氷人 -kooribito-
幾度となく、瞳に焼き付く赤を見てきた。
神がついにボクを助けてくれたと、最初はそれを心の中で笑いながら見下ろしていた。
ある日は、武装の村と呼ばれた村を自らの手で消し去ったとレルフが心で囁いた。ざまぁみろと思った。痛みを知らない武装村など消えてしまえ、と。
…痛みなんてこれっぽっちも感じなかったのに、それなのに。
『哀れなものだ、心を抱かねば、楽にいけたものを。足掻く輩は実に醜い』
あれ、と。違和感を覚えたのは、きっとそのとき。
このレルフは、真の神であるのか、と。
人を救うのが、皆が望む神の姿ではなかったのだろうか。無実な人の抹消に働く無慈悲な神などいるものか。レルフの微かな笑い声を耳にしながら、ボクはそう考えた。そのもやもやした感情を深い深い心の端に抱いて。
…そして、決定的な証をレルフが暴露したのも暫くしてからだった。
ある騎士の街で、またレルフは暴走した。王女の側近の騎士を根絶やしにした後、その王女も共に消し去ったのだと。またあの声が囁いていった。何事もないような、いつもの声音で。
ボクはレルフと同じ体に宿る意識だから、レルフがボクの考えや行動を読むように、ボクからレルフの考えや様子を見ることだって可能だ。
もちろん、レルフが見ているものを、心の深い場所で、意識の欠片としてボクも眺めていることになる。
その騎士の街でも、視ていた。
…騎士の青年が。
王女の騎士を救おうと、地べたから高く強く伸びる氷柱に、突っ込んだときは。
(……!)
思わず息を呑んだ。
青年の行動にも驚きはあったものの、それより驚愕を伝えたのは紛れもない、レルフがボクの声で語った言葉だった。
『私は精霊だ。神は、精霊の力が人の過信により膨大な力を得たものだ』
愕然と、した。
神って、レルフは神だと、言っていた筈だ…
過信により作られた、精霊だと。神と精霊も紙一重だともレルフは、言った。
その事実に暫し茫然としていれば、爆発音と共に地面が捲れ、また柱が切っ先を天に向けて伸びた。
『…騎士風情が』
あの青年が、王女を慕っていたのは見て取れた。それは"愛"という、到底ボクにはわからないモノだったけれど、ボクでも頭が回ることに"神"が気づかない筈もなく。
淡い恋心を抱いた騎士は自らの主である王女、そしてその愛しき相手に何かを小さく呟くと、冷たく、動かなくなった。
怒りに煮えたぎった瞳の女王が剣を抜いた。シャアッと鋼が擦れる音が響いて、彼女はボクに、レルフに許せと言った。
『私は、足掻いてみせる』
『神に逆らうか…蛮族が』
違う。嘘をつかないでレルフ。ボク。
あんたは、神じゃないって。
違うって。
言ったじゃないか…!!
語らないで、いや、語るな。
違うのに『神』と、語るな!!!
…泥沼に思い切り何かを打ちつけるような、崩れ落ちるような。
鈍い鈍い、嫌な音が反響した。
…………………
………
「…レルフ」
今は心の深くで眠るレルフの意識に囁く。低い、低い声で。
『何だ、片割れ』
レルフの片割れ。スノウという存在はもういない。
「あんたは本当に神なのか…?」
思わず声が震えて、拳をぎゅっと握り締めた。
『偽善的な人間に裁きを下す、人の手により作られた神だ』
冷たい声に心臓を掴まれたようだった。
裁き?
沸々と何かが沸いてくる。
「嘘だ」
『…何』
レルフが人ならば今、眉をぴくりと動かしているであろう、低い声。
「死が裁きなのか…ボクは違うと思う。神は絶対的な冠を掲げて、人を自ら生み出した神がそんな血みどろの世界を築くはずがない!」
『お前の勝手な思い込みではなかろうか、片割れ』
当然の報いだろう、そう囁くレルフは悪魔のようでぞくりとした。
『片割れ、お前も味わったであろう。人がどの位愚かで醜い生き物か。あの手は全てを手中に収めようと、破壊するのだぞ』
わかってる。ボクは捨てられて、生贄と称され殺されかけた身だ。それくらい。
「だとしたら…」
目から怒りが雫になって一筋、流れる。胸が疼いて止まらない。
「ボクもあんたもあんたが嫌う人間も皆…偽善者だ」
何かを破壊すれば"悪"。それは払わねばならぬもの。
だとしたら。
「何かを壊して、それに背を向けている。…レルフ、あんたもボクも、おそらくはこの人間の全てがそう」
偽善的な偽善者。"悪"い人。
それを生むのも人。
それを壊すのも人。
さらに生む人、壊す人、さらに壊す人を壊す人……そんな螺旋階段の輪廻のように、果てなく歪んだ心。
「ボクはもういい。もう嫌なんだ! レルフには感謝も嫌悪も感じるよ!! けれど、"偽善的なボク"のせいで起きたんだから、全部、ボクが悪いんだっ!!!」
『…………』
黙り込むレルフ。
「…レルフの地位だって、人間からもらったんだろう!? だとしたら、レルフも人間を…!」
『………所詮』
低く冷たい声。でも、もう身じろいだりしない。
『…私も人間から生み出された、人間の心を抱く幻想生物、ということか…』
「レル…、ッ?」
『もういい、私はどうやら存在を否定されなければ気づかぬ"愚かな精霊"らしい』
解き放たれるがよい、片割れ。二度と会うことはないだろう。
そう聞こえた一瞬。涙に濡れた視界が徐々に闇に溶けていった。
『否…スノウ…』
意識を手放した刹那、
懐かしいあの名を、久しぶりに耳にしたような気がする。
"鎖はこうして、断たれた"
ありがとうございました。