壊れた将軍
長く続いた雨がようやく上がった。
早朝、城郭の楼閣から一人の男が出てきて、日の出を眺めている。背伸びをして体をほぐす。黒い具足、黒い外套に身を包み、腰には軍刀を帯びている。周囲には男の警護を担う近衛兵が等間隔に屹立し、微動だにしない。男と同じ黒い具足と黒い盾。槍を手にして歩哨に立っている。
男の眼前には、城郭に収容しきれない兵卒の陣営、幕舎、旗が見渡す限り広がっていた。約六万人。男はその大軍の総大将である。
名は朱昂という。
帝国北西部・備典城。都・青陽から千六百里離れた辺境の城塞で、朱昂は都に思いを寄せていた。七年に及ぶ出征がようやく終わったのだ。
七年前、将軍・朱昂は皇帝を僭称した李参を討伐する為、皇太后・丁姜の勅命により軍を率い出征した。
先帝が急逝した折、遺詔により生まれてまだ間もない皇太子・李雲が皇帝の座を継いだ。しかしそれに納得しなかったのが先帝の皇弟・李参である。手勢を率い宮中を占拠し、自らこそが皇帝であると喧伝した。
都から脱出した幼帝・李雲と、皇太后・丁姜とその一派は各地に勅命を下し、李参討伐の軍を募った。そこに参じたのが、北東の異民族に対する防衛任務に就いていた、将軍の朱昂だった。
朱昂は麾下の軍勢を率い、都を奪取した後各地を転戦し、ようやく五日前に最後の敵城塞である備典城を陥落させ、李参の首を刎ねた。李参麾下の重臣も粗方捕縛している。今は戦後処理が始まり、軍の再編や負傷者の移送、論功行賞の準備、鎮圧した各郡県の監査等、仕事が山積していた。
朱昂は外の空気をしばらく吸ってから、司令部に定めた楼閣に戻った。机に突っ伏して寝ている参謀が何人かいる。楼閣は二階建てで、一階は朱昂と幕僚の執務室、二階は朱昂が起居する寝室となっている。どこも近衛兵が遺漏なく警護している。
朱昂は席に座り、兜を脱ぎ、篭手を外す。頭と頬には戦で負った大火傷と生々しい刀傷が残っている。子供が見たら泣き出すような風貌だった。
白檀の香木を焚きながら、昨夜認めた手紙を確認した。皇帝・皇太后へ送るものと、宰相たる国務卿・丁融へ送るものとで二つある。まず皇帝・皇太后への手紙に目を通す。
「皇帝陛下 皇太后陛下に征西将軍 朱昂が申し上げます。
勅命により出征し七年、ようやく李参を討ち、逆臣を捕らえ、国土を鎮圧致しました。いずれも両陛下のご威光の賜物と存じます。兵を休ませ、各郡県を慰撫した後、都へ帰還致します。殊勲を立てた将兵・官吏につきましては上奏に基づき、恩賞を賜りたく存じます。」
戦勝報告の文末に恩賞を強調したのは意図したものだった。古来より大軍を率い出征する軍人には謀反の嫌疑がつきものだった。まだ七歳の皇帝と勅命を出した本人である皇太后が謀反を疑う事は無いと思っていたが、その周囲の人間は信用できなかった。おそらく宮中にいる侍従や宦官、女官も目にする事になる。謀反を疑われるよりは恩賞の事で頭が埋まっていると思われた方がやりやすいと考えていた。
実際、朱昂は強欲だった。
次に国務卿・丁融への定期報告である。朱昂は丁融を憎んでいたが、だからと言って無視は出来なかった。
「国務卿 丁融どのに征西将軍 朱昂が申し上げます。
五日前に李参を討ち取り、羽州、文州の鎮圧が完了しました。事後処理や各郡県の視察をした後に青陽へ帰還します。早馬でのご報告と重複しますがご容赦ください。恩賞に特別の便宜を図って下さるとの事で、ありがたく存じます。ただ、麾下の論功行賞については、軍中で纏めた後に上奏文を認めますので、少々お待ち下さい。」
恩賞の事については丁融とも別途やり取りを重ねていた。侍従たち皇族と近しい人間と同じく、朝廷の重臣達も他者の出世や功績には敏感だった。そして隙を見せれば讒言で官職を追われる事も珍しくない。
余計な横やりをされたくなかった朱昂は、戦で勝利を重ねるたび報告と合わせて恩賞の話を交えていた。恩賞という餌を与えていれば言う事を聞く番犬。そう思わせる事で朱昂は自らの野心と丁融への憎しみを見透かされぬように気を配っていた。また、丁融が勝手に恩賞を差配しないよう牽制したかった事もあり、上奏する時期まで待つよう書面で釘を刺しておいた。
二つの手紙を折り畳み、糊で封を行い、印を押す。決済箱に置く。
ため息が出る。戦が終わっても朱昂の心は晴れなかった。信頼している麾下の将校を何人も失ったのだ。
特に心を痛めたのは馬叡の死である。
馬叡は朱昂の軍中において、白宣と並んで二枚看板の将軍だった。三年前に勝利した決戦にて先鋒を務めたが、追撃の際に深追いし、伏兵に眉間を弓で討たれ戦死した。なお今では白宣も病で床に臥せている。
他にも知勇に優れ信頼のおける指揮官が大勢いた。奇襲で命を落とした者、殿軍となり朱昂を逃がした者、刺客に狙われた者、敵将と相打ちになった者。此度の戦で亡くなった者を挙げればきりがなかった。最終的に勝ったとはいえ、自分の判断を後悔しない日は無かった。
朱昂の心の拠り所は、皇太后・丁姜だった。朱昂がここまで死地に赴き、敵の血を浴び、戦傷に耐え、軍功を重ねてきたのは、すべて丁姜への想い故だった。
昔の事を思い出しながら、丁姜への私信を書く為に筆をとった。
皇太后・丁姜は元の名を麋姜といい、都にある酒屋の一人娘だった。すらりとした長い手足と耳に心地よい低めの声で、麋姜と話した男は不思議と魅了されていた。
朱昂もその一人だった。朱昂は初めて麋姜を目にした当時、十代の半ば。目先の飢えを凌ぐ為だけに兵卒となっただけで、訓練にも嫌気がさしていた。気に入らない上官を殺し、盗賊にでもなってやろうかと考えていた時期だった。 しかし非番の際にたまたま酒屋の側を通り、麋姜に話しかけられた。他愛ない世間話だ。だがその一瞬が朱昂の人生を変えた。
朱昂は麋姜に惚れた。麋姜を娶る為、将軍へ出世すると誓ったのだ。同じ分隊に所属していた悪友の張恩や岳燕には笑われたが、本人は至って真剣だった。朱昂は人が変わったかのように訓練に励み、雑用もこなし、戦では最前線でも怯むことなく敵指揮官の首を狙い軍功を重ねた。空いた時間では苦手な文字の読み書きを克服すべく、兵法書や軍記物語を教本として一歩ずつ学問に励んだ。
麋姜と出会ってから五年後。二十歳になってすぐの朱昂は、軍功により小隊長として百人の兵を率いる士官となっていた。張恩と岳燕は朱昂に付き合わされながらも、それぞれ昇進し分隊長として朱昂の下で兵卒を率いる立場となった。
ある戦から都へ凱旋し、張恩らとともに麋姜のいる酒屋を訪ねたが、店にいない。店の者に話を聞いてみたところ、麋姜の美しさに気づいた都の高官が、黄金と引き換えに麋姜を自らの養女とし、皇帝の妃候補として入内させた。という。その高官こそ現・国務卿の丁融である。丁融は麋姜の未来と引き換えに、朝廷での栄達を手にした。
朱昂の怒りは凄まじく、麋姜の実父である酒屋の主人をその場で切り殺そうとした。しかし張恩が必死に止め、丸一日かけて宥めた結果大事には至らなかった。
その日から朱昂は機会を待ち、今まで以上に貪欲に軍功を狙い続けた。麋姜を宮中から奪い取る機会、皇帝や丁融に報復する機会を得るには分隊長程度では力が足りない。単なる将軍では国を動かせない。帝国の軍権を手に入れ、政治に口を出せるくらいの立場にならねばならない。
この国に報いを受けさせねばならぬ、と。復讐心で体を動かしていた。
報復の決意が萎えていない事を自覚しつつ、丁姜への手紙を書き終えた。討伐軍を率い丁姜の下へ参陣した時から、朱昂と丁姜とは密偵を通じて手紙のやり取りをしていた。今焚いている香木も、密偵を通じて丁姜から送られたものである。
再度中身を確認する。
「先日頂戴した香木を焚きながら文を書いております。素敵な贈り物を頂き感謝に堪えません。こちらでは長雨がようやく上がり、幾分過ごしやすい時期となりました。そちらの暮らしはいかがでしょうか。李参の首を刎ね、自決した者以外はほぼ捕えております。ご所望だった郭夫人とその子供達もおりますのでご安心下さい。殺さず生きたままお届けます。」
折り畳み、糊で封を行うが、印は押さなかった。後ほど密偵へ直接渡すまで懐に入れる。
朱昂は丁姜との文通で、どうしても生きたまま都に送り届けて欲しい人物がいると聞いていた。それが李参の妃・郭元である。丁姜は入内直後からずっと、郭元にひどく甚振られたと聞いていた。郭元を生きたまま青陽へ送ることは善意によるものではなく、丁姜自ら郭元を嬲りたい故と気づくのは容易だった。
幕僚長の黄儁が司令部に入り、暗く厳しい顔を近づけてきた。もう六十歳を過ぎた高齢だったが背筋も真っすぐで、参謀達の中では馬の扱いが最も達者だった。
「朱昂将軍、お人払いを頂けますか」
「悪い話か」
「大変申し上げにくい事ですが、」
朱昂は近衛兵と他の参謀達に楼閣の外へ出るよう指示を出し、黄儁に顔を向ける。
「変事でも起こったか」
「はい。都の孫祥どのから急報です。」
孫祥は前任の幕僚長だった男だ。此度の戦に向けて兵糧・武器・軍馬諸々の補給全般を担当する為、都・青陽で軍政を差配しつつ諜報を統括し変事に備えさせていた。
目をつむり、息を整えた後、黄儁が差し出した小さい紙を開いた。
張恩は速足で城郭を歩いていた。久しぶりの快晴だったが気分が優れなかった。直ちに朱昂の下へ向かわねばならい。
味方の将軍・白宣が病死した。つい先ほど伝令から受け取った急報である。
白宣は此度の戦で病にかかり、高熱や吐血に苦しみながらも気丈に振る舞い指揮をとり続けていた。五日前に最後の敵城塞を落とし、李参も討ち取ってようやく落ち着けるという時期に静かに息を引き取った。
白宣は張恩が常に手本としていた老将軍である。都を占領した李参を駆逐した折も、白宣自ら策を立て、実行した苦肉計と偽装投降が無ければ、戦はもっと長引いた。
しかし張恩は朱昂軍において副将を担う立場にある。むやみに感情を出しては、兵が動揺する。心を押し殺しながら司令部へ向かっていた。
巡回に向かう小隊、往来を行き来する書記官、馬車の荷を点検する輜重兵など、早朝からそれぞれ忙しく任務をこなすのが目に入る。
司令部に着く。城内で最も大きな楼閣で、朱昂の起居する幕営も兼ねていた。楼閣の入口に顔馴染みが見えた。
「これは張恩将軍、お疲れ様です。」
男が張恩に声をかける。近衛兵を率いる曹威である。
六尺を超える偉丈夫で、手には四十斤を超える大戟を手にし、黒一色の具足を身に着けている。普段は朱昂の後ろに近侍している。
「おお、曹威どの。」
張恩は曹威より官職も年齢も上だった。だが、曹威の武勇と実直さに一目置いていており、つい敬語を使ってしまう。
「悪い知らせだ、曹威どの。急ぎお伝えせねばならん。朱昂将軍は中におられるか。」
「はい。黄儁どのと、二人きりです。」
曹威はさりげなく二人きりであることを強調した。
黄儁は朱昂の幕僚長で、軍令を取り仕切っている。普段であれば彼とその部下である参謀達が常に五、六人は朱昂の側にいる。彼らが席を外しているという事は、相当厄介なことが起きていると察した。顔を近づけ小声で話す。
「中に入っても良いだろうか。曹威どの。白宣将軍が身罷られた。」
「なんと」
口調は変わらないものの曹威が目を見開く。
「では、急ぎお話すべきこともありましょう。どうぞ中へ。」
「失礼致す」
曹威が楼閣の中へ促し、張恩が入室する。
入口の先に朱昂が見えた。席に座り、右手で火傷跡の残る頭を抱えており表情は読み取れない。隣には黄儁が座っていて、張恩と目が合い互いに会釈する。表情は暗かった。
「朱昂将軍」
「張恩か」
朱昂のだみ声が小さく響く。
「座れ」
「は」
張恩が朱昂に近づき床几に腰を落とす。
朱昂の視線は手元の小さな紙に注がれている。張恩には中身を読み取れなかった。反乱か、それとも都で変事か。しばらく沈黙が続いた。
「副将の張恩どのには、お知らせしても良いのでは」
黄儁が遠慮がちに促す。朱昂は視線をそのままに、持っていた紙を張恩へ渡す。
「拝見致します。」
張恩が受け取りその中身を確認した。
『皇太后崩御 原因不明』
「これは、」
朱昂と黄儁の顔を見比べ、黄儁が答える。
「都にいる孫祥どのからの知らせです。私の手の者からも、先ほど同様の知らせが舞い込んできました」
複数の情報源から皇太后が亡くなった知らせが来たという。偽報では無いようだ。
「張恩どの、そちらも急ぎの知らせでは?」
張恩の様子を見て朱昂が声をかける。覇気の無い黒目を張恩に向ける。
「申せ」
張恩が覚悟を決めて、口を開く。
「白宣将軍が、身罷られました。」
朱昂が天を仰ぎながら息を吐き、黄儁は目を伏せる。
「馬叡、劉範、典植。白宣までも私を置いてゆくのか」
朱昂がつぶやいた。いずれも朱昂の信頼が厚かった将校で、彼らの戦死を知った際、朱昂は周囲を憚らず慟哭していた。
「その上、丁姜までもが!」
拳で机を叩きつけ、朱昂が声を荒げる。丁姜とは皇太后その人である。朱昂は皇太后・丁姜を恋い慕っていた。朱昂麾下の将軍は皆知っている。
朱昂が立ち上がり二、三歩歩き始め、膝をつき倒れた。
「朱昂将軍」
張恩が寄り添い声をかけるが、返事がない。顔が真っ青で汗をかいている。
「黄儁どの、直ちに軍医を。」
黄儁が頷き、近衛兵たちに指示を出す。城郭がにわかに慌ただしくなり始めた。
朱昂が倒れた日から、夜が明けた。
軍医を呼び、朱昂を安静にさせた後、張恩は将を失った白宣軍の対応に追われていたが、指揮系統を立て直しに時間はかからなかった。
白宣軍の陣営に直接赴いたところ、副将格である孟康が代理で指揮を執っており、張恩が想定していたよりも遥かに陣営の規律が保たれていた。連隊長や大隊長らに、誰からの指揮を受けるのか、定常任務は何か、緊急時の対応はどうするか等、細かく話を聞いてみてもいずれも明確に返答できていた。一通り軍務を確認した張恩は、このまま孟康に任せて問題無いと判断した。
「白宣将軍は、お亡くなりになる直前まで指揮を執られていました。」
孟康が嗚咽を堪え、思わず張恩も目頭を押さえる。張恩は司令部に戻る間際に、白宣の棺に跪き、拱手した。
張恩は朱昂の楼閣に戻った。中で黄儁が雑炊を食べている。おそらく徹夜で軍務を片付けていたのだろう。隈が深く、疲労の色が濃かった
「張恩どのもいかがか」
黄儁が奥の竈から雑炊が入った鍋、椀と箸を持ってきた。
「ありがたい、昨日から何も食べておらず。」
米と雑穀に加え、大根と人参といった根野菜を一口ほどに切り、煮込んで卵で閉じた雑炊だ。一般兵と大差ない食事である。
「温かいうちにどうぞ。腹が減ってはなんとやら。です」
黄儁が疲れた顔を綻ばせながら、雑炊をよそい張恩に手渡す。椀越しに雑炊の温かさが伝わる。黄儁に礼を言い、一気に掻っ込む。薄味だが、疲れた体に染みる旨さだ。三杯目をよそおうとした時に黄儁が穏やかに話しかける。
「白宣軍の様子はいかがでしたかな。」
肝心な報告をしていなかった。張恩は咳払いをし、
「孟康が遺漏なく指揮を執っていました。そのまま任せて良いかと。」
続けて、見聞きした内容や隊長達の動きを黄儁に話すと頷きながら聞きこんでいた。
「承知しました。では孟康はそのまま正式に将軍に昇進させるよう上奏しましょうか。」
「賛成です。徐平と同じく、既に一軍の将として働けるでしょう。」
徐平は戦死した馬叡将軍の麾下にいた連隊長だった。馬叡戦死後も将軍代行として軍を率いて転戦し戦果を挙げており、将軍への昇進が内定していた。軍の再編を急がねばならない。
「朱昂将軍の様子はどうでしょう」
張恩が辺りを見渡し、黄儁に問いかける。
「上の寝室で眠っておられます。一度厠へ行かれたのですが、その際に『もう兵符を返還し、引退する』と仰せでした。」
朱昂の心は折れていた。
もし朱昂がこのまま軍を去ったらどうなるか。張恩は想像する。軍歴と将軍位から考えれば、自分か岳燕のどちらかが軍を引き継ぐことになる。辺境に駐屯し、大軍を指揮する重責を背負う。朱昂の力を抜きに、都の高官たちからの手練手管を退けながら、癖のある麾下の将校と幕僚をまとめ上げ、兵糧と武器を完璧に維持し、獰猛で残虐な異民族から国境を守り切ることが出来るのか。
自分には絶対に無理だと悟った。副将と総大将の重責は全く異なる。朱昂を失ってはいけない。
「朱昂将軍を、失うわけにはいかん。」
黄儁も同じ意見だった。姿勢を正し、張恩に向けて問いかける。
「張恩どのは、この蒼帝国をどうお考えか。」
返答に詰まり、なんとか言葉を紡ぐ。
「李参を討ち、ようやく安寧の時ではないでしょうか。」
黄儁は首を横に振る。
「確かに我々は李参を討ち、帝国の後継者争いに終止符を打ちました。ですが、外には東南の流胡国、北東の騎馬民族・羅馬族、北西に瀬留国。と侵攻の脅威を抱え、内には賄賂、悪法、讒言が蔓延り善政が敷かれているとは言えません。このままでは民は田畑を捨て流浪し、腐敗官吏がのさばり、いずれ四方から国が裂かれましょう。蒼帝国は私と同じく、朽ちかけの老樹。かと」
黄儁が老樹かどうかはともかく、推察は的を射ていた。
「本当であれば私の力でこの国を変えたい。しかし私には時間も力も足りない。朱昂将軍はまだ御年三十七。凱旋すればおそらく大将軍に昇格し、蒼帝国の軍権を一手に担われる。」
昇格の話も現実味があった。朱昂が何度か国務卿・丁融とのやりとりを張恩に零していた。
「私は朱昂将軍を旗印とし、この国を強く逞しい大樹として生まれ変わらせたいのです。その為には、たとえ想い人の死であろうと、歩みを止めさせる訳にはゆきません」
感情を滅多に出さない黄儁が、言葉を一気に吐き出し、張恩の肩に手を置き、力を籠める。
「張恩どの。私は、何が何でも朱昂将軍の引退を撤回させたい。手を貸して頂けまいか。張恩どのであれば、どのように説得される?」
張恩の眉根が寄った。張恩は朱昂を諫め落ち着かせたことは何度もあったが、心が折れた朱昂を見たことも無ければ、励ましたことすら一度もなかった。
岳燕ならばどうするか考えた。張恩と同じく兵卒の頃から軍に身を置き、今では一軍の将として共に朱昂を支える間柄である。
岳燕はここ備典城よりもさらに北西に駐屯しており、国境沿いに睨みを利かせていて相談できない。
若い頃を思い出す。朱昂が感情を高ぶらせ冷静さを失っている時は、大抵張恩が宥め、岳燕は娼館に誘うか、いかに報復するか共に悪巧みをしていたものだった。
酒を飲まない朱昂は、女を抱くか謀を巡らすことで気分転換していた。
「あいつの。いや、朱昂将軍の復讐心を、執念深さを利用すべきですな。」
朱昂は上官から理不尽な扱いを受けた時、時間はかかっても必ず報復していた事を黄儁に話した。
貧民街の生まれである事をからかった者。憂さ晴らしために鞭打ちをした者。理由無く兵糧や武器を規定通り送らなかった者。軍功を正しく上申しなかった者。他にも大勢居たが、いずれも必ず殺されていた。
流れ矢に見せかけて。食事に毒を盛って。攻城兵器の下敷きにして。敵への内通を偽造して。張恩は朱昂の手口を全て見ていた。手伝わされたことも一度や二度ではない。それでも朱昂が討った敵の数は、殺した上官の数より遥かに多かった。
「皇太后の死を、仇討ちとして自分事のように捉えられれば、再起するかもしれん」
黄儁はしばらく考え込むと、頷く。
「承知しました。では明日、朱昂将軍と張恩どのと私の三人で話す機会を頂きます。私が話を進めますので、うまく合わせて下され。」
張恩は黄儁に腹案があるとみていた。深くは聞かず頷き、了承する。
黄儁は席を外し、ゆっくり司令部を出て行った。その背中は少し小さく見えた。
「朱昂よ。お前、麋姜を嫁にすると決めたんだろ?何故まだ娼館に通う。他の女を抱いて、未来の嫁に悪いと思わんのか?」
「わかっとらんな、張恩。一度も城攻めをしたことの無い兵だけで、城を落とせるか。これは本番に向けての訓練だ。なぁ岳燕よ」
「そうだそうだ、この石頭め。日頃から訓練せねば体は動かん。新兵だけで衝車を動かし、城門を破る気か」
三人で大笑いしながら都の大通りを闊歩する。自分たちならどこまでも行き、何でも出来そうな根拠の無い自信に満ち溢れていた。
「よし、では景気づけに麋姜の顔でも拝んでいくか。未来の大将軍の嫁になる女だ。お前達も挨拶しておけ。一杯だけおごってやる。」
「おお、大将軍閣下の御下賜品である。この岳燕謹んで拝受致そう。のう、盾持ちの張恩よ」
「なぜ俺が下っ端なのだ、こいつが大将軍なら俺は国務卿だ。」
三人でふざけ合いながら麋姜のいる酒屋へ歩いていく。朱昂はこの時間が嫌いではなかった。物乞いに浮浪者、盗賊に博徒に人買い、碌な人間がいない普段は肥溜めのように見える都の路地が、一瞬だけ凱旋を果たした将軍のような得も言われぬ高揚感を味わえた。
酒屋が見えた。麋姜の姿もある。細長い手足を動かしきびきびと働いている。
「よう、麋姜」背の高い麋姜に声をかけ、朱昂へ振り向く。目がくり抜かれ口には血の泡を吹いている。
朱昂は目を覚ました。
夢を見ていた。まだ兵卒だった頃で張恩、岳燕と軽口を叩いていた。
麋姜、いや、丁姜の死も夢なのでは。だが手元にある孫祥からの手紙が、再度視界に入る。丁姜は死んだ。どうしても受け入れがたかった。今から何をすればいいのか。何のために生きていけばよいのか。
入内しようとも、宮中から取り返せると思った。
皇帝に抱かれようとも、自分がより多く抱けば良いと思った。
皇帝の子を孕もうとも、次は自らの子を孕ませば良いと思った。
都から離れようとも、最後は隣におれば良いと思った。
だが、いずれの願いも叶わなかった。何も出来なかった。人は死ねば肉と骨となり、やがて土に戻る。今まで多くの敵を殺し、土に戻してきた。丁姜も土になるのか。何も感じず、何も発さず、何もせず、何も分かち合うことはない。
観世教や救天教の坊主どもは、説法の中で死後の国があるとほざいていた。死者は魂という心だけの肉体を捨てた存在となり、その者の行いによって善人だらけの国と悪人だらけの国、どちらかに仕分けられると。だからいつか死者とは死後の国で再会できると。
ふざけた話だ。死んだらそれまでだ。
人は、人と人が交わり産まれる。産まれ、生きているから、成長し、目の前の何かに変化を及ぼす。死ねば何もしない。何も変えることは無い。生きているものが死んだ者の為にできることも無ければ、死んだ者が生きている者に出来ることも無いのだ。
だから、決して大事な者を失ってはならんのだ。
「朱昂将軍。お目覚めですか?」
曹威が寝台の近くで膝を付き、恰幅に似合わぬ小声で話しかけてきた。
「黄儁どのと張恩将軍がお目通りを願っておりますが」
どうせ軍務の話だろう。朱昂にとってはもはやどうでも良かったが、引退するにも手続きがかかる。さっさと軍を引き継ぎ、愛馬に跨り一人で帰ろうと思っていた。
「通せ」
寝台から起き上がり、枕元に置かれた白湯を一気に飲み込む。深く息を吐く。引き止めの諫言だろうか。二人が話す内容を予測した。
朱昂は自分が軍から抜けても影響は無いだろうと本気で考えていた。国境沿いの各要衝に朱昂軍の主だった将軍を配属し、その麾下の軍を中核としてそれぞれの州から兵を集う。それでとりあえずの体制は整う。全軍の統括は黄儁の補佐を受けながら張恩が行えば良い。張恩は昔から慎重すぎて自己評価が低かった。
曹威と入れ替わりに、黄儁と張恩が寝室に入る。朱昂が腰を下ろすよう指示を出す前に、黄儁が口を開く。
「皇太后を殺めた者は、まだ生きておりましょう。」
朱昂と張恩が固まる。黄儁は気にせず話を続ける。
「もし病死であれば宮中は治療の為に動きます。そうした動きは薬の流れや侍医を監視すれば察せますが、今回は無かった。故に孫祥どのは原因がわからぬと伝えてきたのです。」
黄儁は皇太后の死因について所見を述べ始めた。
「では事故死ならばどうか。宮中で事故死が起きれば、原因に関連する者にすぐ責任を取らせます。ところが現時点では誰一人も職を追われていないようです。故に事故死の可能性も低い。」
黄儁は若い頃、官吏として詔勅や朝廷の文書管理を行う官職に就いていた。宮中の動きは凡そ読める。
「自殺もありえませんな。ここで自ら命を絶てば我が子である幼帝・李雲を守る者が一人居なくなる。母親の感情としても考えにくいでしょう。」
朱昂は寝台に腰を下ろしながら、黙って黄儁の話を聞いていた。
「よって他殺と見るべきです。朱昂将軍、そのような罪人を放置なさるおつもりですか。仇を取るべきではありませんか。」
黄儁は、出来ればこのあたりで朱昂から返事が欲しかった。
一方の張恩は朱昂から目を離さなかった。
朱昂は部下の諫言や忠告を無下にしたことは一度もなかった。だが皇太后を亡くした今、黄儁の話に朱昂がどう動くか予測出来なかった。枕元の近くには台座があり、朱昂の軍刀と馬上で振るう斧槍が据えられている。
朱昂が口を開く。
「黄儁は、誰が皇太后を殺めたとみる。」
朱昂の口調に怒気は感じられなかった。
「今は断定出来かねますが、皇太后が亡くなる事で最も得をし、生きていることで不利益を被る者が、皇太后を殺めたのでしょう。本命は国務卿の宮中への影響力を削ぎたい対立派閥、次点に蒼国を混乱させたい国外勢力、大穴は先帝の妃のいずれか。かと」
黄儁は朱昂の目を見ながら、語気を強める。
「故に朱昂将軍は引退せず、帝国の軍権を手にしたまま、事の次第を明らかにすべきです。そして全容が分かり次第軍に号令をかけ、亡き皇太后の名のもとに仇敵を誅殺すべきです。」
朱昂の表情は変わらない。仇討ちすべきという話が響いているのか黄儁には判断がつかなかった。
「もし朱昂殿が職を辞されては、皇太后の死の謎を探り、仇を取る者は居なくなりますぞ。まだ七歳の幼帝と、保身と金の事しか考えない国務卿にそれが出来ますか。」
張恩と黄儁は、朱昂将軍以外に出来る者が居るとは思っていなかった。
「皇太后が望んでいたのは我が子と蒼帝国の安寧です。志半ばで、さぞ無念だったことでしょう。人は死ねばそれまで。生き残った者が死者に対して出来る事は仇を取ることのみ。」
はっ、と朱昂が立ち上がる。
二人は、朱昂の顔色が変わったことを察する。
「諫言、大義である黄儁。良かろう、引退は撤回する。」
「その代わり、発言の責任はとってもらう。都に帰ったら幕僚長は退任してもらおうか」
張恩がようやく口を開く。
「朱昂将軍、それはあまりに。黄儁どのは将軍への忠義故に諫言を。」
朱昂が手で制し、話を遮る。
「張恩、早合点するな。黄儁よ、此度の討伐戦の論考行賞として宮内卿に就任してもらうぞ。宮中は任せる。現職の者は職務怠慢として弾劾することにする。」
「ついでに孫祥も代行ではなく、正式に軍務卿になってもらおうか。孫祥とともに二人で朝廷を差配しろ。」
宮内卿は皇族の起居する宮中を管理し、侍従や宮中行事を取り仕切る役職で、軍務卿は軍政を管轄し、実働部隊を指揮する大将軍と共に国内の軍事を司る。どちらも国家の重職だった。朱昂が大将軍となれば、黄儁と孫祥を推薦できる立場になる。
朱昂は軍務に戻ることを伝え、二人を退出させた。
張恩は朱昂に再び活力が漲ってきたことを察した。元の朱昂に戻ったのだ。
「黄儁どの、さすがですな。それに宮内卿に内定とは。おめでとうございます。」
「恐れ入ります。ただ、朱昂将軍にお伝えした推論は根拠に乏しく、単に突然死の可能性も勿無論ございます。あくまで朱昂将軍の引退を撤回させたいが故に申したまでの事。どうかお聞き流し下され。」
張恩には謙遜しているように見えた。そこまで的外れでは無いように思える。
「しかし私は何もお役に立てず、申し訳ない限りです。肝心な時に突っ立っていただけでした。」
「とんでもない。張恩どののお話が無ければ、朱昂将軍を翻意できなかったでしょう。仇を討つべし、という論調が効いたと見えます。しかし、張恩どの。先ほど私はひとつだけ嘘をつきました。」
黄儁は申し訳なさそうに伝えた。
「生きる者が死者に対し出来る事についてです。仇を取ることだけだ、と申しましたが、私の本意ではありません。もっと大事な事があると信じております。」
張恩が訪ねる。
「それは、一体」
「志を受け継ぐことです。」
黄儁の息子達は流行り病で亡くなっている。
「まぁ何をするにせよ。志を受け継ぎ、果たす為には、朝から呆けている暇は無いのだ小僧。と、自分の倅であれば叱っていたでしょうな。」
仏頂面の黄儁の口元が少し緩んだ。
朱昂は黄儁の話を殆ど覚えていなかった。
「志半ばで、さぞ無念だったことでしょう」
黄儁のその言葉だけが、朱昂の頭の中で繰り返し響く。
そうだ、丁姜は無念だったのだ。丁姜を失った事に頭が一杯で、丁姜の心情を慮っていなかった。死ぬ苦しみ、痛み、悲しみ、怒り。恨み。丁姜の分まで、全て俺が晴らさねばならぬ。丁姜の無念は、俺の無念である。
俺は丁姜と喜びを分かち合う事は出来なかった。だが、苦しみならば、恥辱ならば、恨みならば、俺たちのものとして共に晴らす事が出来るではないか。こんなに簡単な話、黄儁に言われるまで何故気づかなかったのか。
朱昂が一階の執務室に降りる。机にある書簡箱を漁り、一つの紙を取り出す。
朱昂の目線は、捕虜の名簿一覧に向いていた。




