47.買い戻し
――俺はリュシアの前では殿下なんかじゃない。ネルとしておまえの前にいるんだ。だから線を引こうなんてしないでくれ――……
あの日のネルさんの言葉を何度も思い出した。仲睦まじいと有名な王族の末っ子、第四王子エルネリオ殿下――数日前まで一生すれ違うことすらないと思っていた相手が、まさか自分の上司で、今や同じ屋根の下で寝る日まであるだなんて。
「王子、か……」
いろいろ思うところはあるけど、クラヴァン・トレード商会は紛れもなくネルさんがゼロから設立して、大きくしてきた商会だ。第四王子としての肩書きや王族の名を振りかざしたわけではなく、その能力で手にしてきたことは、側で見てきたし疑いようもない。
実力と努力で、商会を引っ張ってきた誠実な人なのだと思ったら、ネルさんが王子であろうが、尊敬すべきやり手の若手商会主であることに変わりはないような気がした。
うん。今まで通り商会主といち商会員として、長く関係性を続けていければいいじゃない。身分を問わず、私たちと同じ目線でいてくれることに感謝するべきだわ。
ほのかに芽生えた恋心には封印をして、私はそう思うことにした。王族と平民。どんな形であれ、傷つくってわかっているんだから、この想いは絶対に育てたらいけない。
そう心に決めて、いつものように黙々と商会の事務所で書類整理をしていると、ネルさんがやってきた。彼に会うのはあの日以来。ふと視線が絡むと、彼は私へ近づいてきた。
「……お疲れ、リュシア」
「お疲れ様です、ネルさん」
お互い、少しだけぎこちない。
ちらっとその顔を窺うと、ネルさんは緊張している様子。……私がどんな態度をとるのか心配だったのかな。ネルさんが線を引かないでくれって言ったくせに。
「どうかしましたか? ネルさん」
そう微笑むと、ネルさんはほっとしたように頬をかき、「ううん、何でもない」とはにかんだ。
それから、周囲を見渡し人の姿がないことを確認すると、真剣な顔で私を見つめた。
「リュシア、ちょっといいか」
「はい」
「おまえがご両親の遺産で買った、あの家の件なんだけど……、買主が事情を知って、代金をすべて清算したいと言ってきた」
「え……?」
目を瞬かせる私に、ネルさんの後ろにいたヴィスさんが補足をしてくれた。
「リュシアさんが詐欺にあったということを知られ、ご両親の遺産をそのままお返ししたいとのことです。買主様は、建築会社の社長や業者から資金を回収するので、心配なさらないように、とおっしゃったそうですよ」
「ってことで、はい」
ネルさんに手渡された小切手には――両親が私の未来のためにと残してくれた、遺産そのままの金額が記されていた。
受け取った瞬間、言葉を失った。目の前がじんわりと滲んでいく。
「……こんな……こんなこと……」
声が震えてしまう。いつか取り戻せると信じてはいたけれど、でも、ずっとずっと先の話だと思っていた。
ダリオとセリナに騙されたと知ったときの絶望。夢のようにふいに終わった日々。刺繍の布に涙が落ちないように、ただただ針だけを見つめていた、あの頃――。
思わず、ぽつりとこぼれた。
「……お父さん……、お母さん……」
ネルさんは、その姿を黙って見守ってくれていた。ポケットからそっとハンカチを取り出し、小切手を包んでくれる。
「汚れたら困るだろ? それはリュシアの未来なんだから」
私は、堪えていた涙がとうとうひとすじだけ零れ落ちるのを、止められなかった。でも、この涙は悲しいからじゃない。うれし涙だから、許してくれるよね?
「……ずっ、……ありがとう、ネルさん、ヴィスさん。ぐずっ……、ほんとうに、ありがとうございます」
「うん……」
「ぐずっ……。これで、商会、買い戻そうと思います」
涙を拭いながら笑う私に、ネルさんは頷いた。
「ああ。そう言うと思って、もう調べは済んでいる。旧アルフェネ商会を買ったのは、ファルケス産業。地方の大商家だ。で、リュシアに一度会いたいって、向こうから申し入れがあった」
「……会います」
迷いはなかった。買い戻しさせてくれる可能性があるのなら、何度でも会いに行って頭を下げる覚悟はある。
ただ、待ち合わせ場所が地方都市だと口にした瞬間、ネルさんの表情がわずかに曇った。
「王宮の予定が詰まってる週なんだけど何とかするから、俺もついていく。危なそうならすぐ止められるし」
ついて来てもらえるなら心強い。商人としてはもちろん、王族として完璧な振る舞いができるネルさんがいれば、相手を不快に思わせることはないはず。
「……ほんとに?」
「何が“ほんとに”だよ。おまえを心配しないわけないじゃないか」
「……」
……え? その言葉をどう受け止めたらいいの?
思わず目を伏せてしまったけど、きゅっと下唇を噛み締めた。
――ううん、リュシア。ネルさんは困っている人を放っておけない性格だから、あんまり深く考えたらダメよ?
罪深い人だな、と思いながら自分にそう言い聞かせ、私は「ありがとうございます」と小さく呟いた。




