第7話 小さな棘
小さな手に導かれて辿り着いた家は、ごく普通の戸建住宅だった。古くも新しくもない淡いベージュの二階建て。駐車場に車はなく、玄関前の小さな植木鉢の土はひび割れていて、かつてそこに咲いていた花の面影も残っていない。
「すみません」
インターホンを押して声をかけてみたが、電源が切られているのか音が鳴らない。
「すみません。誰か」
ドアをノックしてしばらく待ってみても人が出てくる気配はなかった。念のため裏に回って確かめてみたが、どの窓もカーテンで閉ざされ、雑草が伸び放題の小さな庭には子供用の三輪車が横倒しになっている。ピンクのフレームが泥と錆に覆われ、なんとも物悲しい景色だ。さっちゃんが言っていたように彼女の家族がいまもここで生活している気配はない。
「人が住んでる感じしないね……やっぱり引っ越しちゃったのかな?」
「表札は初田のままだし、少しだけど物も残ってる。引っ越したわけでは無さそうなんだけどな……」
さっちゃんは水瀬ミヤコと手を繋いだまま、寂しそうに俯いていた。彼女の望みを叶えるためには母親に関する何かしらの情報が必要だ。このまま何もせず帰るわけにもいかない。
「近所の人に聞いてみるか。何か知ってるかもしれない」
「うん、そうだね。聞き込みしよう! よろしく来栖くん」
隣の家のインターホンを鳴らすと、エプロン姿の中年の女性が顔を出した。警戒されないよう出来るだけ柔らかく丁寧な口調を心がけて話しを聞いてみる。
「すみません。お隣の家に住んでいた初田さんをご存知ですか?」
「はあ……。なにか……?」
「ご家族がいまどこにいるのか、心当たりがあれば教えて頂きたいのですが……」
「どこって……。なにあなた学生さん? 悪ふざけのつもりなの? 嫌だわ、帰ってちょうだい」
慎重に言葉を選んだつもりだったが、女性は眉間に皺を寄せ乱暴にドアを閉めてしまった。
「えーっ! なにあれ、ひどい!」
「まあ、知らない奴がご近所の動向を探ってたら怪しむだろうな。僕でも答えないよ。仕方ない、次を当たろう」
釈然としないものを感じながらも、気を取り直して別の家を訪ねてみる。ある家では引っ越してきたばかりで何も知らないと取ってつけたような言い訳で追い返され、ある家では初田の名前を出した瞬間にインターホンを切られた。気さくそうに見えた人でも、初田家の話題になると目を伏せて口を閉ざしてしまう。まるで触れてはいけない禁忌に触れたかのような反応だった。誰もが初田家のことを知っている、そして誰もが何かを隠すような態度を取る。
「……なんか変だよね。普通、こんなに避けられるもの?」
水瀬ミヤコが小声で呟いた。子供が事故死した家庭というだけで、こんな対応になるものなんだろうか。ただの同情や気まずさではない。もしかしたら初田家には、周辺住民が触れたくない何かがあったのかもしれない。
「来栖くん、大丈夫? 疲れたでしょ? 日も暮れそうだし、もうやめよ」
たしかに、これ以上この辺りで聞き込みを続けても同じような反応しか返ってこない気がする。住人たちの対応にも気が滅入るが、それ以上にずっと俯いたままのさっちゃんの姿が居た堪れない。
「さっちゃん。家族はお母さんだけ? 他に一緒に住んでた人はいなかったか?」
「お母さんと、お母さんのお友達のおじさん。本当のお父さんはおわかれしたの」
お別れ。離婚した母子家庭で、母親の恋人と三人で暮らしていたという事だろうか。なんともいえない沈黙が流れる中、さっちゃんがふいに顔を上げ、繋いでいた手を放した。
「サヨリ、もう公園に帰るね」
「えっ、待って! あの公園、怖い人がいるからやめたほうがいいよ!」
「でも、おうちはもっとこわいから……」
水瀬ミヤコが慌てて声を上げるが、さっちゃんは小さく首を横に振る。日が暮れかけ大きな影を落とす彼女の家は、無人だからというだけではない不気味な空虚感を漂わせていた。外界との接触を拒むようなあの厚いカーテンの奥、電気もない暗闇で一人ぼっちなんて子供にとってどれほど恐ろしいかは想像がつく。この家に居るよりは、街灯や多少の人通りがある公園にいる方がマシに思えるのかもしれない。
「ねえ、いいの来栖くん? あそこに返して大丈夫だと思う?」
「……駄目に決まってる。子供に手を出す変質者がいるんだぞ。さっちゃん、うちにおいで。うちは明るいし、このうるさいのも居る。怖くないよ」
「……いいの?」
「いいの!?」
きょとんとした顔のさっちゃんと、なぜかさっちゃんよりも驚いた顔をした水瀬ミヤコに同じ言葉を返される。
「いいよ、気にしないで。子供が遊べるようなものは何も無くて、つまらないかもしれないけど」
「ううん……。ありがとう、お兄ちゃん」
さっちゃんの前にしゃがんで目線を合わせると、彼女ははにかんだような小さな笑みを見せた。数時間一緒にいて、笑顔を見るのはこれが初めてだ。子供というのはもっと無意味に笑うものだと思っていた。
「さっちゃん、笑うともっと可愛いね〜!」
「わっ……」
たまらなくなった水瀬ミヤコが、さっちゃんを抱きしめて頬を合わせる。さっちゃんは顔を赤らめながらも、拒むことなくそのまま身を委ねていた。
河川敷を歩きながら、腕時計に目をやる。もうすぐ父さんが帰ってくるころだ。空の色はすでに茜色から薄紫へと移り変わり、家々の窓に明かりがともり始めている。
「来栖くん」
さっちゃんと手を繋ぎながら前を歩いていた水瀬ミヤコが振り返った。やけに機嫌が良さそうな顔を見て、そういえばこいつはよく笑っているなと気付く。学園のマドンナとして人気を博した理由はこのあたりにもあるんだろう。人の心を絡めとるのが上手そうだ。
「なんだ」
「ありがとう、優しいね。惚れ直しちゃったよ」
「やめろ。君のためじゃない、さっちゃんのためだ」
「うん。そうだね。子供には優しいんだね? 来栖くん」
「はぁ……」
からかうように目を細める姿を見て、今日何度目かわからないため息をつく。それを聞いて、さっちゃんが心配そうにこちらを見上げてきた。
「お兄ちゃん、おこってる?」
「違うよ、照れてるの」
「おい。勝手なことを言うな。照れてない、呆れてるんだ」
「照れてるんだよ。男の子はね、女の子にまっすぐ褒められると恥ずかしくなっちゃうの」
「そうなんだ……」
「そうじゃない」
楽しそうにさっちゃんに余計なことを吹き込む様子に反論するも、当たり前のように聞き流される。さっちゃんに至っては真剣な顔で頷きながら、水瀬ミヤコの言葉を信じてしまっているようだ。
「まったく……。もういい、僕は先に行くからな」
「あ、拗ねないでよ~。待って~!」
早足で二人を追い抜いぬいて、背後から聞こえてくる水瀬ミヤコの声をやり過ごす。しばらくそのまま歩き続けていたが、あの日、学校の下駄箱の前で彼女を一人取り残した景色が、青ざめた彼女の表情が頭をよぎり自然と足が止まってしまった。
「…………」
水瀬ミヤコはあんな目にあうべきじゃなかった。自分でもどう扱えばいいかわからないほど曖昧な混乱は、黄昏時の静けさの中、小さな棘となって胸の奥に沈み込む。じわじわと痛みを生むその棘のせいで、僕の中の彼女に対する感情が多少なりとも変化してしまっていることに気付いた。
「……やっぱり、優しいね」
いつの間にか隣に水瀬ミヤコが並んでいる。聞こえるか聞こえないかの小さな声で囁いて、また笑って僕を追い抜いていく。
「……優しいのは――」
優しいのはどっちだ。君は今日ずっとその子と手を繋いで、歩幅を合わせて歩いてる。優しさっていうのはそういうものを指すんだ。僕は性格が曲がっているらしいから、そんなこと絶対、君には言ってやらないけど。
さっちゃんの容姿はあえて描写していません。あなたの心の中にいるイノセントで飛びきりかわいい少女を思い描いてください。それがさっちゃんです。(適当なことを言ってみる)