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第4話 大嫌いだ、お前なんて


 エアコンから吹き出す低い風音、ノートの上を滑る乾いたシャーペンの音、グラスの中の氷が溶けて、カランと小さく鳴る。時刻は午前九時。窓の外では夏の強烈な熱気が街を覆い尽くし、アスファルトから陽炎が立ち上っている頃だろう。二十四度に設定されたこの部屋では汗ばむことすらない。快適な温度と静けさのなかで、机に広げた宿題を黙々と解いていく。


「夏休みでも早起きするんだね、来栖くん」


「……」


 背後から水瀬ミヤコの声がした。遠くから響いてくるような、すぐ耳元で囁かれているような妙な感覚。あいかわらず音も気配もなく現れる彼女を無視して、目の前の数式に意識を集中させる。


「無視しないで欲しいなー」


 なにかがうなじにふれた。上から下へと頚椎の突起に沿ってなぞり落ちていく。すぐに彼女の指先だと悟り、身体に力が入った。生きている人間とはまるでちがう、冷たく無機質な感触に鳥肌が立つ。

 

「やめろ、僕にさわるなと言ってるだろ」


「可愛い女の子にさわられて嬉しくないなんて、来栖くん変わってるね?」


「君の手は体温を感じなくて気色が悪い、死体みたいだ。嬉しいわけがない」


「死んじゃってるんだから仕方ないよ。慣れてもらわなきゃ」


「慣れる必要なんてない。君がさわらなければいいだけだ」


「こーいうのなんて言うんだっけ? 押し問答? 暖簾に腕押し?」


 まるで意に介さない様子で彼女が机の隣に立った。こんどは手の甲から二の腕にかけてを人差し指でなぞられる。意識させようとするもったいつけた緩慢な動き。顔を上げず、ノートに視線を落としたまま強くシャーペンを握りしめた。不快だ。生きている人間のように振る舞うくせに、ふれられるたびに「死」を意識させられる。気に食わない。


「……馬耳東風(ばじとうふう)


「え? なあに?」


「なんでもない。静かにしてくれ、宿題をしてるんだ。君にはもう関係ないからって邪魔するな」


「もー、真面目すぎない? 終わったらちゃんと私の相手、してよね」


 ようやく視界から水瀬ミヤコが消え、張りつめていた糸がゆるむ。息を吐き、首筋をさすった。まだ冷たい感触が残っている気がする。取り憑かれたことで、彼女のほうからは僕にさわれるようになった。けれど僕から彼女にふれることは、相変わらずできない。こうやっていたずらにちょっかいをだされても、力で抵抗してやめさせることが出来ないのだ。選択肢は文句を言うか無視を決め込むかのみ。僕に不利な条件があると先に知っていれば「協力」を約束したりしなかった。


「いい天気だね」


 窓の外に目をやり、水瀬ミヤコがまぶしそうに目を細める。日差しは淡く透ける体を通り抜けてフローリングに落ちていた。狡猾だ、と思う。人を惹きつける容姿の良さを理解し、警戒心をすり抜ける無邪気さと異様に大人びた立ち居振る舞いを使いわける。まんまと絆されて、思い通りに誘導されてしまった自分が忌々しい。





***






「ハヤトちゃん、もうお昼よ。降りていらっしゃい」


 母さんの声が聞こえて、卓上時計に目をやる。午後十二時十三分。腹の奥がじわりと空腹を訴えかけてきた。


「いま行くよ、母さん」


 椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。背中で骨が心地よく鳴り、なんとなく満足感を得る。机の上に散らばった宿題や筆記用具を片付けて部屋のなかを見渡すと、水瀬ミヤコの姿はどこにもなかった。


「宿題は進んでる? 真面目にお勉強するのは偉いけど、ずっと机の前に座っているのは良くないわ。気分転換に午後はお散歩でもしてきたら?」


「でも、外暑いし」


「そんなこと言ってたら夏のあいだじゅうお外に出られないじゃない。近場でも帽子と日焼け止めを忘れないでね。 ハヤトちゃん、お父さんに似てすぐ赤くなっちゃうから」


「うん……」


 一階の居間で昼食をとり、母さんと他愛のない雑談を交わす。いつもどおり僕を心配してばかりだけど、今日の母さんは顔色がいい。しばらく布団に臥せっている姿を見ていない。良いことだ、本当に。食事を終えて食器を流し台に片付けると、母さんが柔らかく微笑んで、いつもありがとうと言った。いいよ、と僕も笑顔を返す。



 部屋に戻ると、ベッドの上で水瀬ミヤコが眠っていた。目をつぶって腹のあたりで指を組んでいる姿に、嫌でも棺桶に横たわる遺体を連想してしまう。奇妙なことに彼女の胸は規則正しく上下していた。耳を澄ませても息を吸い込む音や吐き出す音は聞こえてこない。おそらく生きていた頃の習慣で、体がいまも無意識に呼吸の動きをしているらしい。


「ごはん終わった? 話したいことがあるんだけど」


「起きてたのか……」


「寝ないよ? 死んでるもん」


「覚えておくよ」


 幽霊は寝ない、疲労回復や休息の必要はないらしい。ため息をついて椅子に座る。水瀬ミヤコも上体を起こし、ベッドに座りなおした。


「話って?」


「出かけようよ、そのほうが説明しやすいの。近くに公園あるでしょ、あそこでいいから」


「外は暑い。うちじゃだめなのか?」


「うん。外がいい」


「……嫌だ」


「いいから! 無理やり引きずられたい? 私にさわられたくないんじゃなかったの? 早く準備して、来栖くん!」




***




「うんうん、ここでいいよ。この公園、ばっちりだよ」


 家から十分ほど歩いたところにある公園に着くと、水瀬ミヤコが満足気にうなづいた。外遊びは苦手だったけれど、母さんに連れられて僕も子供の頃たまに来ていた公園だ。当時から遊具はどれも少し古びていたが、子どもたちの遊び場としてまだまだ健在らしい。ブランコに乗ってはしゃぐ小学生や砂場で遊ぶ幼児、それを見守る母親たちの姿が見える。日差しを避けるため、それから独り言を喋っている姿を周りの人たちに見られないように、木陰に入って水瀬ミヤコに向き直った。


「それで、話ってなんだ?」


「来栖くん。あそこのシーソーのそばにいる女の子、みえる?」


 指差された場所にはいろいろな動物の形を模したスプリング遊具やシーソーが並んでいる。すぐ近くに少女が立っていた。


「ああ」


「あそこの木の下にいる男の人は?」


 次に指差した木々の隙間には、なにかの点検中なのか青いツナギを着た男の姿が確認できた。


「……あの作業着の人か? 見えるよ」


「じゃあ、あそこのベンチに座ってるお爺さん」


 今度は子供たちが遊んでいる砂場近くのベンチを指差す。腰の曲がった白髪の老人がこじんまりと腰を下ろしている。


「見える。おい、なにがしたいんだ水瀬ミヤコ」


「じゃあ、いまあなたのうしろにいるヒト、みえる?」


「……」


 指は僕を指している。誰もいないことを確認してからここに落ち着いたし、水瀬ミヤコと話しているあいだも周囲に気を配っていた。誰かが近付くような物音も気配もしなかった。後ろに人なんていない。確信をもって振り返る。


 「……っ」


 あと一歩で手が届くという距離に女が立っていた。明るい茶髪に濃い化粧の、垢ぬけた大人の女。顔だけは正面を向いているが、首も、胸も、腹も、腕も、脚も、しぼった雑巾のようにねじれていた。肋骨が皮膚を突き破り、肉が服を巻き込み、人とは思えない塊になっている。


「視えてるみたいだね?」


 見えてる、見えてるよ。だから、どうにかしてくれ。嫌だ、これ以上は見ていたくない。そう思うのに、目を離せば次の瞬間にでもなにか悪いことが起きそうで、まばたきすらできない。おぞましくねじれた部分からはどうしても目を背けたくて、必然的に女の顔を見ているしかなくなる。光のない虚ろな瞳に僕の姿を映し、女が笑いかけてきた。徐々に持ちあがる口角がひどく恐ろしい、見たくない、だめだ、これは見ていていいものじゃない。


「だめ。この人は私の」


 水瀬ミヤコが低く落ちついた声で告げた。女は半端な笑みを僕に向けたまま、黒目だけを横に動かして彼女へと視線を移した。なんの感情も浮かばない瞳で、じいっとねめつけたあと、急に興味を失った様子で僕たちの横を通り過ぎていった。骨がきしみ肉が擦れあう奇妙な音をたてながら。


「もういいよ、来栖くん」


 音と気配が完全に消え、水瀬ミヤコの声に軽やかさが戻る。詰めていた息を吐き出し、冷たくなってしまった指先を握り込んだ。


「……なんだ、いまの」


「幽霊だよ、私と同じ」


「同じって……ちがう、君とは全然……あんな、あれは……化け物だ」


「ずっと成仏できないでいるとね、どんどん自分のことを忘れていって、元の形を維持できなくなっちゃうんだって。あの女の人、きっと自分が誰でなにをしてるのかもわかってないよ」


「成仏できないでいると……? そんな、それじゃあ――」


「ああなる前に、私のこと好きになってね」


 可愛らしく小首を傾げて水瀬ミヤコが僕の顔を覗きこんだ。木々の葉が風にざわめき足元に無数の影が躍る。柔らかく微笑みかける姿が、さきほどの異形の女と重なる。視界の端が急速に狭まり、目の前が暗くなっていく。だめだ、考えるな。考えてはいけない。


「来栖くん、大丈夫?」


「……大丈夫な、わけ……」


 ないだろ。口の中が乾いてうまく言葉にできない。指先は痛いほど冷えているのに、嫌な汗がにじんでくる。額に伸びてきた指が張りついていた前髪をそっとかきわけた。いつまでも慣れない死人の温度に首筋がざわつく。


「……怖いよね」


 悲しそうで、どこか哀れむような響きだった。望みが叶わず成仏できなければ、見た目だけは可憐なこの女もいずれは。あんな、おぞましい――


「待て。どうして急にあんなものが視えるようになったんだ、君が関係あるのか?」


「え、来栖くんああいうの視たことないの? 一度も?少しも? 」


 ふと浮かんだ疑問を投げかけると、なぜか不思議そうな顔で質問を返された。


「あたりまえだろ。だから驚いてるんだ」

 

「……ふーん。私のことも視えてるんだから、もともと霊感みたいなもの強いんじゃないかと思ってた。じゃあ、これも慣れなきゃだね。これからはたくさん視るよ」


「どうして」


「私が取り憑いちゃったから。幽霊を視る感度っていうのかな、それが強くなっちゃったの。ちなみにあの女の子も、あの作業着の男の人も、あのベンチのお爺さんも、みーんな幽霊。百発百中、よく視えました」


「……」


「あれ、どうしたの来栖くん? 顔色悪いよ、もしかして怖いの苦手? 大丈夫だよ、目を合わせなければほとんど関わってこないと思うから。たぶんね?」


 ああ。この顔、この満面の笑み、間違いなく意図的に隠していたに違いない。強制的に強い霊感が備わるなんて重要なことは先に言うべきだ。そんな苦情を申したてたところで彼女はまともに取り合わない、わかりきっている。やられた。水瀬ミヤコは狡猾なのだ。わがままで、強引で、計算高くて、僕のことが好きだと言いながら恨みも忘れない。

 

「大嫌いだ、お前なんて」

 

 精いっぱいの抵抗に、あきらめをこめた台詞を吐き捨てた。

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