罪と罰
水が枯れゆく大地、夜の帳に沈む世界、そして過去の影の前...
この章では、生存のための旅が新たな局面を迎え、恐竜と少女、
直面するものは、単なる試練ではなく、過去と未来が交錯する運命の渦である。
恐竜は下流の方をじっと見つめた。
まるで、深淵を覗き込むように。
「そこには……我々が食べ尽くした罪人たちがいる...」
その瞬間、恐竜の表情が一変した。
今までに見せたことのない、怯えたような顔だった...
「今もそこで、待っているのか。」
少女は不安げに尋ねた。
「そんなに危険なら....」
恐竜はゆっくりと河の流れを指さした。
川の水はすでに細くなり、干上がりかけている。
「ここで飲める水は、この川しかない。
もうすぐ完全に干上がる。そうなったら、ここも終わりだ。」
「こんなにも突如として異変が続くなんて……
外で何かが起こっているに違いない。」
少女のセーターの襟元がわずかに動き、
かつての口元の下から露わになった歯が覗き、
まるで笑みを浮かべているかのようだった。
「腿がこんなふうになったら、歩くのが遅くなるんじゃない?」
恐竜はゆっくりと地面に座り込んだ。
両脚を交差させ、右手で左脚を掴むと、非常に慎重に後ろへ引いた。
裂けた骨の鋭い断面の逆方向へ向けて、
まるで文字をなぞるかのように骨を這わせ...
恐竜は静かに言った。
「少し眠る……」
そう言うと、恐竜はそっと左脚を地面に下ろし、目を閉じた
どれほどの時間が経ったのか分からない。
目を開けると、空はすでに暗く、夜が訪れていた。
辺りを見回すと、焦げた大地と焼けた木々が広がるばかりで、
ほかには何もない。恐竜は首を巡らせ、空を見上げた。
幽玄な夜空の下、月が冷たく光り、
まるで独眼の巨人が俯いてこちらを覗き込んでいるようだった。
恐竜は自身の不安を覆い隠すかのように、かすれた声で呼びかけた。
「……人は?おい、もう、行ってしまったのか?」
そのとき——
月光の下、一つの影が静かに現れた。
静寂の中、滑らかな肢体のシルエットは
しなやかでありながらも優雅に歩み寄ってくる。
恐竜は眉をひそめ、ぼそりと呟いた。
「……俺のセーターは?」
光に照らされ、少女の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
肌は月光を反射し、淡く輝いている。
恐竜の胸に、かすかな違和感が広がった。
立ち上がろうとする——
だが、全身の力が抜ける。
恐竜の耳元で、馴染みの少女の声がささやいた。
「傷がまだ癒えていない。もっと休んだほうがいいよ。」
少女はゆっくりと歩み寄り、恐竜の隣に腰を下ろした。
「歌を歌ってあげる。すぐに眠れるかもしれないよ。」
低く沈んだ声が、静寂の夜にゆっくりと響き渡る。
「天を見よ...高き空...」
「夜の帳...星は回る...」
「幾億年...過ぎし時...」
「牢は破れ...神目覚む...」
それは、遥か昔より伝わる古の歌。
人類が生まれるよりも前から囁かれ、
今、再びこの夜に甦る...
歌声はさらに低く、深く、まるで地底から響いてくるようだった。
心に忍び寄るかのように、メロディーが闇の中で蠢く。
「彼ら来る...影は舞う...」
「恐怖知る...心嗤う...」
「焔揺れ...星は狂う...」
「厄災告ぐ...滅び来る...」
歌声と共に、空気が重くなった。
まるで見えない何かが空間に満ち、這い寄ってくるかのように。
影が蠢き、遠くで何かが囁く。
「慄えよ...慄えよ...厳冬迫る...」
「極寒の刻...闇出でる...」
「海の底...地の奥...」
「天より堕つ...遍く在り...」
それは歌なのか、呪いなのか。
だが、メロディーは止まらない。
「狂気舞う...痛み絶えず...」
「絶望の淵...影は嗤う...」
最後の旋律が響くと、
まるで夜そのものが深く沈み込んだかのように、
すべての音が消えた。
——沈黙。
恐竜は薄暗い空を見ながら、
ゆっくりと眠りに落ちていった。
まどろみの中で、空はやがて深い海へと変わる。
夢の中、恐竜は波間を漂っていた。
雷鳴が轟き、稲妻が海面を裂くかのように、
海には、巨大な石像がそびえ立っていた。
石の巨人たちは双手を頭上に掲げ、
絶望な顔は天空に何かを呼び求めるように立ち並んでいた。
一つ、また一つ——
それは祈りのようでもあり、
あるいは、深海の闇に潜む何かを恐れているかのようでもあった。
まるで叫び、哀嚎し、救いを乞うかのようだった...
吹き荒れる暴風、雷鳴轟く嵐の中でも、
恐竜は穏やかに波間を漂い続けた。
まるで、どこからか流れ着いた木片のように、
そのまま波に揺られていた。
やがて空はゆっくりと晴れ渡り、
海は穏やかさを取り戻していく。
恐竜の肩が小さな岩礁に触れた。
その瞬間、一羽のカモメが降り立つ。
鳥は小さなくちばしを水面に差し入れ、
一匹の小魚を器用に捕えた。
そして、羽を整え、
腹を小さく震わせた後、満足げな声を上げた。
その音に反応するように——
恐竜は目を開いた。
しかし、そこにいたのはカモメではなかった。
ぼんやりとした視界の中、
恐竜の前には、セーターをまとった少女は立っていた。
少女は恐竜の左脚を見下ろした。
傷口はすでに完全に回復し、
まるで何事もなかったかのように...
恐竜は疲れたように腹を撫でて、
少し後悔するように呟いた。
「もっと小麦を持ってくればよかったな……」
少女は微笑みながら、
小さな包みを開いた。
包みは折り重ねた緑葉で包まれていた。
「丘の向こうにはたくさんの果樹があったの。」
包みの中には、色鮮やかな果実がいくつも詰まっていた。
その光景を目にした瞬間、恐竜は驚愕し、声を上げた。
「ここのは食べちゃダメだ!」
少女は心配そうに眉をひそめた。
「毒があるの?」
「……」
少女は困惑しながらも、静かに続けた。
「でも、眠っているうちに、もう少し食べさせちゃった……」
恐竜の表情は、一瞬驚きに満ち、その後、強い恐怖へと変わった。
「……逃げろ!」
恐竜はとっさに少女を抱え上げ、
下流へ向かって全速力で走り出した。
走りながら、恐竜は少女の毛衣の隙間から肌に目をやった。
それは徐々に干からび、しわが刻まれ始めていた。
恐竜の脳裏に、かつて読んだ書物の一節がよぎる。
それは——
「腐敗」という刑罰についての記述だった。
少女はまだ驚愕の中にいたが、
それでも嬉しそうに小さな叫び声を上げた。
恐竜が小川に沿って疾走する中、
少女の視界には景色が残像となって流れていく。
足音のリズムが絶え間なく響き、
その一定の揺れがまるで子守歌のようだった。
その心地よい揺れに包まれながら、
少女は次第にまぶたを閉じ、
恐竜の腕の中で静かに眠りに落ちていった。
少女は遠くから聞こえてくる狼の遠吠えに
驚き、目を見開く。
しかし、目の前に広がるのは一面の白銀の世界だった。
以前のセーターは、白い厚手の綿入りのコートへと変わっていた。
自身が乗っているのは犬ぞりであり、
それを引いているのは黒と白の毛並みを持つ一匹の狼だった。
雪に覆われた大地を滑るように進みながら、
狼は次々と丘を越えていく。
やがて、遠くに異様な光景が広がった。
雪に包まれた動物たちの像が、
まるで生きているかのような姿勢で点在していた。
鹿の群れ、熊の影——
さらには、一本の木に飛びつくような姿勢の豹の像まであった。
少女の視線はさらに先へと向かう。
遠方にそびえるのは、一つの巨大な山——そう思われた。
だが、距離が近づくにつれて、それは山ではなく、
ゆっくりとした螺旋を描く巨大な殻を持つ、雪に覆われた一匹の蜗牛だか。
前部は、隣接する孤立した崖に寄り添うようにして、静かに佇んでいた。
少女は狼の手綱を握り、方向を変えようとした。
しかし、その瞬間、違和感を覚える。
これは自分が操れるものではない。
狼の足取りは迷いなく、
まるで少女をどこかへ運ぶ“荷物”のように進んでいった。
突然、地が激しく揺れた。遠くの山が動いた。
まるで大地を突き破るように、
白銀の峰が隆起し、積もっていた雪が崩れ落ちる。
その下から、一列ずつ黒い付属肢が現れ、
巨大な“山体”全体を揺り動かしていた。
「えっ……来るのか……!」
少女は息を呑んだ。
まだ距離はある。すぐには追いつかれない。
そう思った瞬間——
孤立した崖が、まるで解体されるかのように砕け散った。
そこには——
縦に広がる巨大な顎があった。
その内部には幾重にも重なる鋭い牙が、
左右にうごめいていた。
さらに顎の下から、巨大な触手が現れた。
雪煙を巻き上げながら、天へと伸びるそれは、
怪物本体をはるかに超える高さを持ち、
雲の向こうへと消えていった。
そして——
轟音とともに、それが少女の方へと振り落とされた。
影が広がる。
少女の視界は、一瞬にして暗闇に包まれた。
次の瞬間——
恐竜の鋭い悲鳴が響き渡る。
少女が目を開けると、
目の前の光景が急速に流れ去っていくのが見えた。
「……え?」
自分の体が空中に投げ出されている。
自由落下——
少女は恐怖に震えながら叫んだ。
「な、何が起こったの!?」
横を見ると、恐竜も同じく落下していた。
必死に足をばたつかせながら、
焦った様子で言う。
「誰が想像したよ……最後が滝だなんて!」
.
.
.
「ドボン——」
.
.
.
少女は再び目を覚ました。
目の前には、揺らめく炎。
篝火の暖かな熱気が頬に心地よく当たる。
視界がはっきりすると、
篝火の向こう側に座る恐竜の姿が目に入った。
険しい表情で見つめた恐竜は左手に碗を持ち、
足元の壺から何かを汲み、
口へ流し込んでいた。大口を開けて豪快に咀嚼し、
満足げに喉を鳴らした。
右手には長い木の棒。
その先には、香ばしく焼かれた一匹の豚。
豚の頭部は棍の先にしっかりと固定され、
その口には丸焦げの林檎が突き刺さっていた。
少女は身を起こし、眉をひそめた。
「そうすれば、この林檎、焦げてるじゃない……」
恐竜は少女を見て、表情は真剣から満面の笑みを浮かべた。
「これはな、果汁が豚の口から肉に染み込むようにしてるんだ。
こうすると、外はパリッと、中はジューシーになる。」
少女は笑いながら口を開いた。
「それなら、林檎は豚の腹に詰めたほうが、
もっと味が染みるんじゃない?」
少女は腕を組んで考え込んだ。
そう言ってから、不思議そうに尋ねた。
「ていうか……どうしてそんなことを思いついたの?」
「私が教えた。」
その瞬間、篝火の向こう側で、
静かに座っていた影があった。
骨だけの、白い骸骨。
骸骨はゆっくりと立ち上がると、
篝火の揺れる光の中で、伸ばした右手、
骨の指先が僅かに動き、燃え焦げた林檎を指し示した。
「君は思わないか?この料理の手法は、実にロマンチックだと。」
骸骨は微笑むように口を開き、ゆっくりと語った。
「おはようございます。
私はアドルフ・ヒトラーです。」
そして過去の罪人が蘇るこの地で、何を見出すのか。
次なる旅路の待つものは、救済か、それともさらなる試練か。
この物語は、まだ終わらない。これは始まりだ。
この物語を読んでくださった皆様に心より感謝申し上げます。