第9話 はい、チーズ
手すりを握る手に力がこもる。手のひらから心拍の高鳴りが伝わってくる。調子に乗り始めていることは察知していた、なにかしでかす前に止めようと目を離さなかったのに。くそ、もうすでに現在進行形だ。
「おい! 本当に大丈夫なのか? 絶対に怒らせるなよ!?」
「大丈夫、大丈夫! この子たち、たぶん幽霊見慣れてるよ」
水瀬ミヤコが笑いながらひらひらと手を振る。ふれあい広場で動物たちに自分の姿が視えていることを確信した二人は、幽霊であることを最大限に活かし、生きている人間には到底できない方法で動物園を楽しみだした。現在、二人は客と動物たちの世界を隔てる鉄格子をすり抜け、猛獣エリアのとある檻の中にいる。しなやかな体躯と鋭い爪、黄金色のたてがみ、気怠そうに、しかし悠然と横たわる百獣の王ライオン。彼らの真横で楽しそうに声を上げている。
「さっちゃん、怖いだろ。こっちにおいで、その馬鹿に付き合う必要はないんだ」
「こわくないよ、おっきなネコさん、かわいいね」
「ネコじゃない……!」
「きゃーっ! 見て見て来栖くん!ライオンに乗っちゃった! 人類初かも!?」
「やめろ! 騒ぐなと言ってるだろ! 視えてるならきっと聞こえもしてるぞ!」
ライオンは一見無関心そうだが、鋭い目つきには油断できない迫力がある。彼女たちが歓声を上げるたびに耳がピクリと動き、尻尾を地面に打ち付ける。この状況をほかの客や飼育員に見られたらどうなる。猛獣の鉄格子の前で一人叫んでいる僕の姿はどう考えても不審者そのもの。ライオンが暴れでもしたら最悪、出入り禁止になるかもしれない。そうなったらふれあい広場のあのウサギ達に会えなくなる。
「さっちゃん、ほら、もういいだろ? ネコさんが怒る前に戻っておいで」
「お兄ちゃん、だいじょうぶだよ。このこたち優しいから」
さっちゃんはライオンの顔をじっと見つめながらほほ笑んだ。本当に、恐怖心なんて微塵も持っていないようだ。無垢な子供に対してはライオンも気分を害したりしないのかもしれない。しかし……。
「来栖くん、さっきのカメラで写真撮ってー! 記念になるから!」
あれは論外だ。ライオンの背にまたがり大きく手を振りながら叫ぶあれは無垢と程遠い。邪。心なしかライオンも目をつぶり迷惑そうにしている、気の毒になってきた。とにかく早くこのエリアから移動させるために、リュックの中からさきほど売店で購入したインスタントカメラを取り出す。もちろん水瀬ミヤコに催促されてしぶしぶ買ったものだ。
「撮るからじっとしてろ! さっちゃん、こっち向いて笑って……」
「ねえ、態度! 態度が違いすぎる気がするんですけど!」
「気がするじゃない! 変えてるんだよ!」
「ネコさん、カメラみて……?」
ファインダー越しに確認できる二人の姿は、あくまで僕の霊感の強さに依って視えているもの。現像した写真にも彼女たちが写っているのかどうかなんてわからない。それでもとりあえずの思い出作りとして付き合ってみる。
「はい、チーズ」
***
「疲れた……」
パラソルの立てられたプラスチックのテーブルと椅子が並ぶイートインスペースで、コーラを片手に盛大なため息をついた。周りでは家族連れやカップルが思い思いに休んでいる。僕は独り、悲愴とも呼べるほどの疲労感に苛まれていた。照りつける日差しの暑さすらも忘れていた。冷たい炭酸が体に染み渡る。あれだけ騒いでおいて疲れを知らない彼女たちが羨ましい。
「はー、面白かった。幽霊特典満喫しちゃった」
「その特典とやらのせいで僕はずっと胃が痛かったぞ……」
さっちゃんは少し離れた花壇の前に立ち花々の観察をしている。水瀬ミヤコは隣の椅子に腰を下ろすと、テーブルに肘をついて僕の顔を覗き込み、満足げに笑った。
「来栖くん、繊細そうだもんね」
「君は女子らしからぬ豪胆さだもんな」
「強い女の子の魅力がわからないなんて、来栖くんもまだまだ子供だね?」
「……わからない。君は可憐な学園のマドンナと聞いていたんだが。 これのどこが可憐だ。なぜ君みたいな奴が人気者でいられたんだ」
コーラを一口含み、隣でニヤついている水瀬ミヤコを見る。彼女の無遠慮な態度や大胆さ、わがままで押しの強い性格。それが学園で噂されていた可憐なマドンナ像とどうしても結びつかない。
「……なぜでしょうねぇ?」
意味ありげに笑みを浮かべながら、首を傾げてみせる。演技がかったその仕草に、またため息をつく。見た目だけ、それだけは良い。悔しいがそれだけは僕も否定しない。
「ねえ来栖くん、帰りにお土産屋さん寄ってほしいんだけど」
「……なにか欲しい物があるのか? さわることもできないのに」
「私じゃなくて、さっちゃんにね。ちょっと試したいことがあるの」
「まあ、あとは帰るだけだしな。いいよ。これ、飲み終わるまで待ってくれ」
「うん、ありがと」
土産屋は入り口近くの建物の一角にあった。店内は広くないものの、所狭しと並べられたカラフルな動物たちのグッズが、購買意欲をそそる賑やかな雰囲気を作り出している。
「かわいい~! こんなにグッズの種類多いんだ? 動物園ハマっちゃいそう」
「すごい……かわいい……」
棚にはぬいぐるみやキーホルダー、文房具、お菓子などが並び、壁は人気グッズのランキング表や動物のイラストが描かれたTシャツなどで埋め尽くされている。水瀬ミヤコは店内を歩き回りながら気に入った商品を見つけては声を弾ませ、さっちゃんも小さな体で棚の間を行ったり来たりしていた。
「さっちゃん、何かいいもの見つかったか?」
「これ……、さっきのネコさんに似てる。かわいい」
頃合いを見て、さっちゃんに話かける。彼女が指さしたのは、可愛らしくデフォルメされた小ぶりなライオンのぬいぐるみだった。ふわふわとしたたてがみと大きな丸い目が特徴的で、愛嬌のある子供向けのデザインだ。
「ライオンか……」
てっきり女児の好みそうなピンクのクマやウサギのグッズを選ぶと思っていたが、彼女はさっきのライオンをよほど気に入ったらしい。棚からそのぬいぐるみを手に取ると、不思議そうな顔で僕を見上げてきた。
「お兄ちゃん、そのネコさん買うの?」
「さっちゃんにね。部屋に飾っておけば、いつでもあのネコさんのこと思い出せるよ」
「サヨリに? いいの?」
「もちろん」
「あ、かわいい! いいねそれ、さっちゃんにぴったり」
「ああ」
「やったねさっちゃん、かわいいお土産ゲット」
「うん、ありがとうお兄ちゃん」
嬉しそうなさっちゃんに微笑み返して、レジで会計を済ます。店を出ると、夕方の柔らかな光が園内を包んでいた。
「楽しかったー。帰るのが名残惜しいね。あっ、そうだ! カメラまだ枚数残ってるよね? 出して、来栖くん」
「……あと一枚。なにを撮るんだ?」
「さっちゃんこっち来て、……よっと」
水瀬ミヤコがさっちゃんを抱き上げて、僕の横にぴたりと並ぶ。
「三人で写ってるのが一枚もないよ。ほら、撮って来栖くん。カメラ見て笑って、さっちゃん」
「うん」
「……周りから見たら、僕が一人で自分を撮っていることになるんだぞ」
「もー、そんなの気にしないの。ちょっとナルシストな男の子だなって思われるだけだよ」
「それが嫌なんだよ」
「早く早く!」
「……はぁ。ほら、いくぞ」
「はい、チーズ!」
水瀬ミヤコとさっちゃんの掛け声が重なり、インスタントカメラ特有の軽いシャッター音が鳴る。
「撮れたよ。……でも、現像しても君たちが写っているかどうかはわからないぞ」
「写ってなくてもいいよ。楽しかったことが大事なの。ね、さっちゃん」
「うん。お兄ちゃんとお姉ちゃんといっしょで、サヨリ、とっても楽しかった」
「……そっか」
二人が楽しんだなら、それで良いんだ。すっかり自然に笑えるようになったさっちゃんを見て、心を満たしてあげる方法がほかにもあるなら、それも大事だという水瀬ミヤコの主張が正しかったことを認める。
「……」
ゼロを示すフィルムカウンター。夕日に照らされても影を落とさない二人。彼女たちは死んでいる。なにをしたってこの事実は変わらない。水瀬ミヤコや、さっちゃんのことを知れば知るほどに僕の心には虚しさが広がっていく。それでも、今日という日が彼女たちにとって意味あるものになったのなら。いまはきっと、それで充分。