53.刺繍王子妃
「大丈夫ですか? これ、使ってください」
「……」
ハンカチに目を落とした男性が顔を上げる前に、ネルの手が私を立たせた。
「リュシア。……男に話しかけないで」
「もう、ネルったら……」
視察先でもこんな調子だから、護衛たちの目が生温かい。ネルは護衛たちに彼を送っていくよう伝えると、私の背に手を添えた。
「まあ、見て。第四王子と王子妃様。本当にお似合いで仲がいいのねぇ」
「王子妃様はお優しい方ね。市井出身の方だと聞いているけど、本当に素敵だわ」
街の人たちのひそひそ声が耳に届き、顔から火が出そうだ。体が勝手に動いてしまっただけで、そんなつもりじゃなかったのに。
私の後ろに立つネルは、何かが気になるのか背後を気にしている様子。倒れた男性が気になるのかしら、と振り向こうとした私をその体が遮った。
「ネル、どうしたの?」
「いや、何でもない。リュシア、この地方だけの独自の刺繍があるらしいよ。次は工房に案内してもらおう。みんな、刺繍王子妃が来るのを楽しみにしているってよ」
「その呼び名、恥ずかしいわ……。だけど、楽しみ。ありがとう、ネル」
ネルが私に柔らかく微笑むと、周囲からきゃあっと黄色い歓声が上がった。
*
――リュシア。
そう口にしかけた男は、声に出すことなく口を閉じた。射貫くような視線の護衛を前に、慌てて立ち上がるとその場を後にした。リュシアから受け取ったハンカチを握りしめ、とぼとぼと向かった先は採掘場だ。
囚人が多いこの採掘場は岩を砕く重労働が課せられていた。必要最低限の暮らしは保証されているものの、泥や汗、風向きによっては汚物のにおいが鼻をつく。
その傍らでは同じく罪を犯し下女として働く女たちが、男たちの食事の用意に忙しくしていた。
そこにはかつて王宮侍女として聖女とまで呼ばれたセリナが悪態をつく姿も。
「どうして私がこんな汚い男たちの食事の用意をしなきゃいけないの!?」
「ぎゃあぎゃあうるさい女だね。そんな態度なら飯抜きだよ! ちゃんと働きなっ!」
「きゃあっ! 引っ張らないでよ!」
自分は聖女だと騒ぎ立てる女に、監視をする衛兵たちも呆れ顔だ。
「あの女、王宮侍女だったのに罪を犯して宮殿の下女になったものの、素行が悪くてここに送られたらしいぜ」
「俺も聞いた。第二王子殿下に粉をかけようとして、第二王子妃様がえらくご立腹されたんだろう? せっかく慈悲をかけられていたのに、どうしようもない女だな」
「全然仕事しないし、あの調子じゃあ娼館に売られる日も近そうだな」
ぼさぼさの髪に破れた服。化粧っけはなく、眉間に深く刻まれたしわのせいで実際の年齢よりも十歳以上は老けて見える。
かつて婚約していた頃の面影もなくなったセリナの姿を、ダリオは呆然と見つめていた。なぜ、こんな女に惑わされ、温かな真心を踏みにじってしまったのか、後悔してもしきれない。
『あの時ね、急に世界が敵だらけになって……。あなたが救世主に見えたわ。本当よ? だから私も、困っている人がいたらそうしようと思ったの』
かつて、そう口にしていたリュシア。男爵令嬢から平民になっても、王子に見初められ今や刺繍王子妃と呼ばれるようになっても、変わることのないその気質。
「あの頃と変わらず、君は今でもお人好しなんだな……」
すべてを失ったダリオは、手にしたハンカチに刺された刺繍に目を落とした。騎士としての再生を願ったアミュレットを彼女から渡された日。騎士として返り咲き、遊興に耽った挙句、リュシアを裏切った過去が甦る。
もしも、彼女とあのまま一緒になっていたら、今頃は二人で――。
「あぁっ、俺は取り返しのつかないことを……」
ダリオはハンカチを握りしめながら、その場に蹲り号泣した。
*
視察から帰ったエルネリオは、第三王子の宮殿を尋ねていた。
庭園でお茶を飲んでいるという第三王子妃のもとに案内されると、エルネリオは声をかけた。
「三の義姉上。ただいま戻りました」
「おかえり、エルネリオ。あら、リュシアちゃんは一緒じゃないの?」
「ん。ちょっと疲れたみたいだから休ませた。なんか、ここ最近眠たくて仕方がないみたい。これ、リュシアからお土産」
「まあ、素敵な刺繍のスカーフね。ありがとう。うれしいけど、わたくしはリュシアちゃんに刺して欲しいのに」
ネルは向かいの席に座ると、その言葉を聞き流すようにティーカップに口をつけた。誰もかれもリュシアの刺繍を欲しがって仕方がない。頼まれれば断れない性格の妻を想い、ネルはここ最近、義姉たちの願いを受け流している。
「義姉上はもう、リュシアの刺繍を持っているじゃないか」
「リボン付きのヘアゴム? だって、あれを毎日つけるわけにはいかないもの。ハンカチがいいわ」
「ああ、ハンカチと言えば……。以前、義姉上がくださった糸守人の“背中を押してくれる”ハンカチ。あれを胸に忍ばせてリュシアに告白したんですよ。その節はどうも」
「まあ」と目を瞬かせ、アリスは微笑んだ。
ネルは他の義姉たちにもお土産を渡しに行くから、と早々に立ち上がった。
「今度はリュシアちゃんも連れて来てね」
「……いいけど、刺繍をねだらないでよ? 俺、知ってるんですからね」
「あら、何のことかしら」
頬に手をあて、うっとりと首をかしげる義姉に、ネルはにやりと口角を上げた。
「青燕の家紋のハンカチ。義姉上が持ってるなんて盲点でしたよ。養子縁組されたとは聞いたことがありましたが……本当のご祖母様はグラーナ大奥様だったんですね。さすがにそこまで辿るのに時間がかかりましたよ」
「ふふふ」
「商会もリュシアのあの家も、義姉上が手を回してくださっていたんですね」
いろいろありがとう、というネルに、アリスはしぃっと口元に指をあて微笑んだ。
完




