50.ロベリアの花
隣国からやってきた使節団の滞在は一か月に及んだ。
王宮で連日連夜もてなしを受け、我が国の貴族や大商会と縁を結んだり、様々な場所を見学したりしていたらしい。毎日のように新聞に載る使節団の記事には、美しい王女様の絵姿が何度も掲載されていた。
腰まであるまっすぐな金髪がさらさらとなびき、まるで妖精のようだと大絶賛される様子に、きっとその横にはネルさんもいたんだろうなと思う。どこに行っても大人気で接待役をメロメロにしたという内容に、私は静かに新聞を伏せた。
ネルさんから会いたいと連絡があったのは、それからさらに一か月後のことだった。とうとう、その日がやってきた。私はこの恋が終わったことを感じた。
――正式に婚約が結ばれたから、今までのようには会えない。これからは商会同士の付き合いをしていこう。
そう言って、笑顔で握手を求めてくるネルさんの姿が浮かんだ。きっと彼のことだから、そんな風に遠回しに言ってくるはず。そして商会の窓口はヴィスさんか他の方になるんだろう。
アルフェネ商会の近くに新居を借りたことは、もう隠す必要がないと思ったのか、寮という名のタウンハウスを時々覗きに来たネルさんの宮殿の執事という方に伝えたけど、ネルさんからは「わかった」としか返答がなかった。
心の中にぽっかりと空いた穴。その寂しさを埋めるように、私は仕事へ向き合った。
ネルさんに呼び出されたのは、夜景が一望できる人気のデートスポットだった。少し高台にある公園は、若い恋人たちがこっそり逢瀬を重ねる場所。
こんな場所を選ぶなんてと思ったけど、どこに行っても人の目がある今、誰にも見られたくないのだろうと納得もした。もし、ネルさんが市井の女性と会っていることが王女様の耳に入ったら、面白いはずがないもの。
私は商会の仕事を終えると、重たい足を叱咤しながら待ち合わせ場所に向かった。
――笑顔でお別れしよう。
仕事上の付き合いは続いていくとしても、ネルさんへの想いはここで断ち切ろう。もう会うことはなくなるかもしれないけど、彼にはたくさんの泣き顔を見せてしまってきたから、せめて笑顔の私を覚えていて欲しい。
月が出ている明るい夜。待ち合わせ場所にはすでネルさんが佇んでいた。
いつもならそれなりに人が賑わっている場所なのに、周りを見渡しても誰もいない。うってつけの夜だな、と苦い想いが広がる。
「久しぶりだな、リュシア。元気にしてたか?」
まるで二か月も会っていなかったとは思えないほど、ネルさんは変わらずそこにいた。
「ふふっ。刺繍教室が大盛況で。先生役をスカウトするのに忙しくしてました」
「そっか」
そう言ったきり、ネルさんは黙ってしまった。私たちの間を流れる沈黙すら、これが最後なのだと思うと気まずさよりも愛おしさが勝ってしまう。
長い間お互い黙っていたけど、ネルさんが切り出せないなら私が口火を切った方がいいのかなと、口を開きかけた時だった。
「リュシア。受け取って欲しいものがあるんだ。手を、出して」
「……こう、ですか?」
何を渡されるのかわからず、手のひらを揃えて差し出した私に、ネルさんはハンカチをそっと置いた。
「……? ハンカチ、ですか?」
「見てみて」
精巧な刺繍がされたハンカチでも手に入れて、私にぜひとでも思ってくれたんだろうか。
そっと広げたハンカチ。そこにはピンク色と紺色の刺繍糸で刺された小さなモチーフ。周りが暗いこともあり、ガタガタの刺繍は何を刺したのかぱっと見でわからず、私は顔を近づけじっと刺繍を見つめた。……星、かしら?
「これ……」
「……俺が刺した。ロベリアの花」
尻つぼみの言葉に目を瞠る。
「ネルさんが刺繍を?」
「……おまえ、刺繍教室であの子たちに言ってたじゃねえか。恋が叶う刺繍だって。だから……」
「え……?」
手の甲で口元を隠しながら、照れたように視線を外すネルさん。その指を見て驚いた。
「ネ、ネルさん! 指、傷だらけじゃないですか!」
慌ててその両手を取ると、指先は包帯だらけ。もしかして、針を刺しちゃったの?
「……そんなことはいい」
ネルさんは憮然としながらそう言うと、ハンカチを握ったままの私の両手をそれぞれ包んだ。赤い瞳にじっと見下ろされ、心臓がとくんと音を立てる。
「リュシア。……俺の想い、受け取ってくれるか?」
「な……、え? どういうことですか?」
「っ、おまっ! 二か月も頑張って刺したのに……。想いを込めたこれを贈ったら、恋が叶うっておまえが言ったんじゃないか」
「それって……」
「ああっ! もうっ! なんて鈍いんだ……! おまえのことが好きだって言ってるのに気づけよ!」
なんて返したらいいのかわからず、頭が真っ白になった。気持ちにけじめをつけるために来たのに、急展開すぎる。ネルさんが私を?
不機嫌そうなネルさんは、むすっとしながら私を見下ろした。
「おまえはどうなんだよ」
「……その、…………私もネルさんのことが、好きです……。だけど」
あまりの剣幕に、自白させられた気分だ。だけど、ネルさんは王族で私は平民。身分違いの恋なんて――。
「身分が違うなんていうなよ? 俺が王籍から抜ければいいだけじゃねえか。つまらないことで悩むな。王子としてではなく商会主として生きていけるだけの力はつけた」
「でも、王女様と――」
「断った。他に問題は? おまえ、俺のこと好きなんだよな?」
「は、はい。だけど、……その、やっぱり私とでは」
「あ~もう、ごちゃごちゃうるさい」
傷だらけの指先が私の両頬をそっと包み、優しく唇を塞がれた。




