帰還
そのくちびるに、口づけようとして。
わたしはふと、思いとどまった。
わたしの腕の中で、娘は身を固くしている。
それが少し、寂しくもあったけれど。
祖母に昔誓ったように。大切に大切に慈しめば、いつかはこの腕に、安心してその身を預けてくれるようになるのだろう。
「逃しはしない」
呟いたその言葉は、娘に届いたのか、どうなのか。
けれどその時。腕の中にいる、娘の気配がわずかに薄れているような気がした。
世界が、この娘を拒絶しているのだと、遅れて気がつく。
逃すものか。この娘は、わたしのものだ。
はじめて会った娘に、何故ここまで執着するのか。多少の期待は確かにあった。けれどもう自分は、祖母のお伽話に胸をときめかせていた、少年ではないのに。
自分でも、多少不思議に感じるけれど、もう後戻りはできない。
くちづけよりも、もっといい手があると、その時気がついた。
この娘を、姫神としてこの国に繋ぎ止めるために必要なもの。それは王としての力だが。一般的に言って、力を注ぐ方法というのはいろいろある。
触れるだけでも注げることは注げるが。一番いいのは体液の摂取。唾液でも、血液でも、なんでもいい。
深くくちづけるのでもいいが。それよりは。
そっと、その首筋に舌をはわせると、娘はびくりと身をすくませた。
違う世界から来た、異界の娘。
もし、元いた世界に男がいたら、どうしてくれよう?
ふとした思いつきだったのに、黒い感情が容赦なく胸を焼いた。
そうしている間にも、腕の中の娘の気配はどんどん薄くなっていく。
もともと、きたばかりの姫神というのは不安定なものだ。来たり、還ったりを繰り返す。それを、だんだんと力を与え、この世界になじませていくのだ。
だから、少なくとも一度は、あちらに還るとわかってはいた。
いたけれど、なんとはなく。腹立たしい。
苛立たしさのまま、なめらかな娘の首に歯を立てる。
そのまま、ゆっくりと力を注ぐ。
わたしの力が、少しずつ娘の中に降りていく。凝って、たまって。その存在を、確実にこちらの世界のものへと、創り変えて。
力を注ぎ終わる頃に、ふわっと空間が揺らいだ。
娘の体はかき消すように消えて。
重みが消えるとともに、喪失感がこみあげる。けれど、そう遠くない日に、また会えることは確実だ。
あちらとこちらを繋ぐ穴は開いている。
ならば、ふとした拍子にあちらから弾かれて、こちらにおちてくる。
それを、間違いなく抱きとめれば良い。
ぽつり、と。
降りだした銀の雫が頬にあたった。
娘が還った途端に雨が降り出したのだ。
ぽつぽつと、雨は次第に激しさをまして。
けれど、今更、雨を避ける気にもなれず。
レナートたちを引き連れて、わたしはゆっくりとした足取りで、城への帰路をたどった。
あの娘は、次はいつ、こちらにくるのだろう。