氷神 -koorigami-
涙も凍てつく山脈サルフィ。年がら年中吹雪が駆け抜ける極寒の地。それは氷の神レルフに祝福を受けた地方と言われ、その伝統を保つべく、サルフィの麓に小さな村クルフが生まれた。
「はぁ……っ」
吐息は白く染まる。睫は多少凍りつき、深い青の瞳は白い雪を見つめ、しかし片目は布で隠されている。不気味なスノウ、不気味なスノウとよく騒がれていた。
(レルフが怒ってる)
スノウは氷の神の名を心で呼び、進み続ける。吹雪は目の前を遮断し、体温と体力を奪い続ける。スノウは以前、クルフの村人だった。だが、
(クルフ、悪魔の村)
苦い果実、優しかった友達、顔も見ぬまま亡くなった親、その全て。
(凍りつく寒空のなかで、滅びてしまえ)
何故なら。
「私を捨てた悪魔の村め…!」
意味もなく呟いた。それは憎悪と悪意に満ちたものだった。冷たい、深い海の底のような色の片目が、煮えたぎったようにそれらへの憎しみを語っていた。
(あんな村…!)
時は少し遡る。
極寒の白い村クルフは、その寒さのなかで生きるが故に『氷の一族』と呼ばれ、密かにレルフの祝福を受けながらも、その吹雪の中では作物がろくに育たない。ついには飢饉に見回れた。
(ボクは…)
元々、呪いの色のアイスブルー…目は正常に動いているものの、『死』を表す色の片目で生まれた村の娘だった。その片目には不思議なことに魔力が凝縮され、片目のバンダナを解くことで魔力を放出し、魔法のひとつ『モノを凍らせること』ができたのだった。
しかしそれ故にスノウは嫌われ、ついには民の危険を考えて、ひとつの結論を命じられた。
『飢饉は、神レルフのお怒りによって。神に生贄を捧げよ…スノウ、お主が村の贄となるのだ』
絶望以外の何があったのだろうか。スノウは愕然とした。それしかなかった。
『な…長! 何ゆえ、ボクを贄に…っ、生贄には罪人が捧げられると、長が…っ』
信頼の中の抵抗だった。長が言った。だから、今のは真面目な冗談だ。そうだと考えたかった。
しかし、それは簡潔な回答だった。
『それは、お主の瞳が導いた宿命なのだ。魔は神の糧となるのだ』
それは、すなわち。
スノウはさっと血の気が引くのを感じて、身震いした。心からの恐怖だった。
このアイスブルーの、何物でも凍てつく呪いの片目の所為で、ボクは。
捧げると称し、排除され、氷の呪い子と言われ、山々の寒さで葬られるのか。
絶叫。悲鳴。刹那、叫んだ。
全ては裏切られた。全ては偽りになった。
そしてスノウの視界に映る全ては絶望に沈み。闇の中、思考が固まったように何も考えられなかった。
何故、の一言さえ。
かすれて、言葉にならなかった。
(レルフ、神、なんて)
食いしばった。食いしばって、呪いの眼を背負い、今まで生きてきた。どんな言葉も噂も無に変えて、どんな時も苦にならなかった。それだけ満たされていた。
でも。もういい、疲れた。…神頼みさえ、できなかった。
(神なんて、いなければ、ボクは)
生きられた。
『う…ぁ…』
闇。
影。
神。
その全て。
それらが重なった。
ぴたりと、自分を縛り付けた鎖に、変わる。
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!』
感情の波が、絶叫に変わって。
耐えられない、とスノウは感じた。自分の心はもうどれだけ疲れ、亀裂が入っているのだろう。
どれだけ。
どれだけボクは。
…気づくと鉄格子越しの闇だった。鮮明に残っている言葉は唯一。
『呪い眼の娘を捕らえよ、逃げぬようにな』
長の、今までにないくらいの冷ややかな声だった。しかしスノウは身じろぎさえしなかった。
気力も、削り取られていた。
その目は闇の底を映し出し、絶望一色しか、否、それさえも映していないようだった。
(ああ)
ジャラジャラ鳴る鎖。寒い風。縛られた両手足。明かりさえない。
(ボクは)
耐えきった、ハズでしょう?
(何故)
唯一回る思考の中。
片目は、力を帯びていた。
(殺されなければならない?)
生まれた理由さえ。
存在理由さえ。
…否定され。
「…………てやる」
半ば消えかけた声で、囁くような声で。
「ボクが呪い子なら、この村も! この人間も! みんな…みんな!!!」
叫び、誓った、
瞬間。
片目を隠していた布が、溢れた力によって弾かれた。凄まじい力が体内を蹂躙するのをスノウ自身も感じた。そして同時に。
憎しみが、スノウの思考を貫いた。
『うああああああああああああああああああああああああ!!!!!』
制御できない、スノウは叫びながらも、そう思った。獣じみた絶叫は、次の瞬間、感情を塗りつぶした。
―――ビキビキッ!!
ドン、と爆発音がした。床が浮いた。アイスブルーが映し出したのは、目の前にそびえる巨大で歪な氷柱だった。
しかし、止まらない。絶叫も止まず。すると、次々に、床から、壁からと鋭い氷柱が地面から生えるように、瞬時に突き出た。鉄格子など、ただの粘土細工のようだった。
『な、何事!』
現れた顔も知らない見張り兵士が荒ぶる声を上げたが、脳は既にスノウ自身の意志によるものではなくなっていた。走るのは勝手に動いている感覚。
ゆっくり、
それは亡霊のように。
目を見開きながら。
兵士を、見た。
『ひいっ』
後ずさりする相手。
(消えてしまえ)
お前も、協力者、だろう。
腕が震えた。
次の、一瞬。
ドオンッ!!!
男は、氷柱に突き上げられた。鮮血だけが地に残り、その身は氷柱に突き抜かれて。
(壊す、消して、滅する)
その為ならば。
村を、全てを消し去ってやる。
村は、氷柱に埋め尽くされた。それをスノウの意識が見たのは、全て終わった時だった。
ああ、思い出しても辛い。スノウは思う。
村から逃げるように去ったあの夜。血が雪を紅にして溶かし、白い息を吐いているのは自分だけだと思った。
怖くて、逃げ出した。
そして今。
力無く笑って、
「…『裁きを』…」
唇が紡いだのもまた、意識を占拠したものの断片。
「『不滅の蛮族』、ボクから…『我から』」
否。
違う。
「『どう足掻こうが、無力で愚かな人間共よ。消えてしまえ、塵の如く、亡くなれ』」
スノウの意識は沈んでいたが、その中でもはっとした。
(まさか)
冷ややかな、勘が。
廻る。
(この片目は)
雪のようなアイスブルー。
(レルフ、の)
神話の、神の、色。
(レルフの片目)
瞬時。刹那。
『スノウ』の意識は完全に消滅した。
「…この子供に、魔力を宿して正解だったか」
スノウ、否、レルフ。
「裁きを、山脈の蛮族共。全ての天罰が終わった時」
布で、アイスブルーを隠して、言った。
「…そのときまで、身体を貸して貰えるか」
まもなくして。
山脈に住み、暮らしていた族が次々に滅びていったのは、言うまでもなかった…。
"かくして少女は神に捧ぐ"
壊れた神話のモノガタリ、三部作。
ちなみにスノウはボクっ子です。