第8話 希望的観測
「来栖くん」
自宅の門扉に手をかけたところで、水瀬ミヤコに呼び止められた。
「これからご飯とお風呂でしょ? 私たち、先に部屋で待ってるね」
うなづくと、水瀬ミヤコは二階の僕の部屋を指差してさっちゃんにほほ笑みかけた。意図は伝わったようで、二人はそのまま溶けるように淡く姿を薄れさせる。視線を上げると、僕の部屋の窓辺に並んで立ち、ガラス越しに手を振っていた。便利だな、脅威でもあるが。軽く手をあげて返事を返し、尻ポケットから鍵を取り出す。
水瀬ミヤコは一階に寄り付こうとしない。彼女なりに僕の生活をどこまで犯し、どこまで線を引くか考えてはいるらしい。
「ただいま」
「おお、お帰りハヤト。出かけてたんだな。父さんもいま帰って来たところだよ」
「おかえりなさい、ハヤトちゃん」
声のした台所に向かうと、父さんと母さんがダイニングテーブルに置いたスーパーのレジ袋を覗き込んでいるところだった。職場からの帰りに夕食の材料を買ってきたようだ。
「腹減った、夕飯なに?」
「今日は豚ロースが安くてなぁ! 見ろ、分厚くてうまそうだろ? トンカツにするけど、ハヤト何枚食える?」
「うふふ。お父さんったら、すっかり料理上手になっちゃって」
誇らしげに肉のパックを掲げて見せる父さんの横で、母さんが楽しそうに笑う。たしかに父さんの料理の腕は日に日に上達していた。はりきって作りすぎる、僕の胃袋の容量をいまいち把握できていないという点を除けばなにも言うことはない。
「うーん……一枚でいいよ」
「なんだよ、育ち盛りだろ? もっと食わなきゃ大きくなれないぞ。もう少し肉をつけろ! 父さんみたいに!」
「いいんだよ、僕は父さんみたいにスポーツしてないし。それより早くスーツ着替えてきなよ」
「え~」
ごねる父さんの背中を押して台所から追いやる。クスクスと笑う母さんを見て、僕も苦笑を返した。あの暗く寂しい家を訪ねたあとだと、明るい両親との何気ないやり取りや、この家全体に流れる穏やかな空気がどれだけありがたいものか改めて実感する。この時間が続くのなら、僕はなんだってできる気がした。
夕食と風呂を済ませて二階に上がると、部屋の外からでも水瀬ミヤコの笑い声が漏れ聞こえてきた。小さくノックをして中に入る。なにかの手遊びをしていたらしく、二人は向かい合ってベッドに座っていた。
「おかえり来栖くん。ねえ、さっちゃんアルプス一万尺すっごい上手だよ。早すぎて追いつくのがやっとなの」
「……そっか」
「あっ、あとね、高甘市に住んでるのに銅戸アニマルパーク行ったことないんだって。連れて行ってあげようよ」
「ああ……あの動物園。小学校の遠足でよく行ったな」
「このへんの子はいつもあそこだよね」
「まあ、そこそこ広いし、近いし……。なあ、ちょっといいか」
水瀬ミヤコに近くへ来るよう合図を送る。彼女は不思議そうに首を傾げ、すぐに立ち上がり軽い足取りで近づいてきた。
「なになに?」
「……どういうことだよ、なんでそんな話になってる。 さっちゃんの望みは母親が寂しくしていないか確認することだろ、動物園になんか連れて行ってどうするんだ。母親の行方を探さなくていいのか」
さっちゃんに聞こえないよう、声を落として話す。本来の目的を忘れているような軽々しい提案に苛立ちを覚え、自然と声が硬質な響きになってしまう。
「そうだけど……、いまはなんにも手がかりがないんだし……。 せっかく夏休みなんだから、楽しいこともさせてあげようよ」
「君たちに夏休みは関係ないだろ。それに、生きているときに知らなかった楽しいことを知って、未練が残ったらどうするんだ。あれもやりたい、これもやりたいと欲が出て、余計に成仏しにくくなるかもしれない。それはさっちゃんのためにならないだろ」
「そうかな……私は……そうは思わないけど……」
「なに?」
「さっちゃんが生きている時に知らなかった楽しいことを知るのは、悪いことじゃないと思う……」
徐々に自分の眉間に力が入っていくのがわかる。対照的に水瀬ミヤコは冷静で、考えを整理するようにひとことひとこと言葉を選びながら口を開く。
「自分の人生にもこんなことあったらよかったなって思える瞬間が増えれば増えるほど、早く成仏して、生まれ変わりたいって気持ち強くなるんじゃないかな……。未練を無くしてあげることももちろん大事だけど、心を満たしてあげる方法がほかにもあるなら、それも大事だと思うの……ごめんね、なんか、うまく言えてないかもしれないけど……」
「……君の希望的観測だろ、それは」
「そうかもしれない、けど……」
指摘され、水瀬ミヤコは視線を落として唇を噛んだ。根拠のない、あいまいな主張だとは自分でも理解しているようだ。
「あのね……さっちゃん、きっと死んじゃったときの怖さとか悲しさとか、そういうつらい気持ちまだたくさん残ってる……それ、軽くしてあげたい。笑った顔、見ちゃったんだもん。もっとたくさん、あんなふうに笑ってほしい」
「……」
「さっちゃんを喜ばせたいの! 難しい理由なんていらないよ……来栖くんだって、べつに本気で嫌がってるわけじゃないくせに。子供好きでしょ、わかってるんだから」
最後のほうはじっとりと恨みがましい口調だった。賛成というわけではない。でも、彼女が言わんとしていることを汲み取れないほど情がないわけでもない。さっちゃんに視線をやると、僕たちの会話を気にしているのか眉を下げて不安そうにしている。もちろん、小さな子にあんな顔をさせたいわけでもない。
「……なにかあったら、君が責任を取れよ」
「!」
どうやって取るのか、なんてどうでもいい。いまのはただ、彼女の言葉に素直に従ったと思われたくないだけの意地、なんの意味も無い言葉だ。水瀬ミヤコもそれをわかっている。その証拠に、ただただ純粋に期待を込めた瞳で僕を見上げてくる。
「いいよ。行こう。早いほうがいいよな……明日は? 夏休み中だけど平日だからそんなに混んでなさ――」
「やったーーーー!!」
「馬鹿! うるさっ――」
「さっちゃん! さっちゃん!」
両手を広げて飛びあがった水瀬ミヤコが、さっちゃんの座るベッドにダイブする。
「明日は銅戸アニマルパークに行くよ!」
「……どうぶつえん? ほんとうに行ってもいいの? お兄ちゃんも一緒?」
「そうだよ。 三人一緒、楽しみだね!」
「うん……!」
「やーん。かわいい! いまの見た?」
「あたりまえだろ。見逃すわけがない」
***
銅戸アニマルパークは銅戸市郊外に位置する中規模の動物園で、僕の家からは電車と徒歩で片道四十分程。十八歳以下の入園料は二百円と良心的。特別流行っているわけじゃないが、地元民から静かに愛されてきた場所だ。にこやかな受付の女性からチケットを一枚受け取り、数年ぶりに園内に足を踏み入れた。
「あれっ、なんか前に来た時より綺麗になってる気がする!」
「ひろいね……お花、いっぱい咲いてる」
「二、三年前にリニューアルしたはずだ。案内板は……あれか」
平日ということもあり客はまばらだった。彼女たちと会話をするのに、常に周囲を気にしなくて済むのはありがたい。リニューアルを機に植物にも力を入れはじめたらしく、あちこちに置かれたプランターやアーチに色とりどりの花が咲き園内を彩っている。さっちゃんは忙しくあたりを見回し、浮き立つ気持ちを抑えられない様子だ。
「来栖くん、どこから回る?」
「このルートから行けば……小動物のいるふれあい広場、大型動物のいるサファリエリア、……ああ、爬虫類館なんていうのも出来たんだな。それから最後は猛獣エリアで……うん。一通り回れる」
「いいねいいね、早く行こうよ! おいで、さっちゃん」
「うん!」
水瀬ミヤコが軽くスキップするような足取りでさっちゃんの手を引いて行く。いつも以上に元気があり余っているし、さっちゃんも雰囲気に呑まれているのか今日は表情が柔らかい。二人の姿を後ろから眺めていると、ここに来たことが悪い選択ではなかったと思えてきた。こうしてまた、水瀬ミヤコの起こす波に飲まれ流されている僕の姿は――滑稽だろうか。
「……はっ」
馬鹿馬鹿しい自問自答に乾いた笑いが込み上げる。滑稽なのは流されている姿じゃない、言い訳ばかりしている姿だ。そんなことわかっている。
「早く行こうよー! 来栖くーん!」
「……うん」
思考を振り払うためにかぶりを振る。ばらばらに散ったそれがまた手を伸ばしてこないように、地面を蹴って走る。考えてはいけない。変えてはいけない。何度も繰り返してきた呪文で頭を塗りつぶす。
「……ウサギさん、かわいい」
「かわいいね〜。それに意外と大きいね。さわれないのがくやしい〜!」
「でも、近くにきてくれるよ。サヨリたちのこと、みえてるのかな?」
「私もそれ思ったんだ、この子たち視えてるよね、絶対」
さわることができないのにふれあい広場に寄るのもどうかと思ったが、二人はそれなりに楽しんでいるようだった。本来なら自由に歩き回っているはずのウサギやモルモット、ヤギたちに取り囲まれてまじまじとお互いを観察しあっている。
「ねえ来栖くん、見てないで私たちの代わりにふれあいしてよ〜! 餌やり百円だって、やってみて?」
「周りから見たら男一人で来てるんだぞ僕は。家族連れに不審がられたら嫌だ」
「もー! 気にしすぎ! 動物好きな男の子としか思われないから。ね、さっちゃん。お兄ちゃんに餌やりして欲しいよね?」
「ごはん食べてるとこ、ちかくで見たい……」
「……買ってくるよ」
さっちゃんのお願いなら仕方がない。叶える手段をもつ者が僕一人しかいないんだから、やらないわけにはいかない。
「……ヤギの勢いには驚いたけど、こいつは可愛いな」
あたたかくて柔らかい。なにを考えているのかよくわからない無に近い表情にも独特の魅力がある。膝の上で夢中になって人参を食むウサギを撫でて呟くと、水瀬ミヤコが笑って肩をつついてきた。
「ほらほら~、やっぱり楽しいでしょ?」
「べつに……楽しいとかじゃない。さっちゃんが見たいって言うからやってるだけで……」
「お兄ちゃん、お顔わらってる」
「…………」