番外編 こんなお雛様になるなんて聞いてない!
本編との時系列には組み込まれていない、パラレルワールドの話だと思ってください。
その日は、いつもと変わらない日のはずだった。
「ただいま」
いつも通り、自分で玄関のドアの鍵を開いて家に入る。真っ暗なはずのリビングからは明かりが少し漏れていて、一瞬泥棒かと思ったけれど、お兄ちゃんの靴があったので、多分お兄ちゃんがリビングにいるのだろう。
お兄ちゃんも部活があるはずなのに、私より先に家にいるなんて珍しいな、と思いながら靴を脱いで、リビングに向かった。
とりあえず帰宅の挨拶をして部屋に行こう。そう思ってリビングの扉を開くと、そこには去年お父さんが買ってくれた七段飾りのお雛様を飾っているお兄ちゃんがいた。
「あ、お帰り唯花」
玄関の鍵を開けている音が聞こえていたらしくて、お兄ちゃんは、特に驚いた様子もなく平然と私に帰宅の挨拶をしていたけれど、私の方は相当驚いていた。
「ど、どうして急にお雛様飾ってるの???」
去年、お父さんが張り切って買ってくれた、というか買って帰ってきたのは良かったものの、飾るのも片づけるのも恐ろしく大変で、先週一人で帰ってきたお母さんと相談した結果、『大変申し訳ないけれどお父さんも仕事が忙しくて帰ってこられないというし、別に飾らなくていいよね』という結論に至って飾っていないお雛様を、どうして、お兄ちゃんが飾っているというのか。
しかも当日に。
「唯花を驚かせようと思って。サプライズ」
お兄ちゃんは大成功とにこにこしながらそう言った。
確かに驚いたし大成功ではありますけれどもね。
「大変だったんじゃないの?というか、言ってくれたら手伝ったのに」
というより止めたのに。別に今更お雛様という柄でもないし、元々そんなに家でお雛様をするという習慣がなかったから、飾っていなかったことを気にしないのに。
でも何かと行事をきっちりしたがるお兄ちゃんとしてはきちんとしたかったんだと思う。それに買ってくれたお父さんの気持ちを汲んでいるのかも知れない。
「主役にこんなことさせられないし、それにサプライズって言ったでしょ?今日の唯花はお姫様なんだから、何も気にしないで着飾るのが姫の努めだよ」
いやお姫様だってもう少し何か考えると思うしすることがあると思うんですけれども。
「夕飯のテーブルセッティングするから、もう少ししたら降りてきてください、お姫様。それともお部屋までお連れいたしましょうか?」
そう言って部屋までエスコートしそうなお兄ちゃんの申し出を丁寧に断って、部屋に戻った。
びびびっくりした。お姫様とか記憶にある中で初めて言われたし、出かけるのではと思うくらいお兄ちゃんがしっかりした格好していたから、余計にどきどきしたのは内緒である。
え、ということは私もしっかりした格好をしないといけないのでは……?うん。そうだよね。お兄ちゃんの格好に釣り合うような服装じゃないといけないよね。逆に適当な部屋着だとめちゃくちゃ浮くよね。
荷物を置いて、オタクローゼットで洋服を掛けている場所から、薄いピンクの、お母さんが買ってくれた綺麗なワンピースを見つけて、それを着ることにした。
薄く化粧をして、下に降りていくと、既にリビングの準備は完成しているように見えた。
「ごめん。遅かったかな?」
そんなに時間が掛かったつもりはなかったのだけれど、お兄ちゃんの予想よりは遅かったのかもしれない。
「大丈夫だよ。それよりも綺麗に着飾って来てくれてありがとう」
そう言って、いつも私が座っている席椅子を引いてくれたのだけれど、もしかして私が姫なら、今日のお兄ちゃんは執事なのだろうか。黒っぽいスーツ着てるし。
「あ、ありがとうございます」
椅子を戻してくれたのでお兄ちゃんの方を向いてそうお礼を言うと、笑顔のお兄ちゃんの顔が思っていたよりも近くて、息が止まった。
毎日顔を合わせているだけあって、多少なりともお兄ちゃんの顔を見慣れてきたとはいえ、不意打ちでしかも近くで顔を見るとやっぱり格好良いなぁとは思う。
神が作り出した最高傑作って感じの人間がこんなところで私のお兄ちゃんをしていていいのだろうか……。最高傑作の無駄遣いの様な気がするなぁと思いながら、キッチンに向かうお兄ちゃんを眺める。
「じゃあまず先付から」
それから出てきたのは、和食のフルコースだった。きっと他に言い方があるんだろうけど、なんていうんだっけ。
それはともかく、菜の花の湯葉巻きの前菜から始まり、梅の形に象ってあるちらしずしと蛤のお吸い物で終わったその夕飯は、いつもと変わらずものすごく美味しくて、さらにデザートは菱餅とひなあられで、それらを残すことなく食べた私は、今までの中で一番ひな祭りを堪能していた。
「ほんっとうに美味しかった。お兄ちゃんありがとう」
お礼に何かしたいけれども、今度のこどもの日に何かしたらよいのだろうか。鯉のぼりでも飾ればいいの……?
そもそもこどもの日に何をしたらいいのかよく知らないから、調べるところから始めないとなぁ。
「今度の端午の節句に何かしようとか思わなくて良いからね。ただ、唯花がそうやって喜んで欲しくてしただけだから。そうやって唯花の嬉しそうな顔を見せてもらえただけで十分」
そ、そんな親みたいな感想を言われてもと思ったけれど、お兄ちゃんがあまりにも優しくそう言うものだから、特に何も言えなかった。
とりあえず柏餅をこどもの日には食べることを知っているので、それは買うのを忘れないようにしようと思う。
そんなひな祭りから一夜明けて、二日経ち、四日を過ぎたあたりで私は自分でお雛様を片づけることを決意した。
ずっと片づけなきゃなぁと思っていたのだけれど、面倒だなぁお兄ちゃんが片づけてくれないかなぁという気持ちがなかったのかと聞かれれば否定できない。
けれどもどうも最近のお兄ちゃんは輪をかけて忙しそうだし、そもそも片づけくらい私がするべきなのだ。
そう思って、私の部活が無い日にせっせと片づけたことにより、リビングはすっかりいつも通りに戻った。
去年片づける方法をきちんと習っていたので、多分綺麗に片づけることが出来たと思う。
また来年もよろしくね、とお雛様に心の中でお願いしてリビングに戻ると、ちょうどお兄ちゃんが帰ってきたところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま。あれ?お雛様片づけちゃったの?」
やっぱりいつもより遅い時間に帰ってきたお兄ちゃんは疲れているみたいで、片づけておいて正解だったなぁと思う。
「うん。片づけておいたよ」
てっきり褒めてもらえると思っていたのに、「そっか、ありがとう」そういうお兄ちゃんの表情はちょっと悲しそうで。
そのことがとても私にはとても不思議だった。
雛人形の片付けが遅いと婚期が遅れるというという言い伝えを知らない唯花と、知ってる上で忙しくしていないと片付けなければならないので無理に忙しくしていた湊のひな祭りの話でした。