14.祈りのハンカチ
ネルさんの家で始まった奇妙な寮生活は、案外心地がよいものだった。
家政婦として雇われたはずなのに、彼らが家に立ち寄ることは週の半分もない。掃除は専門の人が入るから、自分の身の回りのことだけしていればいいとのこと。確かに、広すぎてとてもじゃないけど掃除は無理だな、と遠い目になる。
毎朝厨房で料理をして朝食を作りながら持っていくランチを作り、夕食は買い物をして帰って作って食べる……そんな毎日だから、以前とあまり変わりはないのだけど、ダリオの世話がない分、ずいぶんと自分の時間があるような気がしている。
ネルさんとヴィスさんは外食が多いらしく、ここで食べたのは数えるほど。それでも一緒に食べる時はとっておきのレシピを振舞った。庶民の食事しか作れないけど、二人とも物珍しそうに何でもおいしいと食べてくれるから、作り甲斐がある。
そんなわけで、楽しく仕事と刺繍に精を出す日々だ。
歩いて数分ほどの場所にあるクラヴァン・トレード商会は古びた倉庫を使っている倉庫兼事務所で、他国から運ばれる品々が日々届く。検品や納品で忙しく人の出入りがある中、私にとりあえず与えられたのは帳簿の類を捌く仕事だ。
ネルさんはずいぶんと顔が広いらしく、フットワーク軽く飛び回っている。既存の商品だけでなく新規ルートの開拓にも熱心で、この商会は今後どんどん成長していくだろうなという熱量を肌で感じる日々である。
そして、仕事終わりに毎晩少しずつ進めていた、ネルさんへの刺繍入りハンカチがようやく完成した。
悩んだ結果、この国の神話物語に出てくる還巡草をハンカチの中央に配置することに。四隅には風紋と水紋が交差する文様を縫いこんだ。還巡草は巫女が儀式のときに使ったとされる幻の草。だけど現存していないこともあり、あまり知られてはいない。知っているとしたら、古典が好きな読書好きさんか薬草の歴史を学んだ薬師くらいだろうか。
商人であるネルさんは多くの人に出会うはずだし、悪意を向けられることもないとも言い切れない。因果や流れの調和を図り、万事彼の身の回りがうまくいくことを祈った。
その日、私は事務所に出勤してきたネルさんとヴィスさんの姿を目にするや、すっと立ち上がった。
「ネルさん、少しだけお時間いいですか?」
「ん? なんだよ、改まって」
「いえ。えっと……これをお渡ししたくて」
簡単に包装しリボンをかけた小さな包み。ネルさんは受け取ると、私の顔を一瞬訝し気に見て、すぐに包みを解いた。
「ハンカチ……?」
「仕事や仮住まいのこと……いろいろご配慮いただいたお礼です。刺繍は、ネルさんの身の回りが万事うまくいくように祈りを込めました」
「え!? なんで俺に……っ」
きゅっと唇を引き結び、困惑した表情のネルさん。あ、これは勘違いされそうと思い、慌てて訂正する。
「あ、いえ、その、回り回ってクラヴァン・トレード商会がうまくいきますように、と思って」
にこっと笑いかけると、ネルさんは数秒固まった。
「いや、もらわないとは言ってないけどな!? いや、そういう意味じゃなくて……!」
なぜか慌てふためくネルさん。綺麗な顔をした裕福そうなこの男は、こんな贈り物くらい、いくらでも受け取ったことがあるだろうに。
そのうち不機嫌そうにぶすっとした彼は、ジト目で私を見てきた。
「……おまえ、俺が上司だからって気を遣ってんのか? その……、これは営業的な意味……?」
「営業用なら祈りは込めませんよ」
そう首をかしげると、ネルさんはわずかに言葉を詰まらせた。
「……っ、とにかく、ありがとな。ってことで、これで商会が上手くいかなかったら、おまえの刺繍がダメってことにするからな」
「ふふ。じゃあその時はもう少し大きめの刺繍を作ってがんばりますね。ヴィスさんのはもう少しお待ちください」
「ヴィスにも作んのか……」というネルさんの言葉に、ヴィスさんは小さく頷いていた。「おまえ、断らないのかよ」と聞こえた気がするけど気のせいよね? さて、ヴィスさんには何を作ろうかしら。
ひとしきりハンカチをしげしげ眺めたネルさんは、「まあ、どうせすぐ汚れるから予備はたくさんあった方がいいし」と言いながら、すぐにポケットへしまったのである。
*
数日後――。
ネルの胸ポケットには、不自然に飛び出たハンカチがあった。従業員たちが思わず声を掛ける。
「あれ? ネル様。素敵なハンカチですね」
「……ん? あぁ、たまたま。たくさん持っているんだが、今日はこれにしたんだ」と謎の言い訳をするネル。
ヴィスはその後ろで内心笑いをかみ殺していた。
リュシアに贈られてから肌身離さず持ち歩いているハンカチ。かなり浮かれているようだが、わからないでもなかったからだ。
その美貌や地位だけに目がくらんだ女性から引く手あまたのネルは、日々山積みの贈り物をされている。だが、その行動に対して贈り物をされたことはなかったんじゃないだろうか。
「ネル様の魅力は容姿ではなく、そのツンデレに隠されたお人好しなところなのに実に口惜しく思っていたのです」
「あん? ヴィス、なんか言ったか?」
「いえ何も」
「ところで、リュシアはどこだ? せっかく差し入れを買ってきたのに……」
この日、朝から王都の中心にある老舗パティスリー・マテリエルに二人の姿はあった。朝から長蛇の列ができる人気店に、ひときわ目立つ長身の美青年たち。
朝日が照らす美しい紫紺の髪、妖艶さすら漂う切れ長の赤い瞳。身なりのいい平民風に装っても、ネルはどう見ても“貴族の若手騎士”か“舞踏会の貴公子”で、焼き菓子店の列にいるのがそもそも場違い。
周囲の視線が集まり始めたそのとき――背後から近づいたヴィスは、すっとネルに帽子を押しつけた。
「まったく。ご自身の容姿が目立つとご存じなのに、自覚されているより百倍は目立つんですから、困ったものです」
「んだよヴィス、暑ぃ」
「騒がれたくなかったら、帽子をかぶってください」
「……了解」
ネルは渋々帽子をかぶり直したが、仕草が洗練され過ぎていた。列の前のご婦人方が「ご覧になりました? あのお顔立ち……!」と目を潤ませる。
「……で、これ本当に並んで正解なのか?」
「リュシアさんが“焼き菓子ならマテリエルが一番”と口にしていたのを、二週間も覚えていたのは、どこのどなたですかね?」
ネルはムッとした顔でそっぽを向きながら、「別に……偶然だろ」と、つぶやいた。
「義姉上が言ってたんだ。マテリエルのパン・デピスを並んで買ってくるような男は最高だって」
「義姉上とは、何番目の……」
「一番上」
「……さようですか」
ヴィスは思った。
もし、主に恋人ができるようなことがあったら……第四王子を溺愛する三人の兄王子+その伴侶である妃たちがどうなることか。
いずれも曲者なうえ、ラスボスともいえる両陛下までもが控えているのだ。
「なかなか恋人ができなくて当然か……」
ヴィスはネルの未来のお相手の女性が、とても気の毒になった。




