第二話 迷宮都市
日が傾き、風が冷たくなってきた黄昏時。ギルドの端に用意されている応接用のスペースは物音ひとつ聞こえない静寂に包まれていた。あまり利用されることのないこの空間は、いつでも静かだ。だが突然、その静かなはずの空間の端にある一つのテーブルから、甲高い少女の声が響いてきた。
「どうしてこんなに無茶したんですか! あれほど無茶したらダメだって言ったじゃないですか!!」
「だって……」
「だってじゃありません! 迷宮の中じゃ何が起こってもおかしくないんですよ! もし死んじゃったら元も子もないんです!」
ミリアは顔を怒りで紅くしながら、勢いよくタクトの探索者カードを指差した。そこには「レベル21」と刻み込まれている。彼女がこうまで怒っている原因はこれだった。
普通、初心者探索者はレベルを一つ上げるのに五日ほどかける。早い者でもせいぜい三日に一つ上げれば上々だ。それをタクトはひと月で二十一まで上げていた。二日に一つ、もしくは一日に一つのペースで上げたとしか思えないまさに常軌を逸した記録だ。それはミリアからしてみれば、自分の命のことを省みていないとしか思えない。
――探索者にとって一番大事なのは何より生きて帰ってくること。財宝を得ることでも強い敵を倒すことでもない――。ミリアは事あるごとに、探索者たちにこういう趣旨のことを言ってきた。彼女が仕事を初めて何年かたつが、迷宮から帰ってこなくなってしまった知り合いはすでに数知れない。それを考えて、彼女はしつこいほどにこう言い続けてきたのだ。
しかし、そうやって注意してきたはずのタクトとその守護霊であるレイがこの様子だ。ミリアは自分の言ったことを無視されたような気がして、沸騰するような怒りを覚える。たまらず彼女は唇をかみしめると、勢いよくこれまでにたまっていた不満や意見を解放した。
「だいたいですね、タクト君は迷宮を甘く見てますよ! 危険と隣り合わせにいることを常に自覚してください! それに生存報告ももっと頻繁にしてくれないと! 二回目の生存報告が初心者迷宮クリアと報告も兼ねてるってどういうことなんですか! それにレイさんも……」
「……」
「……」
煌々と暗闇の中に星のごとく光る魔力灯。その冷たい白光に、鉄とレンガが絡まり合い螺旋を描いたような摩天楼の群れが浮かび上がっている。その数はざっと目に入るだけでも数え切れないほど。だが、一見無秩序に建っている見えるそれらはちょうど、最も高い建物を中心として円錐状に立ち並んでいて、闇夜に光る一つの山のようだった。
その山のような建物たちの隙間に張り巡らされた通りは、すさまじいまでの賑わいであった。景気よく街へと繰り出そうとする探索者たちや、夜になっても仕事から解放されない会社員、はたまた道楽好きな金持ちたちの乗り回す奇妙な魔法機械まで実に様々な人や物が通りを走り抜けていく。彼らは魔力灯によってもたらされる昼のような明るさの中、今日もまた騒々しくも快適な都市生活を営んでいた。
迷宮都市はもともと迷宮目当ての冒険者だけが集まる荒れた街であった。だが、近年になって急速に開発が進み、世界有数の巨大都市となりつつあった。十年ほど前に、迷宮から産出される魔結晶から従来とは比べものにならないほど莫大な魔力を抽出する技術が開発され、それを背景として迷宮都市全体に魔力をいきわたらせるようなインフラが整備された。その結果、今までは魔力供給の問題からほとんど利用されなかった魔法機械を多用した工場やオフィスが次々と迷宮都市に建設され、今のような状態に至っている。
その迷宮都市の中心部からやや外れた裏通りを、タクトとレイは歩いていた。カツカツとまばらな足音が、あまり整備の行き届いていないレンガ敷きの通りに響き渡る。通りの脇の建物から洩れる光に照らされた二人の顔にはやや陰があり、疲れの色が浮かんでいた。二人は今に至るまで、ミリアから数時間にもわたる説教を喰らっていたのだ。
そんな二人の前に、夜だというのに騒々しい声のしてくる小さな建物が見えてきた。紅い三角屋根でレンガ造りの、この街にあるにしてはややクラシカルなデザインのその建物は「ヒナ鳥の巣」と書かれた看板を掲げていた。二人はその看板の真下にある古びた木の扉を開けると、ギシリという音とともに中へと吸い込まれていく。
建物の中は酒場のようになっていた。広いスペースにテーブルがいくつも並べられ、ヒナ鳥こと初心者探索者たちが酒を酌み交わしている。さらに、扉から入ってすぐのところにはカウンターがありそこで中年の酒場のマスターらしき男がジョッキを拭いていた。彼はタクトたちの姿を目にするや否や、くわえていた煙草を灰皿に押し付けて振り向く。
「よう、タクトにレイ。今日は遅かったじゃねえか。その顔だと迷宮はクリアできなかったみたいだな」
「いや、クリアはできたんだよ。ただ、ちょっと……受付の人に怒られちゃって」
「怒られた? 一体なにをやらかしたんだ?」
「その……だな……」
顔をうつむけたレイとタクトは、やや小さな声で話を始めた。二人が交代しながら続けていくその話を、マスターはふむふむと要所要所で相槌を打ちながら聞く。そして二人の話が最後まで終わったところで、マスターは男らしく豪快に笑った。
「なんだ、そんなことだったのか。なーに、気にすることはねえよ。無茶して怒られるのは若いやつの特権だからな」
「……ああ。そ、そうだね!」
「うむ、その意気だぞ。そうでなければお前さんの夢は実現できやしないんだからな!」
「夢?」
「最初に来た時に良い顔して言ってたじゃねえか。まさか、もう忘れちまったのか?」
「ああ、あれのことか。忘れたわけなんてないじゃないか!」
タクトはニコッと笑ってうなずいた。マスターはそれに対して、グッドと親指を上げながら応える。すると、タクトの後ろに浮かんでいたレイが、彼の肩をトントンとつついた。
「なあ、私はお前の夢について聞いたことがないのだが……。一体どんな夢なんだ?」
「ふふ、それはね……。探索者として成功してハーレムを造ることだよ」
レイは何か聞いてはいけないことが聞こえたような気がした。されど、耳が拒否したのかよくは聞こえなかった。なので、少々怖くはあるがもうタクトに一度確かめてみる。
「……すまん、もう一度言ってくれ」
「だから、探索者として成功して、ハーレムを造ることだよ!」
時が固まった。レイの顔が彫刻であるかのようにぴたりと固まる。やがて彼女の顔には赤みがさしていき、その薄い頬が膨らみ始める。その額には霊らしからぬ血管が浮かび、異様なまでの威圧感を醸し出した。タクトは何かいけないことを言ったのかと考えを巡らせ始めたが、もう遅い。
「……は、ハーレムだと……。この愚か者めェ!!」
レイの渾身の叫びが、騒々しい夜の酒場へと轟いたのだった。