第20話 おうちにつくまでが
くすんだ真鍮の取っ手を握り、扉を押し開ける。磨き込まれた格子ガラスが光を弾き、落ちついた店内の照明に慣れた目に暴力的な日差しが降りそそいだ。一瞬、視界が白く飛び、抗いきれずに強くまぶたを閉じる。耳に馴染んでいたジャズピアノの余韻はかき消され、街のざわめきが徐々に現実感を呼び戻す。水瀬ミヤコが僕の隣をすり抜けざまに振り返った。
「行こっか?」
じっとりと肌にまとわりつく外気に飛び込むのは、大げさではなく覚悟がいる。冷房と珈琲の香りへの名残惜しさを胸の奥にしまいこみ、並んで商店街への道を歩きはじめた。
「いつまで続くんだろうな、この暑さ……」
「私はもう暑いとか寒いとかわかんないけど、いつもきっちりしてる来栖くんがだるだるになっちゃうの、結構好き」
「……答えになってない」
アスファルトからの照り返しが強く、空気は相変わらず熱気を孕んだまま。すれ違う人々も一様に暑さに顔をしかめ、ハンカチで汗を拭ったり手にした雑誌やうちわで襟元に風を送ったりしている。
「さわってあげようか? 私、ひんやりしてるんでしょ?」
水瀬ミヤコがこちらに両手を開いて見せた。僕に取り憑いた日とまるで同じ、汗ひとつ滲んでいない涼しげな顔。重力を無視して、風もないのに揺れる髪やスカート。彼女だけがこの世界の物理法則から切り離されている。
「結構だ」
「強情なんだから。遠慮しないで、ほらほら」
そっけない僕からの返事など意にも介さず、悪戯っぽい含み笑いと共に背後に回りこんでくる。十本の指が喉に絡み、冷たい手のひらがうなじに押し当てられる。
「……っ」
氷の針を打たれたような悪寒が背筋に走り、足が止まった。涼を得たときの快適さなどまったく感じられず、ただ筋肉がこわばる。
「どう? 涼しくなった?」
「……いや、気持ち悪い……」
「もー!」
振り払いたい衝動をこらえただけでも褒めてほしいくらいなのに、水瀬ミヤコは不満そうな声をあげて唇を尖らせた。首から手を離し、自分の指先をいじり始める。
「……気持ちだけ受けとっておくから、不用意にさわらないでくれ」
「んー……」
生理的嫌悪や自己防衛本能、あるいは種の記憶とも呼べそうな原始的恐怖。僕たちのあいだには理性ではどうにもならない境界が横たわっている。ふれ合った途端、体の芯が警鐘を鳴らし、生者と死者であることを思い知らされる。慣れるには時間と努力が要る、というか、そもそも慣れていいものではないんだろう。きっと。
ふたたび歩き出し、いじけたように毛先を指に巻きつけて弄んでいる姿を横目で盗み見る。
いままで彼女が悪戯にふれてくるのは、単に僕をからかうためだと思っていた。だが、違うのかもしれない。こうすることでしか、自分がまだここにいることを確かめられないのではないか。体温や質量を失い、取り憑いた人間以外にはふれられない、食事を楽しむこともできず、眠りに就くこともない。そう考えた途端に、霊の抱く孤独が生々しい輪郭をもって見えてくる。
さっちゃんがいなくなってしまったいま、僕が相手をしてやれない時間を彼女はどう過ごしているのだろう。暗闇のなか、ただ虚空を見つめる水瀬ミヤコの横顔を想像する。僕がいままで彼女に関心を持たなさすぎたのは認める。いまからでもなにか、あの長い夜をやり過ごすためのものを。小説にはあまり興味を示さないが、ファッション誌や漫画ならどうだ? 手に入れやすいし、燃やして届けることも簡単だ。帰りに書店にでも寄って適当に見繕ってみようか――
「……水瀬」
はたと我に返り、思考の海から顔を上げる。隣を歩く水瀬ミヤコがやけに近い。
「なあに?」
「なにしてるんだ、離れろ」
シャツ越しに伝わる冷たくて柔らかな感触。自分の肌が粟立っているのがわかる。いつの間にか彼女の腕が僕の腕にしっかり絡みついていた。
「さわらないでくれと言ったばかりでこれか……どうかしてるぞ君……」
「だって、せっかくのデートだったのにこういうドキドキ接触イベントなかったんだもん。腕ならまだマシでしょ? 気分だけでも、ね?」
どうせ振りほどけないくせに、とでも言いたげな笑みを添えて見上げてくる。振り払えないのだ、実際。
「デートは中止になっただろ」
「おうちにつくまでが遠足ルール知らないの?」
「我を通すために筋を通さないのはやめろ」
「真面目だなぁ。素直に喜んじゃえばいいのに」
ふざけ半分のやりとりにため息を返そうとしたとき、腕に絡んでいた彼女の指先に、ぎゅっと力がこもった。
「ん。来栖くん、前。気をつけて。グレーのスーツの男の人」
「!」
少しトーンを落とした水瀬ミヤコの声。すぐに前方を確認する。数メートル先、くたびれたスーツ姿の男が腕時計を気にしながら足早に近づいてくる。ぶつかるからよけろと言われているんじゃない、アレに反応してはいけないという意味だ。
「タクシー拾えばよかったかなぁ……いまからじゃもう……」
ああ、たしかに透けている。独り言が聞こえる距離まで近づいてようやく彼が幽霊なのだと認識できた。視えていることを悟られないよう歩調を崩さずに歩き続ける。
「なんで今日に限ってこんな……ええと、次のかどを……」
もうぶつかる、というところで男の体が僕の体に重なり、通り抜けて行く。なんの感触もない。はじめの頃はよけるなと言われるたびに息を詰めてしまうこともあったが、最近はだいぶ慣れてきた。
「よくできました。慣れてきたね来栖くん」
「まあな」
「でも、油断は禁物」
「わかってるよ」
なんなくやり過ごせた余裕から、軽く笑みをまじえて水瀬ミヤコに返事を返す。そうして前に向き直った瞬間、心臓が跳ねた。数メートル先。くたびれたスーツ姿の男が、腕時計を気にしながら早足でこちらに向かってくる。
「……っ」
「あ……、そういうタイプ……」
どういうタイプかと問いただす暇はなかった。さっきと同じ――いや、さっきよりも距離が近い。少し顔を上げているのか、輪郭がはっきりしている。
「タ……シ……ば……よ……った……かな……」
ノイズ混じりの独り言が耳を掠める。男が体のなかを通り抜ける。ぐんと空気が重くなる。
「うっ……」
「落ちついて、来栖くん……」
水瀬ミヤコに顔を向けようとするが、首から上だけが金縛りのように動かなかった。前方にまた男が現れる。今度は、ほんの数歩先。さらに距離が縮まっている。前髪に隠れた目元がほとんど見えかけている。
「次の……かどを……つぎ……つぎ……つぎ……」
擦り切れたテープのように言葉が崩れていく。もう一度、男が僕の体をすり抜ける。濡れた布で覆われたように全身が重くなった。息が詰まる。嫌だ、前を向きたくない。意思とは関係なく、今度は視線までが動かせない。
「あっ、だめ……!」
――目の前、だった。白い顔をした男の、虚ろに開いた真っ黒な瞳孔が、目の前にあった。
***
ゆうなぎ通り商店街の文字が掲げられたアーチをくぐり抜けて、ようやく走るのを止めた。膝に両手をついて、荒い呼吸を整える。顎の先から滴り落ちた汗がアスファルトに小さな染みを作っては消えていく。
「はぁっ、ついてきて、っ、ないよな……?」
痛む脇腹を押さえながら顔を上げ、周りを見回した。人の流れのなかに、建物の影に、あの忌々しいグレーのスーツが紛れていないか必死に目を走らせる。
「うん、大丈夫。いないみたい」
「……くそっ。なんだったんだあいつ……っ、はあっ……」
「いたずら、だと思う……遊ばれたね……?」
「遊び? あれが? 趣味が悪すぎる……」
あの男が目の前に立った瞬間。喉が勝手に鳴り、弾けるように意識が途切れた。気がついたときには水瀬ミヤコに手首を握られて、全力で走り出していた。流れていく景色のなかに何度も何度もあいつが現れる。走って、走って、走って、全身が心臓になったと思うくらい、自分の鼓動の暴れる音しか聞こえなくなって――それから唐突に男は消えた。あれが遊び……。くそ、腹が立つ。
「まあまあ、あれくらいで逃がしてもらえてよかったよ。美味しいもの食べて、機嫌なおそ?」
なだめるように言う水瀬ミヤコに八つ当たりじみた感情が沸き上がるが、なんとかこらえる。腹立たしい記憶を振り払うため乱暴に前髪をかき上げ、ゆうなぎ通り商店街のアーチを仰ぎ見た。スピーカーからはヒット曲が流れ、八百屋や魚屋の威勢のいい呼び込みがそれに重なる。古本屋の店先で立ち読みする人、自転車のベルを鳴らしながら器用に人波を縫っていく人。無許可に僕の体内を通過していかない、血の通った生きている人間の体臭に安堵すら覚える。大型複合施設に客足を取られてかつての勢いを失いつつあるとはいえ、ここはまだ十分に活気を保っているようだ。
「あっ、来栖くんあそこ! あのお肉屋さん! ねえほら、いい匂いしてくるでしょ?」
水瀬ミヤコがはしゃいだ声を上げて指さした先には、年季の入った黄色の暖簾を掲げた精肉店があった。店先から揚げもの特有の香ばしく食欲をそそる香りが漂ってくる。
「本当だ、いい匂い……。うまそうだな」
手際よく客をさばく店主からメンチカツを受け取り、邪魔にならないようシャッターの下りた畳店の脇に移動する。隣で目を輝かせている水瀬ミヤコの期待を背負いながら油紙を開き、こもっていた湯気を逃がして勢いよくかぶりついた。黄金色の薄衣に歯を立てると、すぐに熱い肉汁が口内に溢れ出す。粗めに挽かれた肉の旨味と、たっぷり入った玉ねぎの甘み。そして彼女が言っていた通りナツメグの香りがいいアクセントになっている。これはたしかに、わざわざここまでくる価値がある味だ。
「……うまい」
「でしょー? わかるわかる、おいしいよね」
自分が食べているわけでもないのに水瀬ミヤコは嬉しそうに笑う。あまりにも無邪気で、見ているとさっきまでの苛立ちや恐怖心を忘れてしまいそうになる。
「自分は食べることができないのに、どうしてそんなに楽しそうなんだ」
「好きな人がおいしいもの食べてる姿って、見てて幸せにならない?」
「……さあ。僕が君のそういう姿を見る機会は、もう無いし」
髪を耳にかけようとしていた水瀬ミヤコの動きが、ぴたりと止まった。栗色の瞳を瞬かせて、じわじわ頬を赤く染めていく。――しまった。直前の自分の言葉を反芻し、何気なく口にしたそれが、どんな意味を持つかに気づく。
「……いまのは、違う。口がすべっただけで……そういう意味じゃ……」
「うん、うん……」
髪をととのえて、ぎこちなくほほ笑む。目を逸らして、スカートの裾を伸ばす。平静を装おうとしているのがまるわかりの動揺の仕草をくり返したあと、やはり耐えられなかったのか両手で顔を隠してしゃがみ込んでしまった。髪のあいだから覗く耳まで赤い。デジャヴだ、こんなことが前にもあったな。
「……あの、そういうとこ……心臓に悪いから、やめて来栖くん……」
「……悪い」
心臓、動いてないだろ。とは言わないでおいた。少しの居心地の悪さと優越感に似た不思議な感情を胸に、黙々とメンチカツにかじりつく。おうちにつくまでが遠足か。たぶん、こういうことなんだろうと妙に納得しながら。
来栖くんの天然デレとそれを食らって無事死亡するミヤコちゃん、書いていてとても楽しい……。