ソードラット
自由都市ローメリアの南、大腐の湿地帯を抜けたソードラットは疲れきっていた。
当然だろう。この湿地帯を単身で渡り歩くなど、一般的には自殺行為である。
王都ザイル、自由都市ローメリアを含む複数の国家はホルムンド島と呼ばれる、世界一大きな島にあった。
ホルムンド島は生態系が独自の進化を遂げている最中の、外交の閉ざされた島だ。
外界から切り離され、進化を遂げた人種は様々な特性を持ち、同様に野生の生物も外界では例を見ない獰猛で強健な進化をしている。
中でも過酷な環境から、他の生物の生命を脅かす生物や地質を持つ地域は、死の難所と呼ばれ恐れられていた。
大腐の湿地帯はその28の難所の一つ。
この湿地帯が恐れられる際たる原因は、安全な陸地と沼地の見分けがつかないことだ。
安全と思った足場が突然沈み込み、手足が腐り落ちる。
足を踏み入れるものを腐らせ滅ぼす死の沼地。
南方から最短の距離でローメリアに向かうには大腐の湿地帯を抜けるのが最短なのだが、この不可視の沼地を恐れ、安全な旅路を選ぶのが常識だった。
このソードラットは南方にあるスラムで溝鼠のように暮らすワールドライトで、汚水下水と共に暮らしている。
毒を毒ともせぬ毛並みは研ぎ澄まされた剣のように剛健であったが、いくらソードラットと言えど長く漬かればこの湿地帯で腐り果ててしまう。
全速力で最短距離を駆け抜けたのだろう、体の前面にのみ鎧をつけ、背面を毛髪と体毛で覆った姿は汗と湿気でドロドロになっていた。
彼が向かうのはアンプの町、ハンズの支部である。
ワールドライトである彼が依頼されたのは街道に出没する略奪者の調査と討伐。
街道で起きた事件を知らぬ彼は、身震いをして体の汚れをふるい落とし、目を細めるとハンズ支部を目指すのであった。
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ハンズ支部に到着したソードラットは、一階にある酒場で支部長を待っていた。
ワールドライトとして名を馳せるソードラットは、他の誰より情報収集と依頼の達成に貪欲である。
支部長を待つ間も、周囲の噂話に耳を傾ける。
どうやらアンプの町では街道の話題で持ちきりのようだ。
支部長の到着が告げられる頃には、十分な情報が得られていた。
二階、支部長室。
男が二人向かい合って話している。
「はいはいなるほどなるほど。依頼は取り下げということですね。理由をお聞きしても?」
ソードラットは細い目を更に細めて尋ねる。
「ソードラット様にはご足労頂き、大変感謝しております。ただ依頼の対象であった略奪者の討伐を王都騎士団が開始したとの情報を掴みまして、すぐ依頼取り下げの伝令を送ったのですが行き違いになったようです」
答えるのは、アンプの町の支部長を勤める支部長のマルディ。熊のような風貌の温厚そうな男である。
「いやいや、行き違いになってしまったのはあなたの不手際でしょう。私は南の湿地帯を抜けてまで、急いでやってきたんですがねえ」
「申し訳ありません。さすがに伝令を大腐の湿地帯には出せませんでした。依頼の際お支払いした手付金は全てお渡ししますので、どうかご了承いただけないでしょうか?」
狙い通りなのか、ソードラットはにこやかに笑いながらマルディを見て、言う。
「それでは手付金は頂戴します。そうそう、ところで騎士団は無事討伐を終えたんですか?」
「いえ、それが討伐完了の報告は届いていないのです。第四師団が派遣されたそうですが、派遣されてもう四日経ちます。ワルダー様が派遣された以上、既に解決していてもおかしくないのですが……」
マルディは、正確な情報がないのか語尾を濁して答える。
「はいはい、丸太食いがですか。ところでマルディさん。私の依頼には調査も含まれてましたよねえ。解決していない以上、私が調べに行くだけの価値はあるかと考えますがいかがでしょう? 依頼、取り下げずに続けてみませんか」
「いえそれは…」
マルディは予想外の話の流れに躊躇する。
ソードラット到着の報告を受けてから、守銭奴として有名なソードラットをどうなだめるかを考えていたのだ。
「マルディさんを待ってる間に小耳に挟んだんですがね。どうやら丸太食い、やられたらしいじゃないですか。やられて討伐もくそもないでしょう。王都は門を閉ざしてだんまりらしいですし、だったら私への依頼、断る理由はないんじゃないですかねぇ」
マルディは内心舌打ちをする。どうやら待たせている間に正確に現状を把握されてしまったらしい。
カフル街道が不通になっているのはアンプの町としてもかなりの経済的痛手だ。
アンプで派遣可能なハンドを二度派遣したが、結果は散々なものとなっていた。
そこで大金を用意してワールドライトへの依頼に踏み切ったのだが、どうしてこうもうまく事が進まないのだろう。
マルディはワールドライトへの依頼を正式に行ってすぐ、騎士団から内々に関与をけん制されていた。
外交的に騎士団の印象を悪くしたくはないマルディは、今ソードラットの介入は避けたかったのだ。
痛手ではあるが手付金だけで帰らせるつもりが、隠し事を看破されたマルディには、ソードラットの提案を受け入れる以外の道は残されていなかった。
さて、とソードラットはハンズ支部を出ながら考える。
実は酒場で得た情報には、もう一つ重大なものがあった。
「そもそもマルディのやろう、大事な話を伝えるの忘れてるじゃねえですか」
一人つぶやくソードラットの顔は、痛みに満ちていた。
重大な情報とはハンズの生存者について。ソードラットは、生存者の下へ向かう。