第三話 守護霊の夜
今回はシリアスです。とても重い話です。
こういうのが苦手な方はご注意ください
「レイさん、まだ怒ってるの?」
夜半過ぎ、すでに寝る準備を整えたタクトは部屋の端で膨れているレイに声をかけた。彼女は部屋に入ってからずっと、このようにムスッとした態度でいる。タクトと目を合わせようともしないその様子から、彼女はひどく怒っているようであった。だが、タクトにはその原因がいまいちピンとこないようで、なんとなくのんきな顔をしている。レイはそんなタクトの顔を見ると、声を張り上げて返事をした。
「当たり前だ。女のいる前でハーレム造りたいなんていう馬鹿がどこにいる。デリカシーがなさすぎだ」
「うーん、そうかなあ?」
「そうだ! 私に身体があったらビンタを喰らわせていたところだぞ」
「……ううっ、ごめんなさい」
「まったく……私の主として少しは女心を理解してほしいものだ。まあいい、今日のところはこれぐらいにしておこう。明日からはいよいよ、大迷宮の探索だからな」
タクトは少々眠たそうな顔をして「はーい」と返事をすると、早速ベッドにもぐりこんだ。彼は薄い掛け布団に器用にくるまると、すぐに寝息を立て始める。レイはそんな彼の穏やかな寝顔を見ると、ほっとあきれたように息をついた。そのまま彼女はやわらかな表情になると、そっと囁くようにつぶやく。月影に照らされた彼女の顔は白く憂いを帯びていて、その目はかすかに潤んでいた。
「ふう、我ながら嫉妬深いものだ……。私とタクトの関係は守護霊とその主というだけなのにな……」
蒼い空の中に聳えるように立つ異形のヒトガタ。背中から輝く六枚の翅を空へと広げるその姿は、さながら神話に描かれる天使のようだ。されどその眼は血を吸ったような紅に染まっていて、薄く秀麗な唇には飢えた野獣のように獰猛な笑みが浮かんでいる。
そのヒトガタを、レイはどこかから眺めていた。絶対の壁に阻まれているような、近くてもどこか遠いような感覚。彼女はそんな不思議な感覚にとらわれながらも、この異形の姿をしっかりと観察した。レイの目に、異形のぬっぺりとした白い外皮が色鮮やかに飛び込む。その臭いまで伝わってきそうなほどのなまめかしい質感に、レイは思わず顔をしかめた。
(ずいぶんと不気味なやつだな。気味が悪い……)
レイが心の中で愚痴ると、鮮明な視界の中でヒトガタが空へと手をかざした。たちまち空が二つに割れたようになり、はるかな上空より淡い光が降り注ぐ。それはさながら、天よりの祝福を思わせるような神々しい光であった。だが、その光景に反して地上に起きたのは破滅。湖の水面に石でも放り込んだかのように景色が歪み、空が白となる。煉獄の炎を直接浴びせかけられたかのような熱風が、空を吹き飛ばすような勢いで吹き荒れた。
(ふおっ! ぬわあああ!!)
レイの視界が吹き飛ばされたように疾走を始める。そうしてしばらくの間走り続けた末に、現れたのは見慣れない都市。ガラスと灰色の硬そうな石から成り立つ摩天楼が、森のように並んでいる。その間を絶え間なく歩く人々の様子はいかにも満ち足りていて、平和そのものであった。
されど、灼熱の地獄はこの都市にも襲いかかった。白い閃光とともに轟音が轟き、人や建物が吹き飛ばされていく。整然としていた都市は破壊と混沌にとらわれぐしゃぐしゃとなり、その間を人が木の葉のように飛んでいく。その小さいながらも嫌にはっきりと見える顔には、いずれも茫然としていて突然の出来事への疑問が浮かんでいた。
その中で、一人の少年の顔がやたら色鮮やかに見えた。見慣れない服を着た、見慣れない顔をした少年の姿。されど、そんな彼の姿はレイには妙にタクトと重なって見えた。ゆえに彼女はとっさに声を上げようとするが、まったく声が出ない。まるで、水の中にいるかのような感覚だった。
(クソっ! なぜ声が出ないのだ! タクト、タクトォ!!)
再び視線が走る。彼女の視線は歪んだ極彩色の前衛芸術のような世界を抜けると、今度は灰色の世界にいた。海や山、空までもがすべての色を失ってしまっている。生気というものの一切が欠けた、本能的に拒絶感を覚えるような場所だ。
(……タクトの次は灰色の場所か。悪趣味なことだ……。うぬ?)
色のない世界に、ただ一人たたずむ女がいた。何者かははっきりとはわからないが、彼女は色を失ってはいない。レイの意識は自然とそちらのほうへと吸い寄せられていった。たちまちちっぽけに見えていた女の姿がどんどんと大きくなり、その容姿がはっきりと見えるようになってくる。するとレイの心が一瞬のうちに蒼白となった。
(あれは、私なのか……?)
鎧はボロボロになり、頬はこけ、髪はちりぢりになっているが女は間違いなくレイであった。光を失っているようになってもなお存在感を放つ紅い瞳が、確かにそうであることを証明している。レイの意識は驚愕の色に染め上げられ、視線は凍りついたように女の顔だけを映し出す。すると、視線の先の女はうつむけにしていた顔を上げた。そこに映し出されているのは凄惨な微笑み。何もかも出し尽くしてしまった、抜け殻のように空虚な微笑みであった。
「ははは……。私はもう、なにも守れない。何もできやしないのだ……」
女の細い枯れ枝のような手が、腰から短剣を引き抜いた。黒ずんで見える鋼が、ぬらりと粘着な輝きを見せる。その嫌みな光は這うような速度で女の喉元へと向かっていった……。
(やめろ! やめてくれェ!!)
レイはただひたすらに声を張り上げる。本能的な恐怖の駆り立てるまま、獣のごとき勢いで叫び狂う。されど、その叫びは声なきがゆえに届かない。その間にも死神の鎌のごとき刃は女の喉元へ着々と近づき、そして--
(いやアアアアアァ!!!!)
「はあ、はあ……。またあの夢か……」
醜悪な夢の世界から帰還したレイは、荒い息をしながらあたりを見回した。彼女の視界に、ここ数週間の間滞在し続けている安宿の風景が広がる。すでにその薄っぺらな窓の外では東の空がほんのりと白み始めていて、夜が明けようとしていた。彼女は相当に長い間、悪夢を見ていたようであった。
レイは昨夜と同じ夢をもう何度も見ていた。霊はヒトとは違うためにわずかな時間しか睡眠を必要とはしないが、その短い間に何度もあの夢を見たのだ。とても、普通のこととはレイには思えなかった。
――もしかしたら、あれは過去の記憶のカケラかもしれない――。レイは心のどこかでそう思っていた。そうであるがゆえにレイの心の中で、最近急速にある思いが強まっている。本来はほんのささやかなものにしか過ぎないはずのある思いが――。
「たとえタクトが私のことを嫌いになっても、私は二度とお前を離さないんだからな……」
レイのそよ風のごときささやかなつぶやき。すやすやと気持ちよさそうに眠る少年に告げられたその言葉は、彼女以外の誰にも聞きとられることなく宙へ解けていったのであった。