36.買い手
商会へ出勤して仕入伝票の整理や納品の確認に忙しくしている時だった。ネルさんが私の名前を呼びながら、息を切らしてやってきた。
「リュシアッ! リュシアッ!」
「ど、どうしたんですか」
何か事件か事故があったのかと立ち上がり、私は不安な気持ちでネルさんを出迎える。どこかが倒産? 盗賊に荷物を奪われた? 商品に不備が?
息を切らして事務所に駆け込んだネルさんは上がった呼吸を整え、私を見ると笑顔に。周囲に人がいないことを確認してから、ぐっと近づいてきた。熱が伝わるほどの距離感にドキッとし、思わず下を向いてしまう。
鼻先にいつもと違うネルさんの香水の匂いがして胸が跳ねる。平常心を装う私に、彼は声を顰めた。
「ダリオ・ヴェレドが服役した」
「え……?」
ネルさんによると、ダリオは商会を担保に借り入れをしたものの、返済ができず差し押さえになったらしい。私が購入した家も書類の偽造などが認められて、建設会社の代表や関係者たちとともに捕まったのだそう。ってことはつまり――。
「商会とあの家は……?」
「そう、ダリオ・ヴェレドの物ではなくなったんだ! まずは今、所有権がどうなっているのか調べよう。簡単に買い戻せる額ではないかもしれないけど、交渉の余地はあるはず」
「は、はい」
夢みたいだ。……お金を貯めるまでまだまだ時間がかかると思ったし、貯まってもダリオが素直に売るとは思えず、取り返すまで十数年はかかると覚悟していたのに。心臓がバクバクとうるさい。
「リュシア。すぐに調べるから待っていてくれ。取り急ぎ、この事実だけでも伝えたかったんだ」
「ネルさん……ありがとうございます」
「水くせぇな! 俺たちの方が調べ物は得意だから、任せとけ。リュシア」
ネルさんはそう言うと、私の両肩にふわりと手を置いた。
「絶対、取り返そうな」
「……っ、……はい」
「泣くなよ、大丈夫だから。俺らがついてる。な」
ネルさんはそう言うと私の頭をぽんぽんと叩いた。その隣でヴィスさんは無言のまま、力強くこくりと頷いた。
私が目尻を拭い、笑ったのを確認すると、「じゃあ行ってくる」とネルさんはヴィスさんと共に慌ただしく出て行ってしまった。
一人だったら、何からしていいのかわからなかったかもしれない。それに、こんなに早く情報が手に入ったのも、ネルさんの顔の広さのおかげなんだろう。
できることはないのだから、仕事でお返ししようと思っても、帳簿の数字が頭に入ってこない。伝票の確認なんてミスをしそうだし、今はしない方がいいような気がした。
何をやっても手につかず、椅子から立ち上がっては無駄に事務所の中を歩いたり、戸棚の整理をし、一日中そわそわしながら過ごしたものの、ネルさんとヴィスさんは戻ってこなかった。
彼らとようやく会えたのは、その日の夜のことだった。
夕飯を食べ終えた後も刺繍をする気にならず。リビングでひとり紅茶を飲みながら彼らを待っていたら、玄関の扉が開く音がした。
「っ……!」
はっとして扉へ視線を送ると、ネルさんとヴィスさんが立っていた。
「リュシア、まだ起きてたのか。っつーか、寝られないよな。遅くなってわりぃ」
苦笑しながら眉尻を下げるネルさん。疲れが滲む二人の顔に、方々を駆けずり回ってくれたことが何も言わなくても伝わってきた。
「……お腹、空いてます? 夜食、用意しましょうか」
「ん……。まず、先に話をしよう。リュシア、座ってくれ」
「……はい」
腰を下ろしたソファのはす向かいに、ネルさんが座った。ヴィスさんは静かにお茶を淹れ始めた。
「結論から言うと、旧アルフェネ商会とリュシアの家はすでに買われていた。どちらも違う人物だった」
「……」
「差し押さえから購入までの期間が非常に短い。つまり、どちらの購入者も中央に太いパイプがある家門の関係者なんだと思う。表向きはごく普通の中堅貴族だけど、本当の持ち主がいるというのが俺の考えだ」
「……え?」
「そこまではまだ調べられなくて……ごめん。もう少し時間がかかると思う」
「そんな……ネルさん、ヴィスさん、ありがとうございます。ここまでわかっただけでもすごくうれしいです」
そ、そうか?と照れくさそうにそっぽを向くネルさんと、静かに頷くヴィスさん。私だったら、調べ方もわからなかったもの。
「とにかく、買い戻したい旨を手紙にしてみたらどうだろう。先方に売る意思があるのかどうかも確認した方がいいし」
「そうですね。ただ……」
家はもういらないと思っている。遺産を残してくれた両親には申し訳ないけど、そもそもあの家を建てるべきではなかったのだ。
取り戻すべきは旧アルフェネ商会。あの建物はやっぱり受け継いでいきたい。
そう言うと、ネルさんは大きくひとつ頷いた。
「そうだな。それなら家の方はご両親の遺産を少しでも取り戻せるように一緒に考えよう」




