32.苦い記憶とハンカチ
ダリオが商会に現れてから五日後。ネルが顔面蒼白で駆け込んで来た。旅装のまま、どう見ても今着いたばかりという様子に目を瞬かせる。何かあったんだろうか?
「リュシアッ! 大丈夫か!?」
「え?」
作業室で試作品づくりに明け暮れていた私は、ネルさんが一体何を心配してそんなに慌てているのかわからず。
思わず首をかしげる様子が彼の機嫌を損ねたのか、憮然とした表情で両肩を掴まれた。
「あのクズ男が乗り込んで来たんだろう!? おまえっ…………その、……元気そうだな」
私の顔をまじまじ眺めると両手をパッと離し、ネルさんは宙ぶらりんになった手をマントの背にさっと回した。
「……すぐに来られなくてすまない。その、おととい隣国まで戻って来て報告を聞いたんだ。そのまま馬を走らせてきたんだが……うん、無事だったのは知ってたんだけど、もしかして泣いてるかも……と思って……」
後半はよく聞き取れなかったけど、ダリオのことかと、その時になってようやく気づいた。そういえば、前回は手首が腫れるほど掴まれたから……もしかして、私が怯えて塞ぎ込んでいると思ったのかしら。
私はそんなにずっとめそめそしているタイプではないんだけど……、と思ってふと気づいた。ネルさんとの最初の出会いの時、私が泣きながら倒れたから、その印象が強いのかもしれない。なんだかネルさんの心配の種になっているようで申し訳なく思ってしまう。
「そのことでしたら、商会や運搬責任者の皆さんが間に入ってくださったんです。それに、王宮騎士の方たちも来てくださって、何もありませんでした」
「……………………そうか、リュシアが何とも思ってないなら、よかった」
ふぅっと息を吐いたネルさんはそのまま向かいにある椅子に座り込んだ。扉の方に視線を向けるも、ヴィスさんがいない。
「ネルさん、ヴィスさんは?」
「……そのうち着く」
……置いてきたってこと? そんなに急いで駆けつけてきてくれたのかと思うと、なんだかくすぐったい。クラヴァン・トレード商会の人たちの温かさがじんわりと胸にしみ込むようだ。職人も増えたし、いい商品を企画してもっと商会に貢献しなくちゃな、とやる気がみなぎる。
「喉、乾いていませんか? お茶入れますね」
「あ、いや、大丈夫。ヴィスが来たら一旦、着替えに帰る。家族にも呼ばれてて」
その言葉にどくんと胸が脈打った。家族って……ご両親? ご兄弟? それとも……。聞いていいのかしら。この流れでさりげなくなら尋ねるなら、おかしくない……かな。
「ご家族ですか。そういえば、ネルさんのご家族って――」
「ネル様! はぁ、はぁ、待ってくださいって、言ったのに」
その時、駆け込んで来たヴィスさんに会話の流れを持っていかれてしまう。彼も旅装マントを羽織ったままだ。
「わりぃ、ヴィス」
「……はぁ……はぁ……、リュシアさん、ただいま戻りました」
「おかえりなさい。いい商品は仕入れられましたか?」
「もちろん!」とはネルだ。「荷馬車は……多分二日後に到着する」と続けられ、思わず口ごもる。
ヴィスさんは薄目でネルさんを見ながら、疲労困憊の様子。
「……ええ、一緒に戻ってくる予定だったんですが、私たちだけ馬を昼夜走らせましたからね」
「あー……、とりあえず、埃まみれだし着替えてくる。リュシア、夕飯を一緒に食べよう」
「じゃあ、何か作りましょうか? 外での食事が多かったでしょうし」
「いいのか……?」
ネルさんとヴィスさんの顔が期待感でいっぱいだ。もしかして、食事が合わない国があったのかしら。
じゃあ、また後でと約束をして、ネルさんとヴィスさんは出て行った。
う~ん、今日は何を作ろうかしら。凝った料理より、案外、家庭料理っぽいものを喜んでくれるから……煮込みや重ね焼きを作ろうかな。
*
今晩のメニューは鶏肉と根菜の麦煮込みに皮つきじゃが芋とハーブの重ね焼き、焼きキャベツと鯖の和え物、手ごねパン。デザートにはリンゴの蜜煮にクリームを添えて。これはヴィスさんのお気に入りだ。
テーブルに昔縫った卓布を敷き、木製の小皿やスプーン、大皿を並べ終わった頃、ネルさんとヴィスさんがやってきた。ネルさんはほんの一瞬、目を丸くした。
「……この香ばしいパンの匂い。旅の途中で何度思い出したことか」
「あっ、煮込みも、ハーブの香りが……」
ヴィスさんが鼻を鳴らし、椅子の背にふっと身を預ける。二人とも香辛料が盛んな国に行っていて、素朴な味付けが恋しかったのだとか。家庭料理にうれしそうな二人とテーブルを囲みながら、仕入れ国での話をネルが面白おかしく聞かせてくれ、時折ヴィスさんが口を挟む。
久しぶりの賑やかな夜を楽しんでいる時だった。
「ところでリュシア、折り入って頼みがあって。誰にも言わないで欲しいんだけど――」
湯気の立つ煮込みを前にしていた食卓に、ネルさんの低い声が落ちた。
「さっき家に帰ったらさ、兄が捜査してる案件が、ちょっと暗礁に乗り上げてるらしくて……で、刺繍に詳しいリュシアなら、何か気づけるかもと思って相談したいんだけど」
ネルさんのお兄様って警務官なのかしら。眉根を寄せる様子に、「お役に立てそうなら」と小さく頷く。
ネルさんはおもむろに、預かってきたという小さな布を取り出した。折り畳まれていたそれを広げると、柔らかな布地に細やかな文様と花のモチーフが浮かぶ――どこか既視感のある形。
「……これって」
無意識に顔をしかめてしまう。指先で文様をなぞると、懐かしくも苦い記憶がふわりと胸に広がった。
「……持ち主は、セリナ・ドエルじゃありませんか?」
「知ってるのか?」
「ええ。ダリオの婚約者です。あの人、刺繍が苦手で、私に何枚もハンカチを縫わせていたんです。たぶん、その一枚……まだ持っていたんですね」
ネルさんもヴィスさんも、言葉が出ないようだった。刺繍大国のこの国で、女性が自分で縫わずに人に依頼するなんて、きっと思いもよらなかったのね。セリナの恥部を暴いてしまったけど、……このくらい私には許されるわ、とつんとした気持ちになる。
「それで――これが、何か?」
私の問いに、ネルさんは困惑した様子で手元のハンカチを眺めている。もしかして、信じられないのかしら。
「持ち主を探しているなら、間違いなく彼女ですよ。刺繍も、文様も、私が縫ったものですから」
「そうか……。わかった、ありがとう。兄が本当の主を探していたから助かるよ」
ネルさんは力なく笑い、ふっと目を伏せた。
ヴィスさんは口をきゅっと引き結び、何かを飲み込むように視線を落とした。




