22.湿布
仕事を終え、買い物をして帰ろうと市場の通りを歩いていたその日。
屋台が立ち並ぶ広場に足を立ち入れ、今日は何か買って済ませようと見ていたら、どこかから聞こえる「リュシアちゃん、リュシアちゃん」の声。
辺りを見回すと、手招きしている顔なじみの店主が深刻な表情をしていた。
「……リュシアちゃん、気をつけな。ダリオが、あんたのこと探してたよ」
「え……?」
その言葉に、眉がぴくりと動く。周囲の店主たちも、大きく頷くとひそひそと口を揃えた。
「見かけたら知らせろって言われたけど……。リュシアちゃん、別れたんだろう? 先に伝えとこうと思ってさ」
「気をつけな。あいつ、今ちょっとおかしいから」
……おかしいってどういうこと?
嫌な予感がするし、早く帰ろうと足早に通りを抜けようとしたその時――。
「よう、リュシア。ピンク色の髪の毛なんて珍しいと思ったら、やっぱりおまえだったか」
背後からかけられた声に振り返ると、そこに立っていたのはダリオ。騎士の制服を着て華やかではあるものの、その顔にはどこか焦燥と苛立ちが滲んでいる。
「……何かご用件でも?」
「意地を張るなよ。戻ってこい。どうせどっかで住み込みで働いてるんだろう?」
「……はい? 追い出したのはあなたじゃない」
そういえば元アルフェネ商会で働いていた従業員たちが、ネルの元へ求職に来ていると言っていたし、おおかた人手不足で立ちいかないんだろうと思い至る。
……まったく、冗談じゃないわ。いつまで都合のいい女だと思われてるのかしら。
家も仕事を奪っておいて今さら戻ってこい? しかも追い出したその後の生活を心配するそぶりもなく、呆れてしまう。どの口が戻ってこいだなんて言ってるのよ。
「……お断りします」
冷たく睨みながらはっきりと答えたものの、ダリオは一歩踏み出すと私の手首をぐっと掴んだ。
「いいから、話を――」
「ちょっと! やめて!」
ダリオの力が思いのほか強い。……騎士なんだから当然なのだけど、強さ加減すらしない目の前の男に怒りで声が震えそうだ。
語気を強めてもダリオの手は離れず、周囲はダリオが騎士であることで仲裁しづらい様子。下手に関わったら無実の罪を着せられる可能性もあるし、騎士を怖がる周囲を責めるわけにはいかない。平民ならそう思って当然だもの。
自分でなんとかしなくちゃと思っても、ダリオの力は強く。このまま連れていかれてしまうのかと悔しくて涙が滲みそうになったその瞬間――。
「おい、離せよ」
低く、鋭い声。振り返ると、そこにはネルさんが立っていた。
「ああん? ……なんだ、おまえは」
「彼女が嫌がってるだろ。聞こえなかったのか?」
ネルさんは一歩前に出て、ダリオの手を強引に引き剥がした。その動きに周囲の人々がざわめき、拍手が起こる。ダリオはその時になって、騎士服を着たままずいぶんと注目を集めていることに気づいたようだった。
周囲の雰囲気に分が悪いと思ったのか、居心地悪そうに身を竦めるとネルさんを睨んだ。
「……チッ、覚えてろよ」
捨て台詞を残してダリオは人混みに消えていく。思わずほっとして、大きく息を吐いた。
「はぁ、よかった……」
誰にも聞こえないほど小さく落ちた呟き。自分で思っていたより恐怖を感じていたのか、今さらになって足が震えてくる。
「……大丈夫か?」
「ええ。ありがとう、ネルさん」
「いや、全然大丈夫じゃない……行こう」
ネルさんがそっと私の手に触れた。ダリオとはまるで違う、やさしく温かな手。
手を引かれるまま、その半歩後ろをついていく。時々ちらっと私を見ながら足を進めるネルさん。ダリオが後をつけてくるか警戒しているのかしら?
そう思ったのだけど、あまりにもゆっくりな歩き方に私に合わせてくれているのだと気がついた。その気遣いがじんわりと胸に染みわたっていく。
家に着くとネルさんは私をソファに座らせ、無言でそっと私の袖口をまくった。
「あ……」
自分でも驚いた。ダリオの手の痕がくっきり青痣になっている。こんなに強く握りしめられていたら、そりゃ痛かったわけだと眉根が寄る。いつもは無表情なヴィスさんも、ソファの横から覗き込むように私の手首を覗き込むとぴくりと眉が動いた。
「………………ヴィスッ! 医者を呼べっ!」
「ネ、ネルさん、大丈夫です! ヴィスさん、行かないでください!」
怒鳴るネルさんと従おうとするヴィスさんを慌てて引き留める。
「痕が残ったらどうするんだ! か弱い女性がこんなことされたら、痛いに決まってるじゃないか!」
「ネルさん、話を聞いてください」
私の言葉にネルさんは言葉を詰まらせた。
「……んだよ……あんなふうに痣ができるほど手首を握られて。捻挫もしてるんじゃねえのか? 医者も呼ばず、何もしないなんて……おかしいだろ」
「平民はそんなものですよ。小さな怪我で医者を呼んだら、冗談か、みたいな顔されます」
「はぁ? 嘘だろ?」
「ほんとです。生死を彷徨うくらいじゃないと、家にまで呼びませんよ。痣くらいで呼んだら他の病人の方に申し訳ないのでやめてください」
ネルさんはしばらく黙っていた。眉間に深く皺を寄せながら、私の手元の痣に目を落とす。
「……嘘だろう? 女性はか弱い生き物なのに」
呆然とした声。その呟きにびっくりした。ネルさんって相当裕福なお家に生まれたのね……。
それに、女性をとても大事に扱うお家。貴族でも女性を下に見る傲慢な男は多いけど……この人は違うみたい。きっと女性を大切にする精神は、ネルさんのご家族の教育の賜物ね。
「じゃあ、どうすんだよ。冷やしたらいい? この家、氷なんてあったかな……」
ネルさんが立ち上がりかけるのを、私はそっと引き止めた。
「氷は必要ありません。こういうときは……湿布を貼るのが一番です」
「湿布? 市場で売ってるやつか?」
ヴィスさんが首を傾げ、ネルさんも眉を顰める。
「いえ、民間療法です。酒と酢を布に染み込ませて、患部に巻いておくと痛みが和らぐんです」
「酒と……酢? それって、飲んだり料理に使ったりするあれ?」
「はい。布に染み込ませるだけで湿布になるんです。ちょっとツンとする香りがしますけど、翌朝には腫れが引いていることもあります。祖母がよく使ってました」
すぐにキッチンから酢と酒を持ってきたヴィスさん。ネルさんがこれでいい?と持ってきてくれた布で、そのままネルさんに湿布を作ってもらう。
「へえ……こんな方法、初めて知りました」
「……俺も。すごいな。平民って、暮らしの中に知恵が詰まってるんだな」
慎重に私の手首へ布を置くネルさんとそれを見守るヴィスさん。まるで実験を見る子どものように私の手元に視線を注ぐ姿がなんだか微笑ましくなってしまう。
痛みはまだ残っていたけれど、部屋の空気が柔らかく包み込んでくれた気がした。




