逃走
一瞬、わたしは何が起きたのかわからなかった。
走りだした娘の背中を、呆然と見送る。
急に軽くなった腕の中。失せたぬくもり。
「……姫!」
とっさに呼ばわったが、娘が立ち止まる様子は見えない。
なぜ、逃げる。こんなにも、待ちわびていたのに。
逃げてしまえば、大切にすることも出来ない。大切にしなければ、愛することも、愛してもらうことも出来やしない。
「待て、姫!」
立ち止まらないのを承知でもう一度呼びかけて。そばに控えていた、レナートをはじめとする側近たちに身振りで娘を追うように指示を出した。
召喚の地となるハザマの街は、迷路のように入り組んでいる。街とはいえ、今は誰も住んでいない廃墟だ。もし、娘が。わたしの姫が。ハザマの街で迷ってしまったら。そのまま失われてしまったら。
考えるだけで、心が凍る。
側近たちとともに、娘を追い込んでいく。
通りから通りへ。行き止まりの方へ。逃がさないように、慎重に。
ようやっと、袋小路に娘を追い詰めて。
嫌がる娘を無理にでも腕に抱く。なぜ、こんなにも逃げようとするのだ。この右も左も分からない、異界の地で。いったいどうやって、逃げられるというのか。
「わたしから逃げられると思っているのか」
暴れる娘を腕に抱き込んで、少しの苛立ちを込めると頬に手を添え。その夜色の瞳を覗きこむ。
娘はさすがに動きを止めて、怯えたようにこちらをみつめた。
怯えたように、か。
それは怯えもするだろう。
逃げられたことに思わず動揺したけれど、落ち着いて考えれば、娘の怯えは当然のことだ。か弱い女の身で、初対面の見知らぬ男に抱き込まれれば、怯えないはずもない。
自分の動揺がおかしくなって、思わず自嘲的な笑みをこぼした。
「逃げられるわけがないだろう? 右も左も分からないのに」
怯えられて、少し切ない。けれど同時に、少し嬉しい。
この世界で、この娘が頼れるのはわたしだけ。
果たして見知らぬこのわたしに、どれほど頼ってくれるかはわからないけれど。いっそ、そう仕向けてしまえば良い。わたしから、離れられなくなるように。
怯えた娘は、けれど、ふと考えこむような様子を見せた。
逃げる算段でもしているのだろうか? それにしては、わたしの顔をまじまじと見ているような気がするが。
「何を考えている?」
何を考えていても、逃しはしないけれど。
灰色の空。陰気な街。湿った風。けれど、雨は止んで。この娘が姫神としての素質を有することを証明している。
新たな姫神を、この国に。
つなぎとめるために、契約のくちづけを。