18.カフェ・ミルフィユ
休日のその日。私はカフェ・ミルフィユの前にいた。
扉を開けると、甘い焼き菓子の香りと微かに漂うスパイスの匂い。混雑する店内を見渡すと、いつもの場所に彼女の姿を見つけた。
まるでそこだけは流れる時間が異なるかのよう。窓際の特等席には寛ぐマティルダ。その膝の上で看板猫のミルが丸くなっていた。
「マティルダ、お邪魔します」
「まあ、リュシア。いらっしゃい」
マティルダは白髪交じりのグレー髪をお団子にした品のいい老婦人。元・アルフェネ商会の刺繍部門主任で私に刺繍を教えてくれた人であり、師匠ともいえる存在だ。
残念ながらリウマチで両手の指が思うように動かなくなり、商会を辞めた後はこの娘夫婦のカフェで大半の時間を過ごしている。
丸眼鏡の奥で目を細め、私のことを孫のようにかわいがってくれるマティルダ。他人の口から耳に入れるよりはと、家と店を失ったことを伝えるのは心苦しかったけど、マティルダは一緒に怒ってくれた。
きっと、いつか取り戻しますと言った私に、何度も頷き、力になると言ってくれた頼もしい存在だ。
私は小さな布包みを差し出した。中には乾かした柳の樹皮を丁寧に刻んだ茶葉。
「薬草屋で分けてもらったの。柳の樹皮茶……関節の痛みに効くって聞いたから」
マティルダは包みを開くと、ふわりと立ちのぼる香りにうっとりと目を瞑った。
「……懐かしい香りね。昔、アルフェネ商会の刺繍部屋で煮出してたわ。あの頃は、痛みなんて気力で縫い飛ばしてたけど……今は、こういう優しさが沁みるのよ」
ミルがマティルダの膝から下り、小さく鳴いて足元にすり寄ってくる。私はしゃがみ込むと、そっとその背中を撫でた。
「……リュシア、生活はどう? 困ったことはない?」
「うん。新しい雇い主はいい人だから心配しないで」
「ハンサムでお金持ちで優しくて……口は悪いんだったかい? それでもそのネルという人は、よほどの変わり者だね」
「マティルダったら……」
運ばれてきた紅茶に口をつけながら、思わず苦笑してしまった。
マティルダが何を考えているかはわかる。きっと、ダリオと別れて傷心中の私が、またもやころっと騙されてしまうことを心配しているんだろう。だからといって、ネルさんのことをそんな風に悪く言わなくても、当分の間、恋はこりごりだから心配いらないし、ダリオのことは微塵も引きずっていない。
「しばらく仕事一筋で頑張るから大丈夫。それに、ネルさんは人として素晴らしい人よ。本当よ?」
「……そうかい? それならいいんだけど……。もし、次に彼氏ができそうなときは先に連れてくるんだよ? 私が人となりをよ~く見てやるからね?」
「ふふふ、はいはい、そうしますね。それで――」
私は周りを見渡しながら声を顰めた。
「依頼の方はどんな感じですか?」
「かなり来ているよ。厳選しといたから、ついておいで」
マティルダの後に続き、娘さん夫婦が用意したマティルダ専用の作業室へと向かう。こじんまりした小さな部屋には書類や今まで手掛けた刺繍の類、古い図案などが所狭しと置かれていて、私からしたら宝のような部屋だ。
毎度案内されるたびに目を輝かせる私に顔を綻ばせながら、マティルダは今回の依頼について説明をする。
「依頼が増えているんだけど、リュシアが受けられる仕事の量にも限りがあるからね。“強くなりたい”なんていう願いには体を鍛えるように返しといたよ」
「まあ。そんな依頼が? 刺繍するにしても図案が難しいわね」
「だろう? そういうわけで、今回の依頼はこの辺りはどうかと思うんだけど」
私はマティルダが選んだ三通の封筒からひとつを手に取った。
一人目は常連様だ。刺繍が趣味だったその方は目の病気で視力を失ってから定期的に依頼をくださる。
ご家族が代筆した手紙にはこんなことが書いてあった。
“目が見えなくなってから針を持つのが怖くなってしまったわ。だけど、孫の結婚祝いだけはどうしても自分の手で贈りたいの。だから、あなたの手をまた借りてもいいかしら。私の代わりに、祝福を縫いこんでくれますか”
「ええ、もちろんだわ。彼女からの依頼は私まで幸せな気持ちになれるもの」
彼女は毎回、家門入りのハンカチを新郎新婦に贈り続けている。実はこの依頼を受けるのはもう五回目なのだ。
初めての依頼の時に預かった、かつて彼女が刺繍をしたという家紋のハンカチに寄せ、私は彼女の刺繍癖を再現するよう祈りを込めた。
完成品を手にした時、彼女は「これは自分の手の記憶だ」と泣いて喜んでくださったのだとか。それを聞いた時は本当にうれしくて。糸守人冥利につきるお客様なのだ。
二人目は自分に自信のない女性からの恋のお守り依頼。
“彼に会うたび、胸が苦しくなるんです。だからどうか、勇気が出るような文様を私のために編んでください”
「想い人への贈り物を代わりに作って欲しいっていう依頼は多いけど……自分自身のお守りにしたいって方は珍しいわね」
「だろう? リュシアならこういう依頼が気に入ると思って」
「さすがマティルダ。私のことを誰よりも理解してくれているのね」
「はははっ、あたりまえじゃないかい。それと、最後はこれだ」
そう言ってマティルダが差し出してきたのは、美しい文字が流麗に流れるメッセージ。たった数行の文字から品性が滲み出るだなんて、きっと高位貴族のご令嬢か奥様ね。
「これは……大切な人を見守りたい方の依頼かしら」