誰か、聞き間違いだと言ってください。
「ありがとう。迎えに来てくれて」
兄は驚いたように目を開いてしばらく固まったあと、今までに見たことがないような笑顔で、そう言った。
それは、枯れていた花が咲き誇りそうなくらいの威力を持った笑顔だった。
眩しい。私には眩しすぎる。
「あの、荷物持ちます」
とりあえず家に帰ろう。そうしてこのことは何もなかったようにして生きよう。うん。今日なんてなかった。
「あぁ。うん。そうだね、えっとちょっと袋の重さ調整してくる。ちょっと待ってて」
両手を見比べて兄はそう言った。というか、傘を持たずに外に出てきたけれど、どうやって帰る気だったのだろう。この雨の中走って帰るわけないだろうし、ブルジョアジーな兄はタクシーで帰るつもりだったのだろうか。
「え、あの、大丈夫ですよ、多少重くても」
などと考えていたら、反応が遅れて、そう言った時にはもう既に兄は扉の向こうだった。
そして素早く戻ってくると、
「ごめんね、持ってもらって」
と言いながら、軽そうな方を渡してくれた。
一緒に帰るとなると普通は隣同士で並んで歩くものだと思うが、傘を差して並ぶと約四人分くらいのスペースを取ってしまい、狭い道には向かないので、私たちは一列になることにした。
兄が先に行くのかと思ったら、にこにこと笑うばかりで一向に進む気配がない。
私は後ろから他人に付いていく方が気楽で好きだ。後ろから人が付いてくる感覚は正直に苦手だ。歩き方も気になるし、歩く速さも気になる。
だから「先に歩いてください」の一言が言えればよかったのだが、そう言うのも何だか大人気ない気がして、諦めて先を歩くことにした。
多分兄は、先に歩くと私を置いて行ってしまうかもしれないと思ったに違いない。
などと考えながら、この歩く速さで大丈夫かな、とちらちら後ろを振り返りつつ、なるべく早く家に帰れるように早足で帰った。
「ただいま」
ちょっと濡れちゃったなーと思いながらキッチンに入り、荷物を置いた。兄はテキパキと荷物を片付け始めながら、
「あとは僕がしておくから。今日は迎えに来てくれて本当にありがとう」
と笑顔で言った。普段から割と笑顔の人ではあるけれど、今日の笑顔は一段と輝いている。
「いえ、その、はい」
改まってお礼を言われても、いい返事が思いつかなかった。気にしないでくださいと言うのもなんか違うし、私が今度傘持ってなかったときは迎えに来てくださいというのは気軽すぎと思ったら、なんとも言えない返事になってしまった。
しばらく部屋で勉強していると、ご飯だよ、と兄に呼ばれた。
「うわー!美味しそうですね」
手間がかかっていますという感じのビーフシチューは本当に美味しそうだった。
「いただきます」
というか、美味しかった。食後にコーヒーまででてきたので、テレビのバラエティー番組をぼんやり眺めていると、そっと兄はテレビの音量を下げた。
「ちょっと今話してもいい?」
「あ、はい。大丈夫です」
え、なんの話だろう。昼間のようなことはもう二度とやめてほしい、みたいなことかな。君の隣と並んでるところ見られたくないんだよねーみたいな話なのかな。
「僕はね、ずっと君との距離が遠いままでいいと思っていたんだ」
全然違う話だった。
うん。そうだ。この人の言うとおりだ。今日はうっかり距離が分からずに近いことをしてしまったけれど、本当ならもっと遠くてよかったんだ。
「でも、それは間違いだったって気がついた」
え?
「僕はもっと君の近い距離でいたい」
う、うん?ちょっと現実がよくわからないです。
兄がきらきらと懇願した顔で言っている台詞が全然理解出来ません。
誰か、聞き間違いだと言ってください。