6.純白のドレス
「リュシア様……あの、変な噂を聞いたら気にします?」
従業員がおずおずと声をかけてきたのは、昼休憩に入る直前だった。
「変な噂?」
「はい……なんていうか、その……ダリオ様の交友関係のことで」
「……」
名前を出された瞬間、心臓が小さく跳ねた。
ここ最近、仕事仲間や仕入れ業者たちが妙に遠回しな言葉を口にする。
「最近、ご婚約者様、お忙しそうですね」
「騎士として再就職されたとか。だけど、いいんですか? その、少しおふざけが過ぎるというか……」
何かを言いかけては濁すその空気。確かに、ダリオは少し見栄を切るところがある。再び騎士になれたことで浮かれ、もしかして他人を皮肉や見下すような発言でもしているんだろうか。口調が強いから誤解もされやすいし……。
悪い予感がじわじわと侵食する。
だけど、家に帰れば、ダリオは変わらず笑って「おかえり」と言ってくれた。だから私は、周りの心配に耳を塞ぎ、彼を問いただすようなことはしなかった。
もし、みんなが言っていることが本当だったら……。あと半年で結婚するのに、今さら破談になるのも怖かった。
それに、思い描く幸せが間近に迫っているなか、ささいなことで波風を立てたくなかったのもある。
きっと、みんなの誤解のはず。私だけでも彼を信じないと――。
そう自分に言い聞かせた私は、ここのところ、買い付けついでに立ち寄った倉庫で見つけた布地を仕事の合間に少しずつ縫っていた。枕カバーとシーツにしたら、ぐっすり眠れそうな肌触りの良いリネン。最近、忙しそうなダリオの疲れが少しでも癒えるようにと願い、ようやく縫い終えたその日。
午後の納品へ行く前にセットだけ済ませておこうと思った私は、昼休憩を使って自宅に戻ることにした。ほんの十五分のつもりだった。
ガチャリとドアを開けた瞬間、鼻をくすぐったのはかすかな赤ワインの香り。
リビングには、飲みかけのグラスが二つ……。早めの結婚祝いにと、顔見知りの職人さんからいただいた、繊細な脚のカットが美しい細身のワイングラスだ。
とっておきの日に使おうとしまいっぱなしだったそれが、なぜかテーブルの上に置かれていた。
「え……?」
この時間、ダリオは騎士団で仕事をしているはず。急に休みになって、友達を呼んだんだろうか。いや、それなら普通のグラスでも……。
つい数時間前に片づけをしてから出掛けた部屋をぐるりと見渡せば、ソファの肘掛けには、ダリオの騎士服の上着。床には裏返った男物のシャツ。壁際には、光沢のあるハンカチ――どう見ても女性用だ。
心臓がどくんと嫌な音を立てた。
「……」
少し先の床にはボレロ……。お仕着せのような上質なワンピース……。
リビングから寝室へ向かう廊下に沿って、まるで私を誘うパンくずのように、服が一つずつ間隔を空けて落ちている。
「……嘘でしょ」
枕カバーとシーツを抱き、呆然としたまま、足は勝手に寝室へと向かっていた。肌を重ねてはいなくても、いつもダリオと寝ている主寝室の前で足を止める。
扉の前、最後に落ちていたのは、小さな薄桃色の下着だった。
喉の奥から、音にならない何かがせり上がってくる。耳を澄ませるまでもなく、扉の向こうからはくぐもった笑い声と艶めいた吐息が漏れていた。
「……っ」
午前中、私はあの人のために枕カバーを縫っていた。ダリオは? ダリオはその間、何をしていたの?
握りしめたリネンの布が、くしゃりと音を立てた。
『愛してる、セリナ。結婚しよう』
『ダリオったら……あんっ、そんなとこ引っ張ったら……ドレスが破けちゃうわ』
『はぁ……この背徳感、たまんねぇ……。ウェディングドレス着せたまま、してみたかったんだ……。純白のドレスから覗く白い肌……いやらしいな、セリナ』
――セリナ? ウェディングドレス?
はっとして、向かいの部屋の扉を見つめた。
未来の子供部屋にする予定のこの部屋には、入らないでくれとダリオに念を押してあった。半年後に着る予定のウェディングドレスをトルソーに飾ってあるからだ。
純白のサテン生地は上質なものではなかったけど、胸元から袖口へ流れるように銀糸の刺繍を刺し込んだ。それは蔦と花の模様に見えて、よく目を凝らせば絡み合うふたつの糸束がそっと結び合っている、考え抜いた意匠だ。
ハイウエストのラインには母から譲られたレースを、一針一針、裏から縫い止めた。裾はシンプルに落とし、式が終わったあとでも「ほどけば赤ん坊の祝い布にもできるように」と仕立てた。
想いを込めたドレスがようやく完成し、あとはヴェールを作るだけだった。
――まさか。お願い、……違うわよね?
ドレスがあることを信じ、震える手で静かにドアノブを回した私の目に、裸のトルソーがぽつんと佇んでいた。
堪えきれなくなった涙が頬をひとすじ落ち、胸に抱えた枕カバーに染みこんだ。