33.ネルの針仕事
食事の後片付けが終わると、私は自室へ戻ることにした。ネルさんとヴィスさんは泊っていくらしく、二人はまだ下で話をしている。糸守人の依頼をこなすため、私は針と糸を手にした。
その時、とん、と控えめなノックの音が聞こえた。
「……リュシア、起きてるか?」
「ネルさん? ……どうぞ」
扉を開けたそこにはきゅっと唇を引き結んだネルさん。
「……お土産、渡し忘れてた」
そう言って彼が差し出してきたのは、掌にのる繊細なガラス細工だった。淡い青が縁に滲む、羽を広げた鳥。
「わ……、綺麗……」
「割れないようにずっと布で巻いてたけど、……どこも欠けてないならよかった。商会の荷に紛れさせるの、ちょっと怖くて」
「大切に運んでくれたんですね」
「んんっ! ……まあ、その……あんまり壊したくなかったから」
気まずそうに視線を外しながら、どこか不器用な言葉。ネルさんは遠慮がちに、ちらりと部屋を見回した。
「……ここ、不自由はない?」
「快適ですよ。ありがとうございます」
急に、ネルさんが刺繍を見ながらうたた寝していたことを思い出す。疲れているだろうし、針仕事を見ていたら心地良く眠りにいざなわれるんじゃないだろうか。糸守人の仕事をしている最中だけど……、ネルさんには見てもわからないだろうから、見られても問題ない。
「今ちょうど、ハンカチを刺していたところです。ご覧になりますか?」
ネルさんは一瞬だけ目を見開き、驚いた様子だったけど、すぐに喜色を滲ませた。
「見ても、いいのか」
「ええ。……ふふっ、また、子守絵代わりにしてもいいですよ」
「……うん、なんか落ち着くんだよな」
部屋の扉を少し開けたまま、小さなテーブルを挟み、向かいに座ったネルさん。さりげないその行為に紳士だな、と思う。
テーブルに頬杖をつくと、私の手元をじっと見つめた彼。私はその視線を気にせず刺し進め、布の裏から引いた糸が、すっと輪郭を描いていく。
沈黙もなんだか心地良い。どのくらい時間が経ったのか、ネルさんが口を開いた。
「なあ……リュシア」
「はい?」
「俺も……やってみたい。刺繍」
意外な言葉に、針先を持つ手がふと止まる。
「ネルさんが?」
「……いや。うまくできるかはわからないけど、見てるうちに……ちょっと、やってみたくなった」
好奇心旺盛なネルさんらしい。そういえば刺繍は女性のものって決められているけど、男性だって手先が器用な方はきっとお上手なはず。案外、ネルさんも意外な才能を発揮するかもしれない。
「じゃあ、……このハンカチを使ってください」
「ありがと。……俺一人でやってみるよ。おまえ、忙しそうだし」
そう言ってネルさんは、私の手から布を受け取った。椅子に座り直して背を正した彼は、どこか“自力でやるぞ”という決意がにじんでいるけど、道具箱から針を持った瞬間、既に顔つきは怪しい。
私はとりあえず、どうするのか見守ろうと思い、黙々と刺繍を続けてみたのだけど……。ネルさんは針の穴に糸を通す時点で大苦戦だ。
「……ま、待て、これ絶対無理な狭さだろ、針穴、小さすぎんだろ……!」
手を出したくてうずうずするけど、ネルさんがやる気になっているんだから我慢しよう。うんうん言っていたネルさんは、そのうち「通った……!」と歓喜の呟きをもらした。思わずくすりと笑ってしまう。
そのうちネルさんは、下絵もせず、見よう見まねで糸を布へ通し始めた。
「……よし、すくって抜いて……あっ。えっと、逆? これ違うな」
「……」
「こうして……ここを……あれ? 針から糸が抜けた」
「ぷっ……。ネルさん、やっぱり、基本的なことだけでも教えますね」
「うっ……はい、お願いします」
針穴への糸の通し方、布の縫い方を簡単に説明する。一旦、ネルさんが手にしていた布を預かり、角を整えて広げながらペンで薄く線を描いた。
「簡単な文様にしておきますね。……羽根にしておきましょうか」
「……これが、下絵?」
「はい。針を持つのは初めてですよね。輪郭に沿って、なぞるように刺してみてください」
ネルさんは慣れない手つきで針を通していくも、少し力が強すぎるようだ。布が引きつれ、上にぐちゃぐちゃの糸を這わせてしまう。
「えっと……ちょっと力が強すぎるみたいです」
「いや、理屈はわかってんだけどさ。すくって抜くだけなんだよな? でもそれが……ほら、指が勝手に逆らうっていうか」
物心ついた時には刺繍に触れていたけど、案外力加減が難しいものなのか、と新鮮な気持ちだ。私はすっと立ち上がり、ネルさんの背後に回った。
「多分、もうちょっと力を抜いた方が」
「え、や、俺の……って、っ」
糸を持つネルさんの手を、そっと上から包み込む。
「布はこんな感じで手にして、こっちの指は、軽く添えるだけでいいんです。針はそんなに強く握らなくて、大丈夫です」
「……」
無言のネルさんの肩がびくりと揺れて、はっとした。
子どもに教えるようにわかりやすく指導するつもりが、思いがけずネルさんの体が大きくて体が接触してしまう。
彼の背中に抱きつくような格好になってしまったけど、今さら慌てて離れるのも彼を意識していると暗に言っている気がする……どうしよう。
呼吸が、妙にうるさい。男の人とこんな近い距離になるの初めてだけど、ネルさんから爽やかないい香りがする。
気まずい空気を破るかのように、ネルさんがぼそっと呟いた。
「うっ……なんか、すごい集中してたのに。今、全部ふっとんだんだけど」
「だって、ネルさんがあんまりにも不器用だから。……怪我されたら困りますし」
「ん……そうだな。俺、自分で思ってた以上に不器用みたいでがっかりだよ」
苦笑しながらそっと彼から離れるも、ネルさんの耳の先が赤い。きっと、私も真っ赤な顔をしている。
椅子に座り直し、なかったことにしようと再び針と布を手にした私に、ネルさんが尋ねてきた。
「……なあ、リュシア」
「はい?」
「もし、祈りを込めた刺繍に加護があるとしたら……おまえはどう思う?」
「どうって……」
手を止めてネルさんに顔を向けると、さっきまでとは打って変わった真剣な顔。
「たとえば、願いが叶ったり、運命が動いたり。そういう説明ができないことが刺繍から生まれるとしたら」
「……うーん。でも、刺繍って、どんなものであれ、誰かが“願い”を込めて縫ったものですから。それだけでも、小さな力はあるんじゃないかって……私は、そう思ってます」
エリザナス王国は「縫いには魂が宿る」という伝説がある国だもの。だから、そんなこともあるんじゃないかな。
「……じゃあ、その力を持つ人は聖女なんだろうか?」
「え? それなら、誰かを想って刺繍をした女性は全員聖女ですよ」
「全員聖女………………? ははっ、そっか。そうだな」
私がそう言うと、ネルさんは目を細めながら笑った。
「……リュシアがそう言うなら、俺は安心した」
「はい?」
「王宮には報告しない。たとえ噂になっても誰にも言わない」
「ネルさん?」
「だって、全員聖女だから。はははっ」
……まったく話が見えないんだけど?




