37.小さな熱
その日は日付が変わるまで話し合い――。遅くなったから今日はもう寝ようということで解散した。
私は自室に戻り寝る支度をしてから、ベッドにごろんと仰向けになった。とてもじゃないけど、興奮して眠れそうもない。
旧アルフェネ商会を買い戻せたら、何からしよう。
「……クラヴァン・トレード商会は実店舗がないから、アルフェネ商会で取り扱わせてもらったらどうかしら。それなら、今までどおり、クラヴァン・トレード商会とも一緒に働けるし」
……何より、ネルさんとつながっていたい。
さっきまでまるで自分のことのように、一緒に買い戻し方法を考えてくれたネルさん。乱れた紫紺の髪をかき上げる彼の姿が頭から離れない。まるで救世主だ。
「ネル、さん……」
家名も知らない、家族構成も何も知らないのに。
だけど、情に厚くて困っている人を放っておけなくて、ついつい面倒を見てしまう優しい人だってことは知っている。すごく頼りになって、ネルさんがいればきっと大丈夫だって思えてしまうことも。
ふいに、いつか彼の背中に覆いかぶさってしまったことを思い出す。思っていたよりずっと逞しくて男らしい背中。まるで騎士のようなしっかりとした体だった。実は鍛えているのかもしれない。
無造作な髪型でも隠し切れない品の良さに、整った顔立ち。色気のある目元がどれだけ女性の目を惹きつけているのか、本人は知っているんだろか。
――はぁ? な、何言ってんだよ。
照れくさそうにむすっとする顔が思い浮かび、思わずくすりと笑みがこぼれる。
「……まったく、私ったら。あんな大失恋したのに、もう違う人が気になっているだなんて」
ネルさんはきっと高位貴族で間違いない。私だって貴族学園に行っていたから、下位貴族と高位貴族の所作の違いくらい、なんとなくわかる。
胸の中に芽生えた小さな熱には自分でも気づいているけど……、これは育てたらダメ。ネルさんは好きになったらダメな人だ。
「もう恋をして泣くのは嫌……それに、今は泣いている場合じゃないわ」
明日になったら手紙を書いて、ネルさんに見てもらおう。形式が間違っていないか、失礼な文章になっていないか、相手にちゃんと私の想いが伝わっているか――。
私は朝が来るのを楽しみに、無理やりまぶたを閉じた。
*
日が昇る前から、何度も書き直して仕上げた手紙。旧アルフェネ商会を買い取った方へ向けた手紙だ。印象が少しでも良くなるように丁寧にペンを走らせ、切々と想いを綴る。
昨日ネルさんと話して決めた内容を盛り込み、経緯を簡潔に伝えた上で商会を買い取らせてほしいという熱意をありのままに綴った。ネルさんいわく、相手がどんな人かわからないから、まずは礼儀正しくも、想いを素直に伝えた方がいいだろうとのこと。
暗かった窓の外もいつの間にか明るくなり、私は書き上げた手紙を手に階下へ降りた。
昨日はネルさんもヴィスさんも泊まったから、朝食は三人分。焼いたベーコンやスクランブルエッグ、サラダを用意し、バゲットをオーブンで少しだけ香ばしく焼き直す。
作り終わって調理器具を洗っていると、ネルさんとヴィスさんも降りてきた。
「おはよう、リュシア。おまえのことだから、もう手紙書いたんだろう?」
ネルさんはそういうと「ん」と手を差し出してきた。なんでわかったのかしらと苦笑しながら渡すと、彼はさっそくソファに座り、便箋に目を走らせた。
何度か読み返してからヴィスさんにもチェックするよう渡してくれたが、二人とも内容に問題ないと思うとのこと。
「じゃあ、これは責任を持って先方へ届けるよ。返信があったらすぐに伝える」
そのまま出て行こうとするネルさんを慌てて引き留めた。まだ、市場も開いていないくらい早朝なのに、もう行くの?
「え? ネルさん、朝食は……」
「ん。いや、少しでも早く何とかしたくて、じっと食べてらんないからもう出るよ」
「っ……、じゃあ、ちょっとだけ待っててください」
私は急いでキッチンへ行き、朝食用のバゲットをサンドイッチにする。ネルさんとヴィスさんの分を二本ずつ紙にくるむと袋に入れ、急いで二人の元へ向かった。
「あの、馬車の中で食べてください。こっちの二本はネルさんの。こっちの二本がヴィスさんのです」
「わ、やった! ありがと。……だけど、俺とヴィスの、何が違うんだ?」
困惑するネルさんに私はいたずらっぽく笑った。
「ふふっ。私、ネルさんの嫌いなものが実はわかってしまいました。こっちのは抜いてあるから、安心してくださいね」
「は? 俺、好き嫌いはないけど……」
尻すぼみのネルさんの言葉にくすりとしてしまう。
「はいはい、ちょっと苦手なだけですよね? じゃあヴィスさんと交換してもらってもいいですから。とにかく、二人とも食事を抜かないで、ちゃんと食べてくださいね」
「ん、了解。ありがと、リュシア。それじゃあ……行ってくる」
「いってらっしゃい」
私は抑えきれない胸の高鳴りを感じながら、二人の背中を見送ったのだ。




