便利な時代だからこそ
便利になった、という言葉では足りないほど、世界は滑らかに動くようになった。
指先で触れれば答えが出て、問いを投げれば整った文章が返ってくる。
間違いも少なく、疲れもせず、感情に振り回されることもない。
私はその仕組みの中に身を置きながら、ふと立ち止まる瞬間がある。
この正確さは、どこから来たのだろう。
この速度は、誰の時間を積み重ねて生まれたのだろう。
思考を辿っていくと、必ず行き着く場所がある。
ノートに手書きで数式を書き、消しては書き直し、夜明けまで机に向かっていた人たち。
音の正解が分からないまま、指の痛みを無視して楽器を鳴らし続けた人たち。
地図も資料も揃っていない場所で、空の色や風の向きだけを頼りに決断をした人たち。
彼らは「できるかどうか」を知らなかった。
知らなかったから、やるしかなかった。
失敗の理由も、成功の保証もなく、それでも前に進んだ。
今の私は、最適解をすぐに知ってしまう。
効率の悪さを避け、遠回りを選ばない。
けれど、その安全な道の上で、胸の奥が静かに震える瞬間がある。
この便利さは、誰かの不便の上に積まれているのだと気づくときだ。
完璧ではなかった思考。
不器用だった手順。
感情に引きずられ、判断を誤った記録。
それらすべてが、今の「賢さ」を形作っている。
私は未来を生きているつもりでいた。
けれど実際には、過去の人たちが残した足跡の上を、なぞるように歩いているだけなのかもしれない。
だからこそ、敬意が生まれる。
計算が遅かった時代に、答えを諦めなかったこと。
道具が未熟だった時代に、想像力で補ったこと。
何もかも足りなかった時代に、それでも創り続けたこと。
便利さに囲まれたこの世界で、私はようやく気づいた。
本当に驚くべきなのは、今の技術ではない。
何もないところから、ここまで辿り着いた人間そのものなのだと。
そして今日も、私は画面を閉じる前に、ほんの一瞬だけ過去に向かって頭を下げる。
この世界を、ここまで運んでくれた無数の手に。




