。しょうがないです。わかりました……」
サクラは渋々といった様子ながら、理解してくれた。
「では、着替えてきますね」
そうして立ち上がり、巨木の裏側の方へと歩いて行った。
「ふぅ……」
一息つく。
人騒がせなやつだ。
でも。
サクラ、確かに、おれ、喜びはしたよ。
いやなことも頭に浮かばず、気が紛れていたのだから。
それと、やわらかかった。
着替えて戻って来たサクラと、ここ数日通りに共に過ごした。
ここ最近の、穏やかな一日だった。
何事もなく、次の日。
「ハルキさん、この桜、どう思いますか」
「淫乱ピンクだと思う」
「わたしじゃないです。この桜です。それにわたしもそんなものではありません」
「綺麗だと思うよ」
「……そうですか」
隣り合って座り、意味のない、けれど落ち着く会話をしていた。
そんな時。
会話の途中で、サクラが意を決したように言った。
「あの、ですね。わたし、この木の桜が散る頃に、会えなくなってしまうんです」
突然の言葉。
おれは最初、何を言われたのか分からなかった。
「え……会えない?」
「はい……桜が散る頃に……」
そんな……。
そんな馬鹿な。
おれにとって、この数日しか共に過ごしていない少女は、時間など関係なく、大切へと成っていた。
楽しかったのだ。サクラと一緒の時間が。
いやなことを、一時でも忘れられるほど。
それなのに、会えなくなる。
みんな、死んでしまったんだ。そのうえサクラまでいなくなったら。
おれは、耐えられない。
「今日で会えなくなる、というわけではないんだよな」
「はい、明日も会えます」
「そう、か……」
その日は放心したまま過ごした。
呆けたまま、サクラのことを考えていた。
サクラはいつも通りにおれの隣で寄り添ってくれていた。
やがて日は落ちていく。
放心したまま別れた。
次の日。
巨大な桜の木が立つ場所へ向かっている時。
気配。
闇。
感じる。
存在、底から。
大いなる昏い気配が、距離を狭めてきている。
今の現実としての、物理的な距離としての接近ではなく、大勢的な接近。
春の足音とか、それに似たものだ。
おれの方も、時間がないな……。
闇の気配を無視して、足を進めた。
おれはずっと考えていた。
これからどうするか。
サクラに対してどう向き合うか。
そして決めた。
時間が無いと解ったのも、それを後押しした。
今日も、桜の巨木へと辿り着く。
木の幹へと背を預け、腰を下ろし、サクラがやって来るのを待つ。
すぐにサクラは出てくる。
「おはようございます、ハルキさん」
木の後ろから回って来て、サクラはおれの前に顔を出す。
いつも通りに右隣に座った。
「サクラ、今日は君の話を聞きたくて来た」
「話、ですか」
おれは、もう会えなくなると思うと、いてもたってもいられなくなった。だから追求することに決めた。
今まで踏み込まなかったところまで踏み込むことにした。
分岐点。
聞く決心は固まっている。
今まで、お互い踏み込まなかった。だからおれたちの関係は、ここで話し合う相手として安定していた。
だが、それはお互いが踏み込まないでいようと思っている間の砂上の楼閣でしかない。 どちらかが本気で訊こうという意思を持ってしまったら、容易く崩壊する。
今は、おれが聞きたいと思ってしまっている。
それは元をたどればサクラのあの言葉が原因だけれど。
とにかくここがおれたちの分岐点だ。
「会えなくなる理由、それと君のこと、全部聞かせてほしい」
沈黙が挟まれる。
桜とサクラの香りが乗った風が、おれの鼻を通って彼方へと吹いていく。
「そちらのじじょーも話してくれるのでしたら話してもいいですよ」
サクラはそう返答してくれた。
「ああ、話すよ。おれも全部」
サクラはおれの言葉を聞き取ると、座っている体勢を整え直す。
「それでは、突拍子もない話を始めましょう」
そして、真実、突拍子もない話が始まる。
「まず、わたしのことなら、わたしの正体からがいいですよね。実は、わたしはですね、この桜の木の精霊なのでしたー」
ふざけてはいないが、冗談めかしたようにサクラは言った。
「嘘、ではないよな」
今まで一緒にいて、サクラのことを知ったつもりのおれの判断で言えば、ここで嘘をつくようなやつとは思えなかった。
――それに、そういう超常は、おれのよく知る世界だ。
「嘘じゃないですよ」
きっぱりと、真面目な顔をしてサクラは断言した。
「ハルキさん、わたしがどこから来ているか見たことないですよね。いつも木の後ろから前に回っていましたから。それにハルキさんが来てからすぐにわたしは顔を出しましたよね。タイミングが良すぎるとかではなくて、ずっとここにいて、待ってるからなんです。ハルキさんが来てから、人の姿で出現していたのです。つまりこの場所での待ち合わせではなくて、ハルキさんがわたしの所へ来ていた、というのが正しいですね」
確かに、サクラが離れたところから歩いてくる光景は見たことがなかった。
「この場所には、わたしを中心にして他の存在を寄せ付けない結界を張ってるんです。疑問に思っていたでしょうけど、だから人が寄り付かなかったんです。あんな姿をしても平気なくらい」
おれとサクラしかいない空間だったのは、そういうことか。
マイクロビキニ姿はそれとは関係なくやり過ぎであり、サクラも平気そうではなかったけれど。
「わたしの目的、なんですが」
サクラは話を次に移した。
「ずっと昔、わたしは、ハルキさんに助けてもらったことがあるんです」
「おれが……」
「そんなときに、辛い顔をしたハルキさんがやって来たんです。わたしは消えゆく前の最後の目的を見つけました。最後の時まで、わたしを助けてくれたハルキさんの力になろうって」
サクラは、おれを心配げに見つめて。
「なにをそんなに苦しんでいたんですか? わたしが聞きたいのは、それだけです」
おれが、助けた?
覚えがない。
この、全身桜色の印象深い少女を助けたとして、それを忘れるだろうか。
「助けたって、いつのことだ?」
「ハルキさんがまだこんなに小さかったときですよ」
サクラが人差指と親指で少しの間を作る。
おれがそんなに小さかったときはない。
「子供の頃か」
「はい、そうです。あの頃のハルキさん、かわいかったですよ」
「おれがそんな子供のときに、誰かを助けられたとは思えないが」
今でさえ、なにもできていないのだから。
「いいえ、ハルキさんは助けてくれました。闇の者の悪意から、ただの桜でしかないと思っていたわたしを護ってくれました」
ただの、桜。
――ああ、そうか。
おれはさっきまで、この、人の姿のサクラを助けたと考えていた、
そうではなく、サクラの本体、巨大な桜の木の方のことか。
それなら。
確かに、覚えはある。
まだおれが、戦う力に目覚めたばかりの頃。
幼い、男の子供であるにも拘らず、かっこいいものよりも興味を惹かれ、綺麗だと心を奪われ眺めていた巨大な桜の木。
その桜に、闇の使者が襲い掛かろうとしたのが見えた。
咄嗟に力を使い、助けた。この桜を失わせたくないと思ったから。
それがおれの、初戦闘だった。
サクラは、あの時のことを言っているんだ。
「わたしの話は、ここまでです」
「会えなくなる理由は?」
「その話はハルキさんのお話を聞いてからにしたいと思います」
「ちゃんと話してくれるんだろうな」
「約束しますよ」
「……そうか」
約束を違えるようなやつじゃないだろう。
なら、サクラの言葉を信じよう。
おれは話す内容を頭の中で整える。
そうして一息。
「おれも、突拍子もない話を始めよう」
話を、始めた。
――嘘のような、本当の話。
おれは、世界を守るために戦っている。
小さな子供の頃、戦う力に目覚めた時から、世界の敵、闇の者達と戦ってきた。
奴らに対抗できる人間は少ない。だから人を、世界を守るためには自分も戦うしかなかった。
子供ながらに、それは理解していた。
だから、おれは自分の人生すら捧げた。友達もあまり作らず、大学にも行かず、就職もせず、フリーターでいることで時間を作った。その作った時間を敵との戦いに、世界を守るための戦いに費やした。
苦しかった。辛い闘いの日々だった。何度も死の危機に瀕した。
けれど、充実してもいた。仲間がいたからだ。おれと同じ、特殊な力に目覚めて肩を並べて戦い続けてくれた仲間。戦いのない日々の時は、友達として過ごした仲間。
でも、その日々は、終わった。
この前の戦いで、仲間が全員殺された。
敵の幹部たちとの激戦だった。おれもあの時死んでいてもおかしくないくらい、地獄のような有様だった。
奴らの親玉、闇の冥王以外をすべて倒すことには成功したが、最大の敵が残った。
そうしておれも、一人になってしまった。
人生の拠り所、心の支えがなくなってしまったんだ。
自殺を考えた。
しかし敵を倒さないと、世界を守らないと、死んでいった仲間の思いが無駄になってしまう。
でも辛い。もう何もしたくない。苦しい。世界を守ったところで、大切な皆がいないのでは意味がない。
憔悴しながら、歩き彷徨っていた。
そんなときだ。
サクラと出会ったのは。
「おれの話は、こんな感じだ」
サクラは瞑目して黙っていた。
やがて目を開き。
おれの手を握ってきた。
「ハルキさん、会えなくなってしまう理由、それでも聞きたいんですか?」
「聞きたい」
即答した。
「もう、何も知らないまま、できないまま失うのは嫌なんだ」
「それが例え、残酷な真実でもですか……?」
「どちらにしろ真実が残酷なら、知らないよりはいい」
「……そう、ですか」
サクラはうつむき、数秒合間を開けてから、顔を上げた。
「なら、話します」
サクラは握る力を少し強めてから、口を開いた。
「実は、その闇の冥王の配下に、わたし、殺されちゃったんです」
――――――――――っ。
「そんな……」
馬鹿な。
「サクラは今、ここにいるじゃないか」
だけど、わかっている。
ここでサクラが嘘をつく理由はない。
ならば真実。事実。
気力が、抜けていく。
仲間を失った時の絶望が、またおれを襲った。
「ハルキさんが助けてくれた時の敵よりも、ずっと強かったです。多分、幹部だったんでしょうね。わたしでは太刀打ちできませんでした」
サクラの言葉が、頭を素通りして抜けていく。
「わたしはそのまま消えゆく存在でした。けれど、こう見えて結構高位な精霊なので、すぐに消えるわけではありませんでした。存在が残留して、残滓だけが残って、少しずつ消えていく途中の時」
サクラは話を続ける。おれが聞きたいと言った望みに応えるままに。
「ハルキさんがこの場所にやって来たんです。だから最後の力を振り絞って、助けてあげたかったんです」
サクラはおれの手を両手で包む。
「わたしの話は、これで終わりです」
終わり。二つの意味で。
話は終わり、サクラももうすぐ終わる。
桜が散る頃に。
「結局おれは、誰も護れなかったのか」
おれはすでに、失っていたんだ。
新しく出会えたと思っていた安息は、すでに失われていた。
「いいえ、わたしを助けてくれました」
「あの時だけだ。その後にも護れなかったら意味がない」
「それでも、あの時わたしを助けてくれたことには変わりありません」
「…………」
サクラは話を変えた。
「でも、残っているのが闇の冥王だけということは、わたしを殺した配下はハルキさんが倒してくれたんですよね。ありがとうございます」
「感謝なんてされる立場じゃない。おれは結局、誰も護れなかったんだ」
「それでも、仇を取ってくれてありがとうございます」
「だが、元凶の闇の冥王は生きている」
「ハルキさんなら勝てますよ」
おれはその言葉に、悪い方に強く感情が揺り動かされた。
「簡単に言わないでくれよ!」
感情が制御できず、声を荒げる。
「おれは、負けたんだ! 負け続けたんだ! 誰も護れなかったのなら、勝っていないのと同じなんだ! おれだけ生きていても、意味がない!」
勢いは、すぐに途切れた。
感情を発散したことで、一気に気が抜ける。
いやな気分だけが、水溜まりのように残った。
「今さら、勝てるわけがない……」
「ハルキさん……」
優しい匂いと、やわらかい感触。
サクラは、おれを抱きしめていた。
暖かく、ぬくもりがここにある。
けれどこのぬくもりは、もうすぐ消える。
桜が散る頃に。
「誰もいない」
「わたしがいます」
「君は死んでしまったんだろう」
「それでも、そばにいる方法はあります」
サクラは右の手を拳に握り込んだ。そして目を瞑り、数十秒が経過した。
「はい、できました」
サクラが目を開き、手を開くと、その上には桜色の輝きを宿した指輪が乗っていた。
「わたしの精霊の力を込めて、留めて、創ってみました。これをハルキさんにプレゼントします」
指輪を渡される。
おれの手に乗ったそれは優しい光を放って、心に寄り添ってくれる安心感が広がり、まるで生きているようだった。
「女の子から指輪をプレゼントするなんて、なんだか変ですね。でもこれで、ハルキさんのそばにいることができます」
サクラはおれを抱きしめたまま、笑ってそう言った。
「でも、こうして触れ合うことも、話すこともできない」
「それがなにか問題ですか? わたしはここにいます。ハルキさんのそばにいます。それは変わりません」
「詭弁だよ」
「それでも、わたしはそばにいます」
一拍置いて、おれが何かを言う前に。
「それに、もしかしたら話せるかもしれませんよ」
そんなことを言った。
それは嘘なのだろう。
おれのための。おれを助けるための。
…………。
でも。
女の子にここまでされて、おれは無様に這い蹲ったままでいいのか。
このまま、終わっていいのか。
最初にこの場所に来た時に考えたように、このままここで果てる。
そんな結末で、そんな人生の終わりで、おれはいいと思えるのか。
どちらにしろ、戦わなかったら世界は破滅する。
なら、戦って負けて終わっても、このまま終わっても、同じだ。
おれは――。
立ち上がるべきだ。
おれはこの終わりを、恐らく許容できない。
たとえ辛くても、どんな理由があっても、ここは頑張るべきだ。
そうでなければ、おれの今までのすべてを、自分で否定することになるだろうから。
せめて、あと一度だけ。
あと一度だけ、頑張るくらいはできるはずだ。
そのあとは頑張る必要はないからと、僅かに残っていた気力を引き絞っていく。
ここ一回だけ、最後だけ頑張ればいい。全力を尽くせばいいだけだ。
サクラのために、仲間のために、自分のために。
「ありがとう、サクラ」
おれは一度強く彼女を抱きしめ返してから、立ち上がる。
そして、桜色の指輪を自分の左手薬指に通した。
「おれ、勝ってくるよ」
背中を押してくれた、サクラのために。
おれを救ってくれた君のために。
「はい。頑張ってください。わたしはいつまでもそばにいますから」
満開の桜を体現した笑顔で、サクラが見送ってくれる。
おれは、最後の戦いへと足を踏み出した。
サクラの優しい視線を背中に感じる。
おれは絶対に勝つ。
その意思を貫き通す。
サクラ、一緒にいてくれ。必ずやり遂げてみせるから。
指輪を撫でると、心は落ち着き、凪いだ。
おれは歩いて行く。先へと。
自然と軽口が飛び出した。
「さて、いっちょ世界を救いに行くか」
たとえ強がりでも、それを為す。
桜の花びらが、目の前の道へと降り注いでいた。
祝福するように、おれの身体へも花びらが掛かっていく。
強く励まされた心は、真っ直ぐに進んだ。
――その後、おれは最後の戦いに勝利し、超常の悪から世界を護ることに成功する。
サクラから貰った指輪は、いつまでもおれのそばで輝き続けた。