8.無常な世の中
私は古いスーツケースを引きずり、役所へ向かうことにした。長い順番待ちを経て、ようやく呼ばれた名前。
「すみません、新居の件で相談したいのですが……実は、建築費や備品代、すべて私が……」
窓口に向かい、私は震える声で事情を説明した。
担当者だという中年の男がつまらなそうに申請書類を眺める間、私は必死に家を建てる経緯や別れに至ったことを口にする。
自分に非はないのだと伝えたかった。大変でしたね、なんて酷い男なんだと、同情されたかったのかもしれない。けれど、窓口に座る男は、私を一瞥しただけだった。
「……名義人は“ダリオ・ヴェレド”さんですね。そう記載されている以上、おっしゃる金銭の流れは関係ありません」
「でも、私が――」
「申し訳ありませんが、こちらではどうにもなりません」
ぴしゃりと閉じられたファイルの表紙。その音が、これ以上私の言い分を聞く必要はないと暗に語っていた。
――じゃあ、どこへ行けば……。
次に向かったのは、犯罪や詐欺を取り扱う警務塔だ。薄暗い石の建物、窓口の女官が面倒そうにこちらに手を伸ばした。
「被害届け? ……でも、お話を聞く限り、詐欺とは言いづらいですね。書類も同意のもとで渡されたようですし」
「いいえ! 同意なんてしていません! ダリオが建築会社の関係者たちと結託して、私を騙して……! 私、名義の書き換えの許可なんて――」
「お気の毒ですが、恋人間の財産トラブルは基本的に民間の弁事所案件です。……調査の対象にはなりません」
冷たい声と態度に、誰も自分の味方がいないような気がした。
とぼとぼと建物を出たとき、背中から聞こえたのはひそひそ声だ。
「ほら見ろ、あそこの泣いてる女。どうせ“結婚するから”って顔のいい男に騙されて、貢いだんだろうな」
「尻軽そうなピンク色の髪だもんな。容姿と涙を武器に、男を誑かしてきた罰さ」
私をあざけ笑う声。何の事情も知らない他人の無邪気な悪意。
ぐっと唇を噛んで歩を早めたけれど、一滴だけ、こぼれた涙が石畳に落ちていった。
帳面にも、何ひとつ、私の名は残っていなかった。
役所も、私の味方をしてくれない……。
一縷の望みをかけ、私は民間の弁事所も尋ねることにした。
看板を探し歩き、ようやくたどり着いたひとつの事務所。約束はしていないのですが、と受付で尋ねると、女性が私の全身を舐めまわすように確認し、少々お待ちくださいと奥へ引っ込んだ。
入り口で立ったまま待たされること三十分。ようやく案内された応接室では、整った身なりの弁事士が微笑んでいた。
「確かに、名義はご自身ではありませんが、支払い記録と口座履歴、口頭のやり取りを示す証言があれば、返還訴訟を起こせる可能性はありますよ」
役所や警務塔とは違い、話の節々に共感の色が織り込まれている。言葉を遮らず、眉をひそめながら何度も「それはおつらかったでしょう」と頷いてくれたことに、私は涙腺が緩むのを止められなかった。
「ぐずっ……では、それでお願いできるとしたら……」
「そうですね。初期手数料は二十銀貨、訴訟準備に必要な動産評価や証言取りまとめを含めて、およそ二百銀貨――加えて成果報酬で二割となります」
思わず、唇が震えた。
に、二百銀貨……? それだけあれば、中古の小さな家が一軒買えるんじゃないだろうか。
「…………そんなに?」
「ええ。これは正当な正規報酬ですよ。残念ながら、正義を求めるにはそれなりの対価が必要なのです」
――正義。その言葉がやけに空しく、心に響いた。
とてもじゃないけど、今の私に払えるような金額ではない。
曖昧に口を濁し、「検討する」といって、その事務所を後にした。
店に戻ると、すでに閉店した後。灯りの落ちた店の裏口から合い鍵で入り、ランプを灯して二階にある私専用の作業室へ向かう。
そこには古びた木製の作業台に丸椅子が二つ。壁一面の棚にぎっしりと布や糸が収納され、仮眠をとるための三人掛けのソファが置かれた私の小さな城だ。
「……もう、恋はこりごりだわ」
強がってみたものの、ほんの数秒だけだった。そこから先は、どうにもならなかった。
ソファの端に座って目を伏せた瞬間、涙が再びじわりと込み上げ、決壊しまう。
「うっ……、ひっく……やだ、もう……っ」
どこにもぶつけられない怒りと悔しさ。最愛の亡き両親が遺してくれた大切なお金をつぎ込み、未来のためにと建てた家を信頼した男の手で奪われ、その想いをまるでゴミのように捨てられた。
「……っ、リュシアの馬鹿っ、大馬鹿者っ……!」
自分のことを何度も責めた。どうして彼を信じたの? どうして疑わなかったの? あれだけ周囲から心配されていたのに。
でも……本当は知っていたんだと思う。
あの人に、どこか冷たいところがあるってことを。だけど、捨てられたくない一心で、都合の悪いことに目を瞑ってしまっていた。
セリナだってそう。いつだって都合のいいように振り回されていたのに……。
私の腕を引き、いろいろなところに連れ回してくれた学生の頃のキラキラした彼女のまま、永遠の友情を築いたつもりでいただなんて。
「私が、馬鹿だった……!」
咽び泣く声が、作業室の布の山に吸い込まれていく。思い切り泣いた。子どもの頃以来じゃないかと思うほど、嗚咽のままに泣いた。
しばらくして、ふと棚の上に目が向くと、両親の絵姿と目が合った。
作業中、いつでも見守ってくれるようにと飾ったそれは、古びた木枠に収まった肖像画のようなもの。優しげな父の笑み、きりっとした母の目元……。それを見た瞬間、胸の奥に詰まっていたものが音を立てて崩れた。
「ごめんなさい……遺してくれた大切なお金だったのに……」
涙で霞んだ声で謝った。けれど次の瞬間、ふと気づいた。
両親が何よりも大切にしていたアルフェネ商会が、私にはまだある。涙を袖で拭って、少しだけ背筋を伸ばしてみた。
「……やり直そう、ここから」
私の独り言を、肖像画の両親が黙って聞いていた。