20.心地いい
商会での休憩時間。作業室の机の上には刺繍用の布と糸の束、そしてネルさんが持ち込んだ資料の山。
急にネルさんが、私が刺繍をしているところを見たいと言い出したのだけど。
「……本当に、見てるだけでいいんですか?」
「うん。事業展開のアイディア出しのために、刺繍のことをもっと知りたいんだ」
ネルさんはそう言うと、椅子に深く腰を下ろした。けれど、資料には目もくれず、視線は私の手元に向いている。
……職人たちと同じテーブルで作業をするならまだしも、じっと見つめられながら人が近くにいる環境で刺繍をしたことがない。集中力が切れてしまいそうな気がしたけど、オーナーである彼の意向に逆らうわけにもいかず。
――よほど気になったら、申し訳ないけど言えばいいわよね。
そんなつもりで刺し始めたハンカチ。針を進めているうちに、ふと気づいた。ネルさんがいると、なぜか静かで落ち着く。小さな作業部屋には針の音と紙をめくる音だけ。会話もないのに、なぜか心地いい。
「……刺繍って、見てると眠くなるな……」
ネルさんがぽつりと呟いた。日々忙しく駆け回っているようだし、人と会うことは気も使うから疲れて当然だ。そこへきて単調な刺繍作業なんて見ていたら、眠くなるのは必然な気がした。
「じゃあ、寝ててください」
子守歌ならぬ……、見ていて眠くなるなら子守絵みたいなものってことかしら。
笑いながらそう口にすると、彼も笑って椅子の背にもたれた。
「……悪いな。なんか、落ち着くんだよ。こういうの」
ネルさんが同じことを考えていたことにドキッとする。聞こえるか聞こえないかくらいの声量で「……私もです」と呟いてみたけど、彼には聞こえなかったかもしれない。
……あっという間に寝てしまったネルさん。まさか本当に寝てしまうとは思わず、苦笑してしまったけど、それだけ疲れていたんだと思う。
針を進めながらちらりと横目で見ると、ネルさんは静かに呼吸を繰り返していた。膝の上に開いた資料はそのままだ。少し肌寒そうに見える。
私はそっと席を立ち、部屋の隅に置いてあった膝掛けを手に取った。
その肩にふわりとかけると、彼はわずかに眉を動かしたけど、目は覚まさなかった。
「二十四歳って言ってたけど、……寝顔はなんだかあどけないのね。こうして見ると童顔かしら? 普段は色っぽく見えるから大人びているのに」
それにしても、……婚約者でも恋人でもないのに、私にこんな顔見せていいのかしら。
そもそも二人きりで作業部屋にいることが問題な気もするけど、ネルさんと私は上司と部下なのだし、これは仕事なのだから問題ないわよね。……そう自分に言い聞かせ、また針を進めることにした。
誰かがそばにいて、何も言わずに時間が流れる。こんな時間が心地よいなんて、何だか不思議だ。
ダリオと同棲していた頃は……。
『おい、まだやってんのかよ。腹減ったんだけど』
『あ~、リビングで刺繍されるとちょっと気ぃ遣うから、部屋でやってくんない?』
……そういえば、否定的な言葉しか聞いたことがないと思ったら、スンとしてしまう。
穏やかにすやすや寝息を立てるネルさんに、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じたけど、慌てて頭を左右に振った。
……これは恋じゃない。ただ、誰かに見守られることが優しいってことを思い出しただけ。そう、両親が生きていて私の刺繍を褒めてくれた時のような――。
それからも、度々作業室に来るようになったネルさん。だいたい、おやつと書類を手にしながらやってくるのだけど、その日は何やら真剣な表情でやってきた。
憮然とした表情に、ひと目で何かあったのだと感じる。取引がうまくいかなかったんだろうか。
話したかったら話してくれるかしら、と思いつつ針を進めていると、しばらくしてネルさんが口を開いた。
「……ヴェレド商会、だいぶ傾いてるらしい」
資料をめくりながら、ぽつりと落とされた呟き。
「従業員が次々と辞めてるってさ。うちにも何人か面接に来てるんだけど……。でもさ、あいつら、リュシアが追い出されるとき、見て見ぬふりしてた連中だろ? 絶対落とすから安心しろ」
「ネルさん」
名前を呼ぶと、ネルさんはむっとした顔を私に向ける。
「俺、知ってるんだぞ? あいつら、あのとき――」
「わかってます。でも、彼らにも生活があるんです。あのとき私を助けなかったのは、これからの生活を考えると怖かったから。ただ、それだけです。……腕は確かです。だから、雇ってあげてください」
私の言葉に、ネルさんはしばらく黙っていた。
そのうち、低く呟いた声は明らかに不機嫌そうで。
「……おまえ、それでいいのかよ」
「はい。私は、もう前を向いてます。彼らを責めても何も変わりませんから」
ネルさんはしばらく黙っていたけど、ぽつりと呟いた。
「……でも俺は、まだ許せない」
その言葉になんだか胸が揺れた。
驚きと戸惑いと――そして、ほんの少しの温かさ。
……私のことで、こんなふうに怒ってくれる人がいる。
誰かが自分のために怒ってくれるというのは、思っていたよりもずっと心に沁みた。
「……ありがとうございます」
「……別に、礼を言われるようなことじゃない」
私の言葉にネルさんはふいっと顔を背け、照れたように視線を逸らした。
それにしても……ヴェレド商会――旧アルフェネ商会は、どうなっているのかしら。




