第19話 いまはだめ
「溶けちゃうよ」
水瀬ミヤコの声に意識が引き戻される。指差された先を目で追うと、クリームソーダのグラスはすっかり水滴に覆われ、パフェの頂点に鎮座していたチェリーが溶けたアイスクリームの海に沈みかけていた。思った以上に長いあいだぼんやりとしていたらしい。
「……悪い」
「うん。それでさっきの続きだけどね」
「……?」
「あはは、やっぱり聞いてなかった」
なんの話をしていたのか、頭の中を探ってみても欠片も思い出せない。気まずさを誤魔化そうと手近にあったクリームソーダのグラスに手を伸ばし、溶けたバニラアイスと混ざりあった甘い液体を無理やり喉に流し込む。水瀬ミヤコはそんな僕を見ても気分を害した様子はなく、むしろ面白がっているように見えた。
「すまない……なんの話だった?」
「ふふ、だからね――」
たとえ沈んだ心を抱えたままの気が乗らないデートだとしても、表面上を取り繕う程度なら問題ないと思っていた。話を聞いているふりをするくらいの誠実さは持ち合わせているつもりだったのに、これはあきらかに僕の落ち度だ。努めて申し訳なさそうな表情を作り問いかけると、水瀬ミヤコはまた小さく笑って首を傾げた。
「それもう飽きちゃったって言ったの。いつまでその来栖くん続けるの?」
「……なにを……」
「連れまわしてるうちに、疲れて素が出てくるんじゃないかと思ったんだけどなぁ。やっぱり来栖くんはそんなに単純じゃないか」
なにやら一人で納得している様子に、自然と眉間にしわが寄る。仕草はいつもの水瀬ミヤコらしいものだった、けれどなにかが違う。彼女の瞳は笑っていなかった。いつもは悪戯っぽく細められる挑発的な瞳が、いまはただ静かにふたつ並んでいるだけ。
「ちゃんと私のこと見てくれたの、何日ぶり? 来栖くん」
「!」
「最近、ずっと優しいよね。私がなに言っても、なにしても文句ひとつ言わないの。今日は特にそう。……嬉しくない。こんなの来栖くんらしくない、変だよ」
らしくないなんて、そもそも君が知っている僕なんて――。反射的に喉元まで上がってきた言葉は形になる前に飲み込んだ。凪いだ湖面のように揺らぎひとつない瞳の奥底で、胸のうちを探られている気がして息が詰まる。
「……多少は君に対して好意をもってる、優しくするのは変じゃない。好きな男に優しくされたら、君だって悪い気はしないはず――」
「私そんなに馬鹿に見える?」
「……」
「それを好意だと勘違いして喜ぶように見えるかって聞いてるの」
「……見えないよ」
「でしょ? 知ってる」
微笑を投げてよこす彼女の瞳に、ふと鋭さが宿る。弱さや空虚さを見透かされるのが嫌で、慰められるのも寄り添われるのも嫌で、意識的に彼女と視線を合わせることを避けていた。そうやって線を引く姿勢や曖昧な返事を、これ以上はもう見逃してくれる気がないみたいだ。つまり僕は最初からうまくなどやれていなかったんだろう。水瀬ミヤコ相手に偽りのふるまいが見抜かれないわけがない。自分のあさはかさに気付かされ、ため息が漏れる。
「いまの来栖くんはね、一言で例えるなら、そうだなぁ……」
わざとらしく指で頬をトントンと叩き、悩まし気に目を瞑って、考えていますという素振り。追い打ちをかける言葉なんてきっとはじめから用意していたに決まっているのに、なにかしらの演出を挟まないと気が済まないらしい。
「腑抜け」
「……デート相手に言う言葉か」
「だって、そうなんだもん。私のことが大嫌いだって言ってた来栖くんのほうが、いまのあなたよりずっとマシ」
「……」
笑顔で告げられる非難の言葉に、ただただ罪悪感が募っていく。
「ほら、文句言いなよいつもみたいに。なんで黙っちゃうの? 私に好き勝手言われて悔しくないの?」
「べつに、そんなこと……」
「そんなこと、ない? ふーん、私がなにを言ったってどうでもいいんだ? ……ほんとつまんない、こんなの時間の無駄かも」
普段の彼女からは想像もできない、歪んで、険のある言い方。喧嘩を売っているに近い。ころころと表情や口調を変えて翻弄しようとする術中にはめられないよう、冷めたコーヒーを口に含み舌先に広がる苦みを味わう。責める言葉、その裏側に見える必死さ。彼女がわざと僕を揺さぶろうとしていることはわかる。胸のうちに渦巻く感情を表に引きずり出そうと、そうすることでしか本来の僕を取り戻せないと信じて、追い詰めてくる。
「もういい、やめろ、君の魂胆はわかってる」
「えー? 本当に? わかっててもうまく言い返せないってこと? あんなに本ばっかり読んでるのに、自分の感情は上手に言葉にできないんだね? なんかガッカリだなぁ」
「水瀬!」
自尊心が刺激されたわけじゃない。これ以上、彼女につらい役割をさせたくなくて反射的に声を荒らげた。静かな店内に異質な空気が流れる。
「お客様……?」
「すみません、なんでも……ありません」
怪訝そうな顔をした店員が通路からこちらを覗き込んできた。すぐに立ち上がって頭を下げると、僕たちのテーブルと周囲の様子を一瞥し、戸惑いながらも引き返していく。その背中を見送り、席に着いて深く息を吐いた。水瀬ミヤコは強張った表情でじっとしている。
「悪い、脅かすつもりは……」
「ねえ来栖くん、私はまだそばにいるよ。怒っていいし、嫌味も皮肉も聞いてあげる。勝手に一人であれこれ背負い込んで、私のこと見てくれないのがいちばん嫌。私なんかここにいないんじゃないかって、本当の本当に死んじゃった気分になる」
「……」
「寂しいの、わかるよ、私もすごく寂しい。来栖くんのことだからいろいろ深く考えちゃうんだろうなって、それも……なんとなくわかる。きっと、さっちゃん以外にも……私……とか、いろんな人が周りからいなくなること、怖くなっちゃったのかなって」
彼女にしては歯切れの悪い、だからこそ慎重に言葉を選んでいるのが伝わる話しかた。否定しようがなかった。大切なものが、温かい繋がりが、この手からこぼれ落ちて消えてしまう感覚。そうしてもう二度と応えてくれなくなる、取り返しのつかない断絶。怖いよ、すごく怖い。
「でもね、悪いことはもう終わってるんだよ。私は一ヵ月前、さっちゃんは二年も前に。終わってるし変えられない。それでね、なんていうか、成仏できたのは良いことで、悪いことだけ見て悲しみ続けるのは……生きてる来栖くんがずっとしてていいことじゃないよ。どこかでやめなきゃ、ダメになっちゃう」
「……死んだことを後悔してほしいと望んでいる君が、感傷に浸るのをやめろって言うのか。矛盾してる」
「そうだね、それも私の望みのひとつ。でもさっちゃんの望みじゃないよ。さっちゃんは私たちにいつまでも落ち込んでいて欲しいなんて思ってない。うじうじ落ち込んで悲しみに溺れちゃうって感じのは、私の番まで取っておいてよ」
「は……?」
「私がいなくなったあとは、世界の終わりってくらいドン底まで沈んで。好きなだけ嘆き悲しんでいいよ。でも、いまはだめ。もう許さない。悩む暇もないくらい、朝も昼も夜もずーっと邪魔してやるから。冗談だと思う? 幽霊はヒマなの。本気でできちゃうんだからね?」
悪びれることもなく水瀬ミヤコは言い切った。自分が去ったあとを前提にした、悲しむ権利すら指定する言葉に呆気に取られ、開いた口が塞がらない。こちらの感傷などお構いなしに自分の都合で状況を書き換えようとする強引さ。そうだ、彼女は強引なのだ。はじめからずっとそうだった。
「……君が、どうしようもなくわがままで身勝手で強引な女だってこと、忘れてた……」
「そっちこそ頭が良くて影のある、繊細な文学少年の設定じゃないの? いまの来栖くんはただの根暗にしか見えないんだけど」
「本当に失礼なやつだな」
「んー、ちょっと調子でてきたかな? でもまだまだ効かないよ?」
顎を上げて、小馬鹿にするような表情を向ける水瀬ミヤコ。憎たらしいはずなのに、僕の目には酷くいじらしく映る。自分の抱える不安ばかりに気を取られ、すぐ隣で寂しさを訴えていた彼女の気持ちをないがしろにしていた。どちらにせよ悔いは残る。どうあがいても終わる。それなら、いま僕が見るべきものは――。しばらくのあいだお互いに不躾な視線を浴びせあって、それからほぼ同時に小さく噴きだした。
「デートはどうする?」
「残念だけど中止かな、私たちにはまだ早いみたい」
「同感だ。これ、食ったら帰ろう」
「あっ、ねえねえ。この先の商店街のお肉屋さんに、すっごい美味しいメンチカツあるんだよ。帰る前にそこ寄ってこ?」
「メンチカツ?」
「うんうん。お肉ごろごろで、少し甘めでナツメグが効いてて、おいしいんだよ~」
花の蜜を主食にしていると言われても、そうか、と流せてしまえそうなくらい線の細い彼女が、男の買い食い代表格のようなメンチカツについて熱心に語るなんて意外だ。なんなら喫茶店のメニューを選んでいたときよりも顔がとろけている。
「いいな。ちょうど腹も減ってきてたんだ」
「本当に甘いものは食べたことにならないんだね……?」
張り詰めていた糸が切れる。さっきまでの刺々しい空気が嘘のように、ゆるく取り留めもない会話が続くようになる。窓から差し込む光が空気中の埃をきらめかせ、水瀬ミヤコのまわりを舞っていた。あの夜さっちゃんを包み込んだ光を思い起こす。
――幸せそうだった。彼女たちにとってつらいことではないんだ。
「水瀬」
「なに?」
「ありがとう」
「……いいよ。でも! 本気で怒っちゃうんじゃないかって、すっごく緊張しちゃった。もうこんなことさせないでね」
「約束できない。僕は……そんなに強くない。だから、もしまたこうなったときは邪魔してくれ。ヒマなんだろ」
挑発的に細められた瞳に、胸が軽くなる。溶けたアイスも、冷めたコーヒーも、さっきよりずっとうまく感じた。いつか足を取られて溺れる日が来る、それは避けられなくても水瀬ミヤコは簡単に僕を手放したりしない。彼女は必ず手を伸ばして、水浸しになって僕を引き上げて、まだ許さないと笑うんだろう。
――それなら少しだけ、ほんの少しだけ、■■■を失う日の痛みに耐えられるかもしれない。
鼻先がツンと痛んで、視界が滲んでいく。それを悟られたくなくて、うつむきながら黙々と皿をカラにしていった。
淡い、絶望的な光を両手で掬い取って、また心の奥底にしまい込む。考えてはいけない。なにも変えてしまってはいけない。わかっているのに、守ってきた壁にひびが走り始めているのを止めることができない。もう戻れないのかもしれない。彼女の差し出す手の優しさを、この変化の甘やかさを、拒めなくなってしまったから。
来栖くんはいわゆる「信頼できない語り手」