46.そっとしておいてください(ネルSide)
俺の言葉に返事をしないまま、馬車に乗り込んだリュシア。その姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
……いつかは、リュシアにも本当のことを言わなければと思っていた。だけど、今の関係が心地よくて。
――ネルさん、おかえりなさい。
――ネルさん、これから刺繍をしますけど……また、子守り絵代わりに見てみますか?
柔らかく微笑み、そこが俺の居場所だとでもいうように温かく迎えてくれるリュシア。第四王子だとわかっても、彼女が俺に対する態度を変えないという自信がなかった。
だけど、引き延ばした結果がこれだ。
もっと早く、「実は俺、王子なんだけど末っ子だし。名ばかりの王子で自由に生きてるから、俺のこと殿下なんて呼ぶんじゃねえぞ――」そんな軽い調子で、さりげなく告白しておけばよかった。
「はっ……、今さらだな……」
考え得る、もっとも最悪な形でバレてしまったように思う。
意気消沈しながらエルディオス兄さんがいる執務室へ戻ると、兄さんが眉間にしわを寄せながら待っていた。
「エルネリオ、一体どういうことだ? てっきり、糸守人を招致したことを知ってやってきたのかと思ったのに。それに一緒にいたあのご令嬢――」
「兄さん。なんで糸守人を呼んだんだよ……」
「おまえも会いたがってたじゃないか。……今日のおまえ、おかしいぞ」
「……」
ああ、そうだ。俺も糸守人に会いたいと思ってた。だけど、それは刺繍を愛するリュシアに会わせてやりたかったからだ。まさか糸守人がリュシアだったなんて……。
「兄さん。刺繍の加護は、誰でも縫えるってことで調査を終わらせちゃダメなのか?」
俺の言葉にエルディオス兄さんは困惑を隠せない様子。
「は? エルネリオ。私の立場的に、刺繍の加護が実在するのであれば見逃すわけにはいかない。国にとって益になる可能性を秘めているだけでなく、その逆もあり得るからだ」
「この国は“縫いには魂が宿る”なんて伝説がある国じゃないか。昔から大切な人のために想いを縫ってきた温かい歴史がある。それなら、糸守人だけでなく、誰かの想いが込められた縫いには刺繍の加護があるはずだよ。少なからず、その刺繍には何かしらの想いが宿っていると俺は信じている」
リュシアは言っていた。
――誰かを想って刺繍をした女性は全員聖女ですよ。
俺は何とかこの調査をここでやめて欲しいと、エルディオス兄さんを説得する。言葉を尽くし、刺繍がどれだけ大変な作業で、どれだけの想いが込められているのかを切々と訴えると、兄さんは目を瞠っていた。
考えつくだけの言葉を口にし、これ以上どう言えばいいのか言葉に詰まった頃――。兄さんは両手を小さく挙げた。
「はぁ……。降参だ、エルネリオ。おまえの言うことも一理ある。わかった。刺繍の加護の調査は終了する」
「本当ですか!? ありがとうございます、兄さん……!」
「ったく。まあ、仕事は次から次へとやってくるし、あるかわからない刺繍の加護にそこまで労力を割くわけにもいくまい。それに、……下手に明るみにならない方が、人々の心に希望を残せるのかもしれないしな」
兄さんが調査の終了を言い渡してくれた瞬間、張り詰めていた気持ちがゆるんだ。俺の様子に肩を竦めた兄さん。
刺繍は、誰かのために願って縫うものだ。それを加護だとか特別な力だとか、そんな言葉で囲ってしまうのは、やっぱり違うと今なら思える。
その時、あの女のことを思い出し、はっとした。
「それで、セリナの件は?」
俺が尋ねると、兄さんは気のない口調で応じた。
「セリナ・ドエルは虚偽の申告をした上、贅の限りを尽くしたからな。もちろん、王宮侍女はクビだ。彼女の散財はそっくりそのまま請求したが、返せるだけの余力がドエル家にはない。だから下人として扱うことにした。王宮で床磨きでもさせるつもりだよ」
「……王宮で? セリナはまたよからぬ悪だくみをしないかな」
「わかってる。うちの宮殿で引き取るよ。私の妻は躾には厳しいから、ちょうどいいだろう」
「……じゃあ、俺はしばらく兄さんの宮殿には行かないようにする」
二の義姉の監視下に置かれるなら安心だ。兄さんはくすっと笑って、書類の束を閉じた。
「それより、一緒にいた女性。リュシア、だったか――彼女との関係は?」
……案の定、詮索が始まった。まったく、……聞かれるとは思ってたけど。
下手に取り繕って、周囲を嗅ぎ回られるくらいなら、はっきり言っておこう。
「――俺の、想い人です。……だから、そっとしておいてください」
兄さんは数秒黙ったのち、目元に笑みを浮かべていた。




