9.裏稼業
「まずは……どこで生活をしていくかね」
家を取られてしまったから、一人で住む家も探さないと。両親の遺産は新居に使ってしまったし、貯金もかなりの額をダリオに使われてしまったから、残りはわずか。
「はぁ……。当面はここに寝泊まりしないとダメね。まあ、シャワーもあるし小さなキッチンもあるから不自由はないけど」
ふと、注文票の束が目に入った。仕事は山積みだ。
「……うん。稼がなくちゃ」
何をするにでもお金は必要だ。
もうダリオの世話をしなくていいのだから、夜も作業ができるもの。私はさっそく作業を始めることにした。
バッグから取り出した革張りの分厚い手帳は、私の“綴匿帳”だ。
実は、商会とは別にこっそり貴族女性からの秘密の注文を受け、刺繍の代行を請け負っている。
口コミで広まったこの仕事は、当初刺繍が苦手な女性の哀願によって始まったものだったけど、時間も手間もかかる刺繍をする暇がない、そもそも苦手、凝った刺繍をしたいけど技術がないなど、依頼の理由は様々だ。
この国の事情を鑑みれば、刺繍の代行を頼んでいるなんてタブー中のタブーなわけで注文も受諾もとある場所を通してこっそり行っているのだけど、案外この秘密の依頼は漏れていないので、裏稼業と化してしまっている。
刺繍代行を始めて、すでに十年。今まで依頼してきた顧客は、きっと熟練の職人が秘密裏に依頼を受けていると思っているだろう。
「まさか、私が十二歳の時に始めたとは思いもよらないでしょうしね」
素材に囲まれて育った私が刺繍にのめり込むのはごく当然の流れだったわけで。
“好き”を飛び越えて“愛している”の域に達している私は師匠の下で腕を磨き、あらゆる文献を読み漁り、古代の祈祷文字や伝承を研究し、独自の祈りを込めた刺繍をしている。
そのかいあって、“恋愛が成就した”、はたまた“縁切りができた”など、願いが叶うという噂も流れているのだとか。だけど――。
「……刺繍にそこまでの力はないわ。その人の強い想いが引き寄せただけなのに」
小さく首を左右に振り、綴匿帳に記された依頼に目を走らせる。
今日手掛けるものは、辺境で任務に励む婚約者が日々無事で暮らせることを願ったハンカチの刺繍依頼。
家族の介護に婚約者の家族の世話と忙しく、自分の代わりにお守りを作ってほしいというものだ。
「……きっと、心根の優しい方なのね」
二つが重なるような図案が良さそうな気がする。穏やかにお二人の仲が深まっていくように、四隅には結び文様を極小で配置してみようかしら。
ササッとペンを走らせながら図案の構想を書き出す途中、ふと、リビングに落ちていたハンカチを思い出した。
「そういえば、あれって、セリナにねだられて私が刺繍したやつよね」
確か、玉の輿に乗れる文様をねだられたけど……。
「……ダリオが相手じゃ、玉の輿には乗れそうもないわね。似た者同士、お似合いよ」
私は頭を振り払い、図案の構成に目を落とした。
*
ここ数日、どう見ても事務所で寝泊まりし、作業室に引きこもっている私。以前からダリオの悪い噂が流れていたこともあり、当然、従業員たちは私とダリオの間に何かがあったのだろうと推測するわけで。
何か聞かれる前にと思い、自分から「ダリオとは別れた」とだけ伝えると、彼らは何度も頷いていた。
「こう言ってはなんですが」と前置きしつつ、ほとんどの人がこれで良かったのだと口にしたことで、客観的に見ても、私たちはどこか危うかったんだなと、今さらながらに苦笑いしかない。
ある日の夜。
店を閉めた後も遅くまで作業に没頭していると、両親の代から働いているマーサが訪ねてきた。すでに初老という年齢に差し掛かっているものの、その目利きと豊富な知識で顧客から絶大な信頼を寄せられる。
彼女の手には、おいしそうな香りのする籠。私が小さな灯りの下で作業に没頭している様子に、マーサは眉尻を下げた。
「リュシア様。つらい時こそしっかり食べないとダメですよ」
「あ……、マーサさん……」
ふくよかなマーサはにっこり微笑むと、温かいうちに食べるようにとスープやサンドイッチを置き、「また明日」と帰って行った。わざわざ持ってきてくれたことに、申し訳ない気持ちと言い表せない感謝の気持ちでいっぱいになる。
そういえば、ここ最近食事を忘れることが多く、少し痩せてしまったかもしれない。
お皿には、豆と肉を煮込んだスープから湯気が立ち上っていた。手を休め、私はスプーンを手にする。
ひと口食べると、白いんげん豆のやさしい甘みが口の中に広がった。じっくり炒めた野菜と肉の旨味が溶け出したスープが、疲れた身体にじんわりとしみ込んでいく。
サンドイッチの包装紙には、マーサの癖のある字で「よく噛んで食べること」と書かれていた。マーサにとって私はいつまでも子どものような感覚なのだろう。思わず苦笑いをしてしまう。
卵とマッシュルームのサンドイッチを頬張っているうちに、張り詰めていた心がほどけていくようだった。
――そうよ。私にはこの店がある。両親から受け継いだ大切なこの店を守っていくためにも、しっかりしなくちゃ。
そう決意をして昼夜問わずより一層作業に励み、事務所での寝泊まりを始めて一か月が過ぎた頃だった。
*
開店を一時間後に控え、従業員が少しずつ出勤してきた頃。アルフェネ商会の前に、黒服の男たちが無言で列を作った。その中心に立っていたのは、高級なスーツに身を包んだダリオと派手なドレスを身に纏ったセリナ。
「臨時休業の張り紙、ちゃんと貼ったか?」
「はい、ダリオ様。通達も完了しております」
店先の掃除をしようと出てきた店番の少女が慌てて戸口から顔を出す。
「ちょっ……な、なんですか、あなたたち――」
「おっ。鍵をぶち壊さなくて済みそうだな」
ダリオは唇だけで笑い、手にした一枚の書類を軽く掲げた。
「アルフェネ商会を正式にヴェレド商会に名義変更をした。今日からここは俺のものだ」




